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いじめ、差別、偏見……玉城デニーを救った「育ての親」の一言|藤井誠二

ノンフィクション作家の藤井誠二さんは、最新刊『誰も書かなかった玉城デニーの青春〜もう一つの沖縄戦後史』(光文社)を上梓しました。玉城デニーさんは2018年9月、前沖縄県知事・翁長雄志氏の死去に伴う知事選で圧勝、選対本部でカチャーシーを舞い踊った姿は記憶に新しいところです。藤井さんは今回、なぜデニーさんの少年期から青年期に焦点をあてたのでしょうか。そこから見えてきたのは、「沖縄戦後史」の生々しい断面でした。発売を記念して本文の一部を公開いたします。

貴重な「聞き書き」

デニーには『ちょっとひといき』(琉球出版社)という著書がある。発行日は2002年8月。デニーが沖縄市議会選挙で史上最高得票当選したのがその年の9月だから、その直前に出版されたことになる。本書の中でデニーは政治家の道を選択したことについての思いや、叶えたいことについて語っている。政治家を志して始動する時期に聞き書きというかたちでまとめられたものだろう。

この本には、1995年からスタートしたRBCラジオ「ふれ愛パレット」でデニーとコンビを組んだ當眞さゆりが聞き手となったパートが挿入されている。なぜか私は沖縄県内の古書店でも見かけたことはないが、デニーの幼い日々から若き日に至るまでの写真が掲載されていて、興味深い。それを参考にしながら、当時の風景を再現してみる。

遊説の出発地に選んだのは……


デニーが預けられて暮らしていた知花家の近所には米兵相手のバーが並んでいた。表向きの店構えはコンクリートだったが、屋根はトタン屋根だった。デニーが住んでいた知花家も木造建てセメント瓦で、台所はトタンの屋根だった。トタン屋根に雨が降る音、台風の激しい雨風がトタン屋根を叩きつける音は、デニーの記憶の原風景をなしているようだ。板ぶき壁の隙間から風が吹き込んでくるときの寒さ。冬の時期に体を暖めた火鉢の木炭の臭い。木炭がはぜる音。隣近所はみんな木造の家が多かった。

《おっかーと暮らしていた頃は、ガラス製の石油ランプを明かり用に使っていたこともあります。そのガラスのホヤの中が真っ黒くなっているのでそれを「フヤ シタチョーケヨー」(ホヤをきれいに掃除しなさい。きれいにしておきなさいよ)と言われて、手を煤で真っ黒にしながら掃除したり。使用中の熱いホヤに触ってしまってやけどした痛い思い出もありますね。トマトをとって食べたとか、焼き芋を焼いて食べたとか、ウーマクー振りを発揮する年頃になっていくわけです。幼稚園ぐらいからテーゲーなかなりの腕白でした。
小学校の五年生から六年生の一時期に、沖縄市のセンター通り近くに住んでいた頃がありますが、小学校はずっと与那城小学校に通っていました。「よくあれだけの遠い距離をバスで通っていたね」って驚かれたりしましたが、ウーマクーのぼくにはそれもまた楽しいバス通学でした。1970年頃で日曜日の朝早く起きて、センターからゲートまで舗道に小銭が落ちていないか探して歩きました。小銭どころか、時々一ドル紙幣を拾う時もあって、そんな時はみんなにベスト・ソーダをおごりましたね。その頃にはボーイスカウトに加入していたこともあります。キャンプやハイキングと、体力があり余っていた頃ですから、なんでも参加しました。今でもアウトドアが好きなのは、小学校の頃の体験からきているのかもしれません。その後、小学校六年生の二学期頃、ぼくとアンマーは与那城村西原に引っ越しました。勝連城を上がった東側が西原という場所です》

(『ちょっとひといき』)

2018年、衆議院議員だった玉城デニーが、在任半ばで亡くなった翁長雄志知事の遺志を継ぐかたちで知事選に立候補したとき、遊説の出発地に、2019年に84歳で亡くなった産みの母・玉城ヨシが生まれ育った伊江島を選んでいる。伊江島では上陸してきたアメリカ軍と日本軍との間で壮絶な戦闘が繰り広げられ、集団自決などで1500人あまりの住民が犠牲になったという。まさに地獄絵図のような戦闘があったことが沖縄戦史の中で特筆されている場所だ。

デニーが産みの母の戦争体験を私に語ってくれた。

うちのおふくろは10歳で伊江島で捕虜になって座間味の慶留間島につくられた収容所に移され、そこからまた別の場所に移されたと聞きました。慶留間島には長くて2年ぐらい収容されていたと聞いています。収容所には、おふくろの母の親父(デニーの祖父)、おふくろの兄とか親戚が何人かいたとも言ってました。ヨシの兄の玉城彦弘が12歳ぐらいです。おじ(ヨシの兄)は2人とも、戦争で民間人として犠牲になっているんです。現地で駆り出されて、斬り込み隊のようなことをさせられたんじゃないでしょうか。
伊江島は戦闘が激しかったんだけど、おふくろの記憶によれば、当時、家には日本軍の兵隊さんたちが入ってきていて、元いた家族は馬小屋や離れにいたらしい。当時は、あちこちに兵隊が駐屯していて、地元民がご飯をつくって持っていったり世話をしていた。で、アメリカがやってくると聞いて、すぐガマに逃げて、大砲の音が聞こえ始めたと思ったら、すぐに捕虜になったんだと思います。母の隠れていたところはそんなに戦闘が激しくなかったそうなんです。
僕がおふくろの親族のいる伊江島に通うようになったのは幼稚園ぐらいからですね。夏休み中はずっといました。伊江島の親族の家では牛や豚も飼ってましたし、畑もやっていましたから、草刈りを一緒にしました」

「産みの母」玉城ヨシさんとデニーさん。
1960年10月13日、1歳の誕生日のときに撮影されたもの。
(写真提供:玉城デニー)

小・中・高校時代――育まれた自己肯定感

デニーは、与那城村教育区立与那城小学校から与勝事務組合立与勝第二中学校へと進む。私があるとき、「デニーさんにとって記憶の原点になっているような光景はなんですか?」と質問したとき、すぐに語ったのは中学時代のことだった。

「僕は中学のときから親戚のおじさんのところで草刈りのアルバイトをしていたんですが、中学3年生のとき、僕のおじさんのクルマに乗せてもらって現場に向かう途中にある老人ホームの前で、いつも同じ方向を向いて座っているおばあちゃんがいたんです。なんで、あのおばあちゃんはあっち向いているのかなと運転していたおじさんに問うと、職員さんがいるから訊いてみたら、と言うので、〝あのおばあちゃん、いつも同じ方向向いてますよね?〟と尋ねてみると、〝このおばあちゃん、物忘れなんだけど、自分のおうちどこかねーと訊くから、あのへんだよと教えたんです。それからずっと、夕方の決まった時間になると出てきて、同じ方向向いて座るんですよ〟って教えてくれたんです。ああ、生活していたときのことは忘れたくないんだなあと、すごく印象に残っています」

知花カツと、カツの長男の知花正則と暮らしていた小学校時代、デニーはカツから励まされた言葉を何度も反芻するように話す。カツから言われた言葉が、デニー自身の自己肯定感につながっていったという自覚が強いからだろう。

当時、アメリカーとか、あいのこーというふうに言われていじめられて、暴力も振るわれたりもして、おっかあ(カツ)が、〝トゥーヌイービヤ、ユヌタキヤネーランドー〟(10本の指は全部形も長さも違うけど、どの指も大切だ。違うからいいんだよ)と励ましてくれましたね。〝カーギャ、カードゥ、ヤル(人間は個性があるのがあたりまえ)〟だし、見てくれは皮一枚だと、おっかあが言っていた哲学的な言葉があるんです。いじめられて喧嘩して泣いて帰ってくると、〝ムル チガトーティ アテェーメー ヤサ(みんな違ってあたりまえ)〟と言ってました。同じ人はいないよ、見た目が違うから泣くことはないよ、はい、笑って! と。それをおっかあから言われるとふいに我に返るんです。人にいいことをしたら自分に返ってくるよというのも、いつもおっかあは言ってましたから、その言葉は自然に僕に刷り込まれてますね。だから、その人のルーツが白人系であれ黒人系であれ、僕はぜんぜん違和感がないんです。見た目はぜんぜん影響しない。その人の中身に興味があるだけです」

「育ての親」知花カツさんとデニーさん。
(写真提供:玉城デニー)

当時、子どもがいじめられたり差別されたときに励ますとしたら、強い気持ちを持ってやりかえしにいけという親が多かったのではないだろうか。

僕は差別されてきた側だけど、おっかあから『十人十色で10本の指のかたちも長さも違うのだから、気にする必要ないよ。デニー、あなたね、容姿は皮一枚だよ、皮脱いだらみんな赤い血がながれて、同じだよ』と教えられてきたから、自分から喧嘩をふっかけることも、いじめられてやりかえすとかもなかったですね。言われても笑って受け流す、後はそういう場面は楽しくないから逃げるんですよ。自分から離れていく。
ただ多感な中学生になると、自分の出自と社会の関係が歪んだかたちで会話に出てきたとき、なんでそんなこと言われんといかんわけと、とんがり始めちゃうんですよ」

自分の中では答えは見つけきれなかった青春期のデニーは、なぜ(米軍の)父を追わなかったのか、なぜその後連絡を取らなかったのか、なぜ父からの手紙を焼き捨てたのか……こみ上げてくる疑問を玉城ヨシにぶつけたことがある。

しかし、ヨシはほとんど語らなかった。「もういいよ、昔のことなのに」と答えるだけだった。デニー少年から見ると、それ以上質問してきたら怒るよという無言の圧を感じた。

「訊けばとうぜん険悪になっていくから、話したくないんだろうなと思って、僕は考えることにフタをしてしまったんですね。じゃあ自分とは何なのかと考えて、それが中学1、2年の反抗期と重なって、触れるものさわるものみんなに対して牙を剥いていくみたいな気持ちになっていったんですが、前原高校に進んだら地域だけじゃなくて安慶名とか具志川とか高江洲から同級生が来るから、また与勝だけの狭い人間関係と違って、いろいろと刺激を受けた。高校2年のときにバンドに熱中するわけだけど、ハーフ? って訊かれても、普通に、そうだよと答えるだけの環境になった。みんな出自についてはほとんど訊かないし、差別してくるやつもいなくなったんです」

高校に入ってからデニーが差別を受けることがなくなっていったのは、心と体の成長が偏見を許さないようになったからなのか、年齢ゆえの分別がつくようになったからなのか。あるいはそこには、デニーが強く影響を受けた、ロック時代の平和と平等の理念も関わっていたのかもしれない。

撮影:ジャン松元

◎目次

戦後青春から未来への旅--まえがきに代えて
第1章 四畳半の青春 --伝説の高校生ロックバンド「ウィザード」
第2章 5人の「後輩」たち
第3章 激動の日々
第4章 「あんたは『日の丸』を振らなくていい」
第5章 ミックスルーツと「沖縄アイデンティティ」
第6章 政治家、結婚、ルーツ
あとがき

◎著者プロフィール

藤井誠二(ふじいせいじ)
1965年愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターも務めてきた。沖縄関連の著書に『沖縄アンダーグラウンド―売春街を生きた者たち』(集英社文庫、第5回沖縄書店大賞・沖縄部門大賞受賞)、『沖縄の街で暮らして教わったたくさんのことがら―「内地」との二拠点生活日記』(論創社)。仲村清司氏と普久原朝充氏との共著に『沖縄 オトナの社会見学 R18』(亜紀書房)、写真家のジャン松元氏との共作に『沖縄ひとモノガタリ』(琉球新報社)などがある。対談本等もあわせると50冊近い著作がある。ミックスルーツの女性の人生を描いたウェブ媒体のルポで「PEPジャーナリズム大賞2021・現場部門」を受賞。

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