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農家は「清く貧しい弱者」なのか?

【連載】農家はもっと減っていい:淘汰の時代の小さくて強い農業⑤

㈱久松農園代表 久松達央

久松 達央(Tatsuo HISAMATSU)
株式会社久松農園代表。1970年茨城県生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後,帝人株式会社を経て,1998年に茨城県土浦市で脱サラ就農。年間100種類以上の野菜を有機栽培し,個人消費者や飲食店に直接販売している。補助金や大組織に頼らずに自立できる「小さくて強い農業」を模索している。他農場の経営サポートや自治体と連携した人材育成も行う。著書に『キレイゴトぬきの農業論』(新潮新書)、『小さくて強い農業をつくる』(晶文社)。

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農業の歴史と現状をよく知らない一般の人たちの中には、「農家は、先祖代々の土地を守って、歯を食いしばって儲からない農業を続けている」と思っている人も多いようです。収益性の低い零細農家は淘汰されたほうがいい、などと話そうものなら、ひどい人だと言われかねません。農家は本当に清貧な弱者なのでしょうか?

農業は清貧で善なるもの、という都市住民のイメージは大変根強いものです。農業を主な仕事とする基幹的農業従事者は2020年時点で136万人。人口比でいうと1%ちょっとしかいませんので、大都市圏に住んでいる人はそもそも農業者と直接の接点がないのでしょう。

日本と米国の間に深刻な貿易摩擦があった1980年代から90年代にかけては、日本の農業保護政策がマスメディアで批判的に取り上げられたこともありました。が、結局政府はその後も保護主義を続け、日本の農業は本当に力を失い、ただただ高齢化が進みました。その結果、いつの間にか農家は清貧な弱者という見方が定着してしまったように思います。

農業に興味を持つ学生や20代の若者と話をすると、農家は手を差し伸べる対象として捉えられています。「恵まれない農家さんを助けたい」と熱っぽく語る若者と接するたびに、都市住民の目に哀れな農民像を映し続ける「貧農史観」の強さを実感します。

実は、農業者や関係者の側にも、哀れだと思われていたほうが得、という人が少なくありませんちゃんと食えている農業者の多くは、普通のビジネスマンですが、それが世間に伝わることをよしとしない人もいます。あえて訛りを強調するような小芝居が入ることもあるので、農家の観察には文化人類学的視点が必要です。

農業の外にいる人達が、農業に興味を持って、何か応援をしようという気持ちは尊いのですが、ツテを辿って出会った「農家」はどんな人か、という点はよく考えてもらいたいことです。連載第1回で述べたように、現在の「農家」の10人に9人は、農業で食べているプロではありません。たまたま知り合った農家の話から母集団を推定するのは、なかなか困難です。学生ひとりひとりの素直な思いに罪はないのでしょうが、大状況を見る視点もないと、実態を見誤ります。農業の産業構造に目を向けず、たまたま目の前にいる農業や農家をサポートすること自体が「善行」であるかのような錯覚をしている人が増えているのは気になる事象です

ひとりひとりの「農家」がその人なりの努力をしてきたことが事実だとしても、それが全体として日本の農業を機能不全に陥らせていることの免罪にはなりません。古き農業構造の利益代表であるJAは、企業の農業参入など、競争を促し淘汰を進める政策には、影響力のある学者を雇ってまでことごとく反対します。農業に関心を持つ消費者や学生の中にも、その人達の言説に乗せられている人を多く見かけます。

しかし、一見もっともらしい「潰れる農家かわいそう論」は、長い時間軸で考えると無責任なこともあります。農業に首を突っ込むのであれば、ひとりひとりが「かわいそう」であることと、農業の構造的な問題は分けて見る力が必要です。

まったくの余談ですが、農外の人が農業者を「農家さん」と呼ぶニュアンスに私はかなり違和感を持っています。発音は、頭にアクセントが来る「ノウ\カサン」ではなく、抑揚のない「ノウカサン ̄」。酒を売るのは「酒屋」だし、税務をするのは「税理士」ですが、野菜をつくるのは「農家さん」になるのはなぜでしょう。この「さん」に近いイメージは「お地蔵さん」とか「お稲荷さん」とかでしょうか。間違っても農家に手を合わせたりしないよう、気をつけてください。(続く)

※本連載は今夏に刊行予定の新書からの抜粋記事です。

久松さんと弘兼さんの対談が掲載されています。



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