新刊『100歳で現役!』(玉川祐子、杉江松恋著)からプロローグと目次を大公開!
プロローグ――百歳の曲師、玉川祐子さんの一日
ぽつんと小柄な人影。
それが外廊下の手すりに摑まっている。向かってくる人を捜しているように見える。
「あ、いらっしゃった。祐子師匠、もうお待ちになってますよ」
同行編集者の三宅さんとカメラの石田さんに声をかけて、慌ててタクシーから降りる。お伺いすることになっていた時刻は午前九時半。今は九時少し前だからだいぶ早い。
お待たせしたら申し訳ないから、とかなり前倒しで集合したのだが、祐子さんの気遣いのほうが上だった。
急いで、駆けつけなくては。
玉川祐子さんは今年の十月一日で百歳になる。現役の曲師(きょくし)である。
曲師とは浪曲の三味線を弾く仕事だ。浪曲は講談・落語と並ぶ伝統話芸の一つとされているが、他の二つと決定的に違うところがある。語りを担当する浪曲師と、三味線の曲師の二人で作り上げる芸という点だ。
二〇一五年に夫でもあった玉川桃太郎さんが亡くなるまでは、二人でコンビを組んでいた。浪曲では相三味線(あいじゃみせん)という。大事な存在を失ってしまったが祐子さんご本人は全然衰えずに元気で、今は若手の港家(みなとや)小そめさんの三味線を弾いている。小そめさんは祐子さんの親友だった港家小柳(こりゅう)さんの忘れ形見だ。小柳さんが二〇一八年に亡くなった後、預かり弟子のような形で面倒を見ている。
祐子さんが住んでいるのは公営住宅の一室だ。階段が建物のはじについていて、エレベーターはない。上り下りが毎日大変ではないだろうか。外廊下を祐子さんのお宅前まで歩いていく。表札には今も「中村勝司」と玉川桃太郎さんの本名が書かれている。
扉は細く開かれていた。声をかけると、ニコニコと笑顔の祐子さんが出てきた。
「どうも、すみませんねえ。こんなところまでわざわざ来てもらってしまって。まあ、遠いところまで本当に」
いえいえ、押しかけたのはこちらですから、とかえって恐縮する。さあ、どうぞどうぞ入って、とやってきた三人を中に招じ入れると、とっとことっとこ歩いて祐子さんは奥に行ってしまう。置いてあった三味線を手に取ると、じゃあ、三味線を弾けばいいんですか、とおっしゃった。
あ、話が通っていない、かもしれない。そうではなくて、今日は祐子さんが月に一度の浅草木馬亭(もくばてい)に出演されるのに随行して、取材させてもらう約束なのだ。
そのことをお伝えすると、あ、そうなの、すみませんね、小そめが何にも言わないから、と祐子さんは言う。たぶん話してくれているのだが、どこかで混線して本題がどこかに行ってしまったのだろう。
「じゃあ、木馬亭に行くの。もう出ますか」
ちらっと時計を見たら、まだ九時そこそこである。木馬亭の開場は十一時半、いくらなんでもまだ早すぎる。新型コロナウイルスが流行して以降、密を避けるために出番よりも前に来すぎないようにしてもらいたい、というお達しが各芸人に対して出ていたはずだ。
「さすがに、まだちょっと早いですかね」
「そうね。まだ早いねえ」
祐子さんがちょっと思案顔になったところに、石田さんが、師匠、よかったらお写真を撮らせてもらえますか、と提案した。せっかく三味線の支度までしてくださったのだから、もったいない。そこからしばらく被写体になっていただいた。
今日のお召し物は紺のお着物。それに三味線を構えるとビシッと決まってかっこいい。
しばらく撮影をさせてもらってからお茶を飲んで、ということになった。三味線をしまった祐子さんがたったったと台所に駆けていってお茶を淹(い)れ始める。それを運んでくると、さらに、すみませんねえ、何もなくて、と蜜柑(みかん)を持ってこられた。
「本当にすみませんね。小そめが何も言ってくれなくてねえ」
とまた恐縮される。お茶菓子の準備が十分ではなかったのを気にしておられる。こちらも恐縮しつつ、しばらく近況についてのお話をした。ご自宅に伺うのは年をまたいで四ヶ月ぶりぐらいか。新型コロナウイルス第六波流行の影響もあって若干窮屈な生活だが、まずまずお元気に暮らしておられたそうだ。よかった。
浅草木馬亭に出発
午前十時、そろそろ頃合いだろう。出かける支度をする。
「師匠、お出かけになるところからずっとカメラを回しっぱなしにしますので、お気になさらずに普通に歩かれてください」
石田さんが声をかけて、先に外に出た。祐子さんが扉を開けて外に出るところから撮影しようと行きの車内で石田さんと話をしていたのである。
「はい、わかりました」
言いながら、祐子さんは扉を開けながら、とっとと外に出てしまう。
あ、ちょっと待ってください師匠、と石田さんが慌てて声をかける。なんでもてきぱきやってしまわないと気が済まない九十九歳だから、被写体を捉えるのも大変だ。
なんとかお出かけ風景は押さえられた。気を緩めるとすぐに祐子さんは先に行ってしまうから、後ろ姿しか撮影できなくなる。目を離したすきに、だっだっだっ、と階段を下りていった。
「あ、あぶな」
危ない、と言いかけたほどに素早い動きだったのだ。一瞬、足を踏み外したのかと思ったくらい。さっき上り下りが大変だと言ったことは訂正する。少しも大変じゃない。足は達者で、スマートフォンを見ながらとろとろ歩いているそのへんの若者なんか比べものにならないぐらい速い。
駅へ向かうバスの停留所は、建物を出てから数十秒のところにある。ちょうどいい便が出たばかりで、しばらく待つことになった。ベンチに腰を下ろして待っていると、近所の方らしいご婦人がやってきた。
「あら、師匠。今日は浅草にお出かけですか」
話しかけられた。このへんでは古株だから、みんな祐子さんのことをよく知っている。曲師のお仕事をしていることも。地域猫の面倒を見たり、花壇の世話をしたり、と住んでいる家の近くで祐子さんがしなければならない日課はけっこう多い。
最寄りの駅はJRの赤羽駅である(東京都北区)。ここから台東区にある浅草木馬亭まで、普段はバスを乗り継いで行くのだという。
「バスが好きだから。でも、今日は京浜東北線で行きましょう」
そう言って、たったかたったかと改札口に向かっていく。今日の荷物は手提げのバッグが一つ。小そめさんがついてくることもあるが、だいたいは一人でこうして仕事先まで行っている。仕事道具の三味線は田原町(たわらまち)にある日本浪曲協会の会館に預けてある。以前はそれも毎回持ち運んでいたそうだ。手提げバッグの中には、楽屋でみんなに配るために準備してきた一パック分の煮卵が入っている。
服装は着物の上にコートとふわふわとした首巻き。日差しは暖かいが、風があるのでけっこう寒い。ふきっさらしの赤羽駅ホームで、電車が来るまで首をすくめながら祐子さんは立っていた。
京浜東北線の車内で優先席を譲られると、すみませんねえ、と言いながら座った。祐子さんはこちらが気持ちよくなるくらいによくお礼を言う。挨拶は人を気持ちよくするから、と心がけているのだという。
上野駅で電車を降り、不忍(しのばず)口まで出る。ここでも階段の上り下りはたったかたったかと素早い。バス乗り場に向かって小走りに駆け下りていくのを見て、石田さんが、あっ、と小さく声を上げた。わかっているけど、驚いちゃいますよね、と言いながら苦笑している。
浅草方面に行くバスの乗り場はわかっているから、迷わずに一直線である。
「いつも、このバスに乗られるんですか」
「うん。上野まで来たときは。バスを乗り換えると、みなさんはお金かかっちゃうでしょう。私はこれ(シルバーパス)があるから都営バスはタダなんだけど」
取材陣のことを気にして、途中は京浜東北線にしてくださったらしい。お気遣いがありがたい。ちら、と腕時計をご覧になった。
「まだ、時間があるからな。浅草についたら、お茶飲みましょう。お茶を」
たしかにそのとおりで、まだまだ木馬亭入りには早すぎる時間である。
南千住車庫前行きのバスに乗る。石田さんは上野付近が地元なので、車内では道々そのことが話題になる。浅草公園六区の停留所で下車、道の名称である国際通りは、かつてここに巨大な浅草国際劇場があったことにちなんでいる。毎年の浪曲大会もここで開催されて、綺羅(きら)、星(ほし)の如くに豪華なメンバーが出演していた。現在は、浅草ビューホテルが建っている場所が国際劇場の跡地である。
木馬亭は道の向こう側である。交差点で信号を待つ間、祐子さんにちょっとお聞きした。
「祐子師匠、ここに住んでいらっしゃったんですよね」
「ん、なあに」
「鈴木照子(すずきてるこ)先生のお宅があったの、このへんですよね」
指差す先は合羽(かっぱ)橋通りである。
言われるほうを目を細めて見た祐子さんが、うん、そうですよ、と言った。
信号が変わる。
祐子さんが浪曲の世界に入ったのは十七歳のときだった。この浅草で住み込みの内弟子になった。お師匠さんは鈴木照子といって、祐子さんよりも三歳下だった。少女横綱、天才少女として、絶大な人気があった方なのだ。地方から出てきて何も知らない少女は、天下の繁華街である浅草で、しかもスターの家で浪曲の世界で生きるための修業生活を開始した。
そのとき、どんなことを思って日々を送っていたのだろうか。
祐子さんの芸歴はすでに八十年を超えている。約百歳で舞台に立つ芸人なんて、素晴らしい存在ではないか。どうやったらその年まで現役を続けられるんだろう。
そんなことが知りたくて取材を始めた。何度もお話を伺っているが、出番の日に同行させてもらうのは初めてである。
木馬亭に向かう道を並んで歩いた。
「金車亭(きんしゃてい)という浪曲専門の寄席がこのへんにあったと聞いているんですけど」
水を向けると、それはそこ、と指差して教えてくれた。今は甘栗屋になっている建物の付近だ。道すがら、古い浪曲師の名前を出してあれこれ聞く。その人はこう、それはこう、と教えてくれる。生きていたらもう百歳を超えているね。あ、年上の方なんですね、じゃあ、もうご存命じゃないのかな、などなどと。
木馬亭の手前で、祐子さんが急に左に曲がった。お茶飲もう、お茶、とさっさと歩いていく。
「あ、でも木馬亭に祐子師匠がいらっしゃったことを言わないと駄目なんじゃ」
「大丈夫、大丈夫」
と、すたこら。
そういうわけにもいかないだろう、と木戸まで走っていき、木戸に座っていた劇団お笑い浅草21世紀の関遊六(せきゆうろく)さんにその旨を伝える。戻ると、喫茶サニーに一行は収まっていた。
サニーは日本浪曲協会御用達と言ってもいい喫茶店である。木馬亭裏、土産物屋の並ぶ西参道の中にある。壁には多くの芸人のサイン色紙が飾られ、いつ行ってもコーヒーとトーストの香ばしい匂いが漂っている。
コロナ対策でテーブルにはアクリル板が立てられている。それを挟んで、祐子さんと向かい合って座る。
話すのはさっきの続きで、やはりお師匠さんだった鈴木照子先生のことだ。
「先生は本当に素晴らしい方でしたよ」
懐かしそうに祐子さんは語る。誰に聞いても鈴木照子の人柄を悪く言う人はいない。本当に尊敬できる人格者だったのだろう。
「その先生についてね。この年までこうして浪曲で、三味線を弾いてやってこれたんだから。本当に感謝しかないんです。感謝をしてますよ」
そう呟きながらコーヒーカップを手にする祐子さんは穏やかな表情をしていた。
午前十一時。さあ、そろそろ楽屋入りをしなくちゃいけないでしょう。
祐子さんがさっと伝票を取ってお勘定を済ませた。ご馳走になってしまった。どうもありがとうございます。
サニーを出ると、すぐそこが木馬亭の裏口である。
そちらでお見送りをして、正面入口に回ろうとすると、ささっと手招きをして、こっちから入りなさい、と祐子さんが言う。
いわゆる木戸御免というやつだ。
いやいや、そういうわけにもいかないでしょう。取材をさせてもらう立場だし、第一このご時世だから、ちゃんと検温をして、手の消毒をしなくては。
そうお伝えすると、とても済まなそうな顔になって祐子さんは、そうなの、ごめんなさいねえ、ありがとうございます、としきりに言いながら楽屋口のほうへ歩いていく。
開演
浅草木馬亭は根岸興行部が経営する木馬館の一階にある。木馬館の創設自体は戦前だが、戦後になって現在のものに建て替えられた。映画館として使われたこともある劇場の、席数は約百二十ほど。現在は毎月一日から七日まで日本浪曲協会主催の定席(じょうせき)が開かれるほか、劇団お笑い浅草21世紀の軽演劇公演も行われている。
開場すぐの木馬亭はほとんどお客さんがいなくて、しんと静まり返っている。そこに、ぱらぱら、ぱらぱら、と来場者が増えてくる。以前のお客さんはほとんどが高齢者ばかりだったが、最近は若い人が増えてきたそうだ。壁際にずらりと並んだ赤い提灯(ちょうちん)には現役の浪曲師・曲師の名前が記されていて、玉川祐子、港家小そめもその中にちゃんとある。
開場前に流されていた三味線の音楽が終わり、前座さんによるアナウンスが入る。
午前十二時十五分。開演である。
舞台の中央に見えるのは豪華な布がかけられたテーブルで、その後ろに浪曲師は立つ。布は〝テーブル掛け〟といって、浪曲師ごとにトレードマークとなる自分のものを持っている。向かって右には衝立(ついたて)があり、曲師はその後ろに隠れて三味線を弾くのが通常の形だ。
この日の港家小そめ・玉川祐子コンビは二番目の出演である。
幕が開くと、そこにはいつもと違う舞台の様子が見える。今日は石田さんの撮影が入るため、特別に衝立を外し、出弾きで祐子さんが舞台を務めることになったのだ。
そのこともすっかりお忘れだったようで、先ほどサニーで話したときは「いやだよあたしは」と苦笑いされていたのだが。
緋毛氈(ひもうせん)のかかった演台に座った祐子さんの表情は、さっきまで見せていたものとは打って変わって厳しい。真剣な面持ちで見つめる先は、相棒・小そめさんの横顔だ。これから二十五分間、二人の真剣勝負が始まるのである。
お題は小そめさんの師匠・港家小柳譲りの「深川裸祭り」、初めの口上が終わり、小そめさんが浪曲に入る構えを見せた。
「それでは、お時間の見えますまで」
その言葉が合図となり、祐子さんがさっと三味線の撥#ばち$を動かした。
同時に気合の入った掛け声を発する。
イヨーーーーッ。
(了)
目 次
プロローグ――百歳の曲師、玉川祐子さんの一日
浅草木馬亭に出発
開演
第1章 笹ノ間りよ、浪曲師になる(戦前篇)
茨城県笠間
山の子・りよさん
りよさん、奉公に出る
都会に劣らない華やかさ
大坂屋へ
浪曲との出会い
りよさん、鈴木照千代さんになる
浪花家興行社へ
三つ年下の師匠
アイドルのような存在
木馬館の回転木馬に乗るのが楽しみ
初舞台
故郷に錦
曲師転向、三味線修業の始まり
いじめ
曲師一本に
関西節と関東節
女性ならではの悩み
りよさん、プロポーズされる
巡業の日々
東京大空襲、深谷へ疎開
第2章 高野りよ、戦後日本を駆け抜ける(戦後篇)
曲師と家庭の両立
スターになった息子、暗転
長女・初子さんのお話
廃業、そして東京へ
夫の暴力、九死に一生
玉川桃太郎との再会
三枡家つばめを看取る
「三味線ずっと弾くんなら、出ていけ」
初めての一人暮らし
二度目の伴侶
玉川一門
離婚成立、玉川祐子に
桃太郎の人柄
浪曲版「男はつらいよ」
第3章 浪曲の三味線ってどうやって弾くの?
ある日の稽古風景
メニュー
「浪曲は外題付けで決まる」
三味線は絶えず鳴っている
第4章 玉川祐子の浪曲人生(現代篇)
港家小柳との出会い
「親友であり、大事な師匠」
小柳の忘れ形見
港家小柳の惣領弟子・小ゆき
小ゆきが見た小柳・祐子コンビ
港家小柳亡き後の預かり弟子・小そめ
小柳の死、祐子師匠の下へ
甥の子・玉川太福
尽きない祐子師匠の思い出
桃太郎との死別、そして今
弟子から見た玉川祐子像
「祐子師匠の中にこそ浪曲がある」
二〇二二年十月一日に百歳
二〇二二年五月五日、特別公演
第5章 玉川祐子さんってどんな人(特別インタビュー)
祐子さんの毎日
祐子さんの人間関係
祐子さんの趣味
祐子さんは猫がお好き
祐子さんの元気の秘訣は
祐子さんのこれから
参考文献