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「絵画の起源」をめぐるロマンチックな逸話。そこには「死」が深く関わっていた

博覧強記の美術史家、神戸大学教授の宮下規久朗さんによる美術をめぐる最新エッセイ集『名画の生まれるとき――美術の力Ⅱ』(光文社新書)が刊行されました。本書は、「名画の中の名画」「美術鑑賞と美術館」「描かれたモチーフ」「日本美術の再評価」「信仰と政治」「死と鎮魂」の6つのテーマで構成されています。長年、美術史という学問に携わってきた宮下氏が、具体的な作品や作家に密着して語った55話が収録されています。刊行を機に、本書の一部を公開いたします。今回は、第六章「死と鎮魂」の中から一話をお届けします。

美術はなぜ生まれたのか

2016〜19年に国立新美術館と大阪市立美術館で「ルーヴル美術館展」が開催された。世界最大の美術館といってよいパリのルーヴル美術館の名品展は今まで何度も開かれてきたが、誰もが知る名作が来ることはほとんどなく、このときは肖像芸術というテーマによる展覧会となっていた。古代エジプトから近代にかけて、絵画も彫刻も含めた多様な肖像芸術を見比べるよい機会となった。

山水や花鳥を重視した東洋とちがって、西洋美術は人物像がつねに中心となってきたが、特定の人物を表現する肖像芸術の歴史も非常に古かった。人は写真が発明されるはるか以前から、記録や記念、あるいは権力の誇示のために、自分や家族の姿を残そうとしてきたのである。

古代ローマの博物学者で政治家のプリニウスは、「絵画の起源」についてロマンチックな話を伝えている。曰く、絵画の起源はコリントスの町シキュオンで、恋人を残して島を出る男性の影を女性がなぞったものである。そして彼女の父親は陶器職人で、描いた影を壺に焼き付け、神殿に奉納した。これがすなわち絵画の発祥である、と。

このエピソードはまた、男性が戦争に出兵して命を落としたことを暗示している。つまり「死」と「美術」は根源から結びついているのである。これが本当に最初の絵画であったとは思われないが、親しい者の似姿をとどめたいという欲求は、まちがいなく美術というものを生み出した大きな動機である。そしてそれは、目の前の人間の記録というより、もう会えないという不在を埋め合わせるために生み出されたものであった。

紀元前520年ごろ制作されたクーロスとよばれるギリシャの青年の直立不動像は、墓碑だったという説がある。当時、壮年の男性が死ぬと似姿を墓に象る習慣があったという。彫像は宗教的儀礼の一つだったといえるだろう。このように、美術が生まれる契機の一つには死と宗教が深く関わっていた。

肖像画や肖像彫刻はもっぱら誰かが亡くなったときに、記念や追悼のために制作されるものであった。墓碑や墓廟彫刻の多くも、故人の姿をとどめるものである。生前に肖像を作らせることができたのは、王族などごく限られた階層にすぎなかった。

遺体をそのままの状態で保存しようとするミイラの慣習も、こうした需要と関係する。ローマ帝国の写実主義の影響を受けたエジプトのミイラ肖像画(図1)は、遺体の顔の部分にはりつけ、生前の姿を長くとどめようとするものであった。本展の出品作は、若くして亡くなったであろう女性の生き生きとした表情が見事にとらえられている。

6-1《女性の肖像》エジプト、テーベ出土 2世紀後半

(図1)《女性の肖像》2世紀後半 エジプト、テーベ出土 

「ルーヴル美術館展」で目を引いた《パンジーの婦人》(図2)という作品は、女性の半身像とともに「見えなくとも私は覚えている」と書かれた巻物が描かれ、背景には「思慕」を表すパンジーが散らされている。妻を失った夫が描かせたものであることはほぼまちがいないだろう。この板絵は作者も制作地も不明だが、亡き妻への哀惜の念が伝わってくる。

6-2フランスの画家?《パンジーの婦人》15世紀

(図2)フランスの画家?《パンジーの婦人》15世紀

肖像という芸術を成り立たせてきたのは、単なる記録や、ましてや美の追求などではない。身近な者を失った者のどうしようもない喪失感が切実に求めたものであり、それによって制作された遺影がこうした悲嘆を少なからず癒してきたのである。

『名画の生まれるとき』目次

第一章 名画の中の名画
第二章 美術鑑賞と美術館
第三章 描かれたモチーフ
第四章 日本美術の再評価
第五章 信仰と政治
第六章 死と鎮魂

著者プロフィール

宮下規久朗(みやした きくろう)
1963年愛知県名古屋市生まれ。美術史家、神戸大学大学院人文学研究科教授。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。『カラヴァッジョ──聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞などを受賞。他の著書に、『食べる西洋美術史』『ウォーホルの芸術』『美術の力』(以上、光文社新書)、『刺青とヌードの美術史』(NHKブックス)、『モチーフで読む美術史』(ちくま文庫)、『闇の美術史』『聖と俗』(以上、岩波書店)、『そのとき、西洋では』(小学館)、『聖母の美術全史』(ちくま新書)など多数。

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