何が「暗殺」に駆り立てるのか?|高橋昌一郎【第18回】
自殺者の隠れた動機
1903年5月21日、飛び級で通常よりも1年以上早く旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に在学していた16歳の藤村操が制服制帽姿のまま失踪した。その翌日、日光の「華厳滝」に飛び込んで自殺していたことが判明した。
藤村は遺書に相当する「巖頭之感」を滝の側にあるミズナラの木に彫り込んでいた。「悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て 此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の オーソリチィーを價するものぞ。萬有の 眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の 不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は 大なる樂觀に一致するを。」というのがその全文である。
彼は、シェイクスピアの『ハムレット』を原文で読んでいたが、そのなかでハムレットが「この天地には、いわゆる哲学などには思いも及ばない大事なことがあるのだ、ホレーショ」と言う場面がある。遺書は「いくら学問を追究しても『不可解』なのだから、人生など無駄だ」と叫んでいるように映る。当時のエリートに流行していたショーペンハウエルの厭世主義の影響もあっただろう。
藤村の自殺が新聞で報じられると、後を追う者が続出した。藤村の死後4年間に華厳滝で自殺を図った者は185名に上り、その多くは救出されたが40名が死亡した。「自殺の名所」となった華厳滝は、今では周囲を厳重に防護している。
藤村が日光に向かった前日、英語教師の夏目漱石が授業中に反抗的な藤村を叱っていた。そのため漱石は自責の念に駆られて神経衰弱に罹ったという。また、藤村は彼の母の茶道指導を受けていた女性に恋文を渡したが、縁談中だったため断られている。さらに彼は、他にも3人の女性に恋していたという説もあり、要するに藤村の自殺の原因は哲学などではなく失恋だという説が有力である。
さて、1889年10月18日午後4時頃、外務大臣・大隈重信を乗せた2頭立て馬車が外務省表門に近付いた瞬間、大隈の不平等条約改正交渉を不満に思っていた29歳の来島恒喜が爆弾を投げつけた。爆弾は門柱に当たって炸裂し、白煙の中で大隈は倒れた。それを見届けた来島は、武士の古法に則り短刀で首を突いて自決した。大隈は右膝に重傷を負い、結果的に右脚を切断することになった。
その後、大隈は「足の一本や二本位いは、あっても無くても大した事はない」と語っている。彼は自分を襲った来島のことを「メソメソ女のために泣いて、華厳の滝へ飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる。苟も外務大臣なりし吾輩に、爆裂弾を喰わして、当時の輿論を覆さんとするその勇気は、蛮勇でもなんでも吾輩はその勇気に感服する」(『大隈重信自叙伝』)と称賛した。
本書は、大隈重信への暗殺未遂事件をはじめとして、岩倉具視・大久保利通・板垣退助・森有礼・星亨・安田善次郎・原敬への襲撃を「現代的暗殺」に繋がる暗殺事件として抽出し、暗殺者の行動様式を詳細に分析する。著者・筒井清忠氏は、とくに日本特有と考えられる暗殺者への「同情の文化的背景」として、「判官びいき」「御霊信仰に由来する非業の死を遂げた若者への鎮魂文化」「仇討ち・報復・復仇的文化」「暗殺による革命・変革・世直し」を挙げている。
本書で最も驚かされたのは、政治・社会的大義名分以前に、暗殺者には「何らかの個人的行き詰まりが必ず存在した」という指摘である。逆に言えば、太古から現在に至るまで、個人を顧みない社会には必ず暗殺が存在するのである!