プロローグ 「絶版本」を紹介する連載を始めます|三宅香帆
「絶版」なんてこわくない?
絶版。
あなたはその意味をご存知だろうか。
ちなみにこの言葉を聞いて「ぎゃあ」と叫ぶあなたは、かなりの出版通であろう。本や漫画が好きか、出版業界に関わりがあるのか、あるいは身内に関係者がいるのか。ともかく、事情通であることは間違いない。
しかしこれを読んでいる方の大半はそうでないであろうから、とりあえずは私たち――本を書いて生きる人々――にとって、「絶版」という言葉ほど叫び出したくなる業界用語はないことをまずはお伝えしたい。
絶版。それは、出版の真逆の言葉だ。「版が絶える」、つまりは紙の書籍が定価で買われることがなくなることを意味する。
絶版した本は、正式ルートで手に入らなくなる。そのうち、古本屋からも姿を消すであろう。となると、ほぼ、この世で新しい読者を捕まえることができなくなるのだ。
「絶版」がなぜ起こるのか
さて絶版本の説明をするために、少しだけ出版の商売のお話をしよう。本がこの世に出てくるときの台所事情みたいなもんだ。
出版というのは、基本的に「紙を刷る」ことで儲ける商売である。たくさん売れそうな本であれば、たくさん刷る。ちょっとしか売れなさそうな本は、ちょっとだけ刷る。思いのほか売れた時は、もっと刷ろうと指示を出す。
そう、いちど紙を刷ってしまえば、もう後には戻れない。紙を刷るとお金がかかるのに、その本が売れなければ、紙代を誰も支払ってくれない。在庫を保管するための倉庫代だってかかる。かくして赤字が生まれてしまう。
なのでどれくらい、何部の本を刷るか、というのは大問題なのである。というか、まあ、そりゃ赤字回避のためには慎重にもなる。出版不況の現代、刷られる部数は減るばかりらしい。世知辛い!
ここまで説明すると分かると思うのだが、追加でもっと刷ろうと指示される状況を生み出すのは、ハードルが大変高い。なぜならもっと売れると見込まれなくちゃいけないからだ。この本なら、もっとたくさん刷ったときにもっとたくさんの人が買ってくれるだろうと、ポテンシャルを期待されなくてはいけない。出版社だって博打で商売してるわけではないのである(たぶん)。
そんな高いハードルを超えられなかった本は、いつしか「絶版」状態になってゆく。
というか、ものすごく売れた本であっても、時代の流れとともに「絶版」になることはとても多い。百年前の作家で絶版になっていないのは、夏目漱石だの森鷗外だの、教科書に載っている作家くらいのものじゃないだろうか。
なぜなら、新しい本は次々に出てくるからだ。
書店に行けばいつでも新刊コーナーに所狭しと本が並ぶ。今注目の新人作家と銘打たれた帯をたくさん見る。このダイエットが、料理が、勉強法が、分野が、いまはアツいのだと、あちこちで本が騒いでいる。
時代に沿った本が、真夏の花火のように、たくさん打ち上げられては、ひゅるひゅると消えてゆく。
そして打ち終わった花火は、絶版になり、読まれないまま図書館で見かける本に変わる。
本は残るもの?
――って、こんなセンチメンタルな描写をしておいて、「でもこれ他の業界だったら普通のことだよな」って思う自分もいる。
たとえば、昨年と同じワンピースがデパートで売られることって、ほぼ存在しない。昨年と同じ番組がテレビで放送されていることもほぼないし、昨年と同じ新聞が配達されることもない。iPhoneですら、昨年と今年では最新の型が変わってゆく。
そもそも、「絶版」的な概念――つまりはその商品が流通しなくなること――が存在する業界すら、稀有な気もする。
ほかの業界の商品からすると、本なんて、むしろ恵まれた環境にあると思う。古本屋や図書館があるからだ。
図書館はけっこう昔の本も所蔵してくれていることが多いし、なんせ国立国会図書館でいちおうずっと保存してくれているのだ。この世からなくなることがないなんて、ものすごく恵まれている。
最近はAmazonで古本を買えることもあり、「絶版」になった本を手に入れることも、昔よりは楽になったんじゃないか。
だから客観的に見ると、絶版なんて、たいしたことではないのだ。
資本主義の世界、市場原理からすると、当然のことである。
この世で売られ続ける商品なんて、原理的には存在しない。
なのに。なぜ私たちは、私は、それでも「絶版」という文字を見ると、ぎゃあと叫びたくなるのだろう。
作者にお金が入らなくなるから? まあ、それもあるだろう。未来永劫、ひとまずその商品で自分は儲けることができないのかと思うと、ちょっとはショックを覚えるかもしれない。
新しい読者に出会いづらくなるから? それも大きい。やっぱり書店に置かれないと、本は読まれない気がしてしまう。もう新しくたくさんの人に読んでもらえるものじゃなくなったのか、という感情にもなる。
でも、それだけではない。
たぶん私たちが、本は残るものだと考えているからだ。
本は残る。ずっと残る。インターネットや新聞や雑誌やいろんな活字が私の目の前を通り過ぎていくけれど、どれもリアルタイムに今発信された言葉でしかない。でも本だけは、昔の言葉を届けてくれる。ずっと昔に綴られて、時代を超えて残って、今の私のもとに届く言葉が、本のなかには存在する。本は残るから、だから時代を超えることのできる言葉をおさめているのだ。
そんな「本は残る信仰」みたいなものが自分のなかに、たしかにある。だから絶版と聞くと、本来時代を超えて残るはずだった活字たちが、突然その命を絶たれたように思えてしまうのだ。いうなれば、エッきみもっと寿命長いんじゃなかったの!? と突然の訃報を聞いて愕然とする、みたいなやつ。
時代を超える本もある
まあ、時代を超えるべき本だけが絶版にならずに済んでいるんだよ。絶版になった本は、時の洗礼に負けたってことだよ。――私のなかの永沢さん(分かる方は笑ってください。出典は村上春樹の『ノルウェイの森』)がそう言っている。
しかし一方で、やっぱり思うのだ。
絶版になった本のなかでも、もう少し寿命長いんじゃない!? って感じる本、たくさんあるよねえ!? と。
私が読んできた、あの名作も、あの名作も、今は絶版になっているらしい。
いやいや、もったいないだろ。むしろ今、読まれると面白いぞ。絶版になっている場合じゃないぞ。そんなふうに感じる本がこの世にはたくさんある。
まあ、書店の面積にも限りがあるし、出版社を責めるわけにもいかないけれど。一方で、最近は電子書籍という手段もある。電子書籍のいいところは、なんせ絶版が存在しないところである。作ったら作りっぱなしでオッケー! 紙と違って、新しく刷るか刷らないかという判断をしなくてよい。まあ、書店で売られないだけあって、さすがに紙のほうがたくさんの人に読んでもらいやすい気は(私は)するのだけど。
でも、絶版だけど電子書籍なら読むことのできる本も、たしかにある。
あとは書店では見つからないけれど、図書館や古本屋に行けば見つかる本もある。
ならば、やっていいんじゃないだろうか? 「おすすめの絶版本」紹介!
……いやさすがに、書評家として禁じ手だろうか。どうせなら書店に今売っている、手に入りやすい本を紹介すべきだろうか。
でも、私はやっぱり、「本は残る信仰」の持ち主なのである。本は残る。時代を超えて、今も読まれてほしいよ! って思う本がたしかに存在する。絶版なんていう出版側の事情によって、読者のもとにそれらの本が届かないのは、単純にもったいない。
絶版であっても、面白い本は面白いのだし、読まれてほしい。そんなわけで、おすすめの絶版本書評企画を始めてみようと思う。
できるだけ、「おおこの本読んでみたい」と思われた方が、電子書籍なり図書館なり古本屋なりで、その本を見つけられることを信じて(まあ私が持っている程度の本なので、ものすごおく手に入りづらい本は紹介しないつもりである。稀覯書を紹介する意図の企画ではないことは、最初に断っておく)。
本は、残る。残りやすい。たぶん。読んだ人の頭にちゃんと残る言葉で構成されていれば、残るはずだ、と、私は思っている。
というか、残っていてほしい。こんなにスピードが速くて刺激の強い世の中で、活字くらいは、もう少し時間のかかるメディアであってもいいじゃないか、と思う自分がいる。
そんなのセンチメンタルなノスタルジーかもしれないけれど。でも、私が紹介する本は、これなら時代を超えて残ってくれるんじゃないかという期待を込められる作品ばかりなはずなのだ。
つづく
次回は7/15にアップします!
著者プロフィール
三宅香帆
みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、ほか多数。最新刊は、自伝的なエッセイ集『それを読むたび思い出す』(青土社)。