「ねるねるねるね」を食べながら、この記事を書くことは、自分の意志で決めたことだろうか? by妹尾武治
光文社新書編集部の三宅です。
早くも3刷の『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。』の著者、九州大学の妹尾武治先生からご寄稿いただきました。著者ご本人による自著の解説です。3000字ほどの本記事で、本書の全体像をつかめるはずです。その上で書籍をお読みいただくと、より一層理解が深まるでしょう。
以下の2つは本書の抜粋記事です。
碇シンジも二次元の嫁も、あなたも、私も確かに存在している。
今私は、さっき作った「ねるねるねるね」を食べながら、このエッセイを書いている。ねるねるねるねをコンビニで手に取ったのは、自分の意志で決めたことだろうか? 私にはそのように思えない。なぜか? 以下に拙著『世界は決まっており、自分の意志など存在しない。心理学的決定論』を要約する形で解説したい。
我々には自由意志は無く、暴走する脳は止められない。決定論的世界観が正解であり、人間は環境との相互作用によって、刺激に対して全自動的に行動を紡ぎ出されているような存在である。意志決定よりも先に脳が準備電位を発しており、外界からの刺激に対して自動的に脳と体は反応を始めている。意志は事後的に付与される錯覚に過ぎない。この「意志の遅れ」を始めて報告した科学者は、ベンジャミン・リベットという人物で、彼以降も追試が成功しており、「意志の遅れ」は否定し難い結論と言える。
人間は環境から得られる刺激の奴隷であり、全ての行為は環境と脳の相互作用で一つに決まって行く。人間は世界の主役などではない。世界の操り人形なのだ。しかし一方で、世界の主「神」である可能性も同時に持った存在だ。
人間はそもそも5つの感覚器(五感)でしか物理世界を切り取ることが出来ない。コウモリのように高過ぎる音は聞こえないし、4色覚の鳥のようには色を知覚できないし、可視光以外の範囲の光には、色を見出せない。人間は世界の断片にしか触れることが出来ないのだ。
超弦理論では、世界は11次元であるとされている。我々はわずかに3次元空間に時間を加えた、4次元の世界しか認識が出来ていない。本当の「世界」には触れることが出来ず、ホログラムのような虚像を見ているのだ。そもそも、物理世界、外界というものが本当に存在しているのかどうかですら、我々にはわからない。
だから、むしろ確実にあるものは自分の心であり、モノの方ではないと言える。モノと心を反転させる必要性があり、この世界とは自分自身の心のことなのだ。これは仏教で言えば「唯識」という考え方になる。世界とは、自分の心があるのみで、神とは自分である可能性がある。夢、量子論、唯識、決定論はほぼ同一のことを別角度から見たものとも言え、世界の中心は自分の心なのだ。意識が実在で、モノがあやふやなもの、と考えるべきなのだ。
そもそも、自分にとっての赤の赤さ(クオリア:自分特有の感覚の質感的ななにか)を、他人が有しているかどうかは、人間には数千年以上にわたって解明できていない問いである。自分の赤は、他人にとっては緑かもしれない。そもそも、他人にクオリアが生起しているかどうかさえわからない(哲学的ゾンビという考え方)。デカルトが「我思うゆえに我あり」と述べてから、もう多すぎる時が流れている。村西とおる氏ならば「お待たせいたしました。お待たせし過ぎたのかもしれません。」と言っているだろう。
クオリアのような、人間の主観の世界、脳の中のブラックボックスを敢えて問わないスタンスを取ったのが、行動主義心理学だった。刺激と反応、つまり行動の変化、を記録するという方法論でSR(Stimulus and Response)主義とも呼ばれた。アランチューリングが提唱した、チューリングマシンという概念や、中国語の部屋という思考実験においても、この行動主義のコスパの良さが浮かび上がって来る。
人間が2千年以上抱えてきた、主観の問題、難しい問題をあえてスルーすることで、かりそめの理解を目指すという方法論は確かに理があった。なんとなく、オリンピックの是非について、きちんと議論する場を設けずに、気がついたら始まりそうな、6月末時点での日本政府と国民の共犯関係に類似するような気もして来る。
一方AIが躍進する中で、AIのブラックボックスという問題に人類は直面している。AIが膨大な情報を処理する中で、それが下した判断の理由をもはや誰も説明することが出来ないという問題である。AIの判断を人間に理解出来る形に変換すること自体が、AI研究の中で熱い分野になっているほどである(XAI: Explainable Artificial Intelligenceという)。
これは、単一の脳細胞は単純明快なのに、それが数千億集まって、脳になるとなぜ意識が生じるのかわからなくなるという、脳のブラックボックスと相似形を示している。結局、人間は「意識に近似するとブラックボックスが生じてしまう」という問題から逃げることが出来ないのかもしれない。清原和博氏が、あちこち迷走しつつもどうしても野球に奴隷のように繋がれている様を思い出してしまう。個人的には監督姿をまだまだ諦めたくない気持ちで応援している。
二次元の嫁のように、第三者が見れば実存しないアニメキャクターであっても、本人がそのキャラクターに十分な人格を見出せるならば、その嫁は実存していると言える。碇シンジというキャラクターも、それを愛する腐女子さんも、1000年後の未来から見ると、両者ともに「情報」という形でしか世界に存在していない。であれば、実体である「炭素で出来た体」以上に情報こそが「存在」というものの本質であると言えないだろうか? だからこそ、碇シンジも二次元の嫁も、あなたも、私も確かに存在している。どこに線引きしても、人間の恣意性が確認されるだけで、二次元キャラを現実の部外者と呼ぶことは出来ない。
「イマジネーションの力を信じろ。」
多くの映像作家、小説家、演劇人はこう叫び続けてきたではないか。
意識とは、情報(とその統合)のことであり、万物に様々なレベルの意識が宿っている。意識を記述出来る万物の自然法則が見出せるならば、その法則はビッグバンから存在するはずであり、ベルクソン哲学で言うところの、「今」の「持続」こそが意識の自然法則なのかもしれない。犬や猫は言うまでもなく、ハラハラと散る枯葉にさえ、なんらかの意識は宿っているはずだ。マルクス・ガブリエルの新実在論と、心理学的決定論は良い合致を見せるし、存在、実在とは物理的なものに縛られず、意味の場に現れるもの全てなのだ。
アートの世界でも、男性用便器を「泉」として提示したマルセル・デュシャン以降の現代アートでは、「モノ」に焦点を当てず、そのモノに託された「思想」つまり「情報」こそが本体であるという考え方が主流になっている。この世は、情報が統べる世界であり、情報こそが生命であり、意識である。ちなみに、有吉弘行さんのあだ名芸も、人物の外側ではなく、本質としての情報を端的に表現するという意味で現代アートのしていることと同じであろう。みのもんた氏を「油トカゲ」と評した例は、美しくさえある。
ダン・ブラウンの文学作品においては、情報の攪拌者、つまり情報量を増やす、エントロピーを増やすための存在こそが「生命」だと主張されている。なぜ情報を増やすことが宿命づけられているのか? それが神の意志なのか? そもそも神とはなんなのか? もし自分が神であるならば、なぜそれに気がつけないのか。まだまだ深遠な解けない問題は多い。
デビッド・チャーマーズは、こういった謎を1995年にハードプロブレム(難しい問題)と名づけ、真に人間的な問いであると高らかに宣言した。私は、この問題から目を背けずに戦っていきたい。恐らく戦死するだろう。しかし、どうしたって自分の運命は決まっているのだ。あなたには、この戦場を覗いてほしい。もし可能なら戦闘に加わってほしい。
以上が、最新の心理学(脳科学、哲学、精神医学などの周辺領域を含めた心理学)を学ぶことで得られた視座である。
このnoteではごくごく一部しか話せなかったが、それぞれの領域について、拙著『世界は決まっており、自分の意志など存在しない。心理学的決定論』では何十倍にも深掘りしてある。300ページに及ぶ論考を是非お読みいただきたい。(了)
妹尾先生の好評既刊です。