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仮想現実を後押しする人間側の変化とは?―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史

3章② なぜ今メタバースなのか?

光文社新書編集部の三宅です。

岡嶋裕史さんのメタバース連載の15回目。「1章 フォートナイトの衝撃」「2章 仮想現実の歴史」に続き、「3章 なぜ今メタバースなのか?」を数回に分けて掲載していきます。今回は3章の2回目です。なぜここに来て、メタバースということが言われ始めたのか? その背景を探っていきましょう。

今回は、技術的背景に続き、メタバースの成立を可能にするユーザ(人間)側の変化について触れます。

下記マガジンで、連載をプロローグから順に読めます。

3章② なぜ今メタバースなのか?

■人間の変化:リアルでなくても構わない人が増えた

自由の拡大と失敗

 自分の生活圏がリアルでなくても構わない人が増えた、いやむしろ、リアルでない方がいい人が増えたと言うべきか。

 リアルな世の中が、生きにくくなっていることは、ここまでにも述べてきた。基本的な路線は、個人の自由の拡大である。それ自体は良いことだと思うのである。私も不自由よりは自由のほうがよほど良い。

 すごく個人的な思い出だが、私は児童、生徒時代に校則で五分刈りにされたのがとても嫌だった。たかが髪型程度のことが、大きな物語的な社会では自分の裁量で決められなかった。

 それが少しずつ、自由になってきたのである。普通科だけでなくフリースクールへ、正社員だけでなくフリーターへ、結婚は必須ではなくお一人様老後へ進む道も拓かれた。自由には責任が伴う。フリーターへ進んだ結果、生活が不安定になったとき、就学や就業を拒んで引きこもりになったとき、その責任は自分がかぶる。

 フリーターで食い詰めたことは自分の責任ではなく、フリーターに資源が再配分されない社会が悪い。引きこもりを選んだのではなく、選ばされたのだ。あるいは、引きこもりでも喰っていけるような社会構造があるべきなのだ、と反論することはできるだろう。しかし、実態として自由を享受した結果起こりうるすべてのことにセーフティネットを張り巡らせることは現実的でなく、自分で責任を負う羽目になることがほとんどだ。

 そういうのはしんどいから、自由じゃなくてもいいのに。と考える人も多いが、それは社会を後退させる因子になるので、なかなか許してもらえない。人間は自由であるべきなのだ、多様性を認めるべきなのだ、という訴えはそれが正論であるだけに強い圧力で個人の行動を制約する。

 不自由なくらいがいいのに・・・・・・と考える多様性や、もうちょっとみんなの考えがまとまっていたらいいのに・・・・・・と思う多様性は、そこでは認めてもらえない。

 すると、リアルな社会は自由を謳歌できる少数の強い人には居心地良く、そうでない多くの人には怖くて息苦しいものになる。ひょっとしたら、自由という博打は失敗したのかもしれない。

高騰するコミュニケーションのコストとリスク

 これは人間の根源的な欲求である、コミュニケーションと承認にも大きな影を落とす。人はコミュニケーションが大好きだ。人の長い歩みの中で、何か新しい技術が現れる度に、それをコミュニケーションに使えないか試行してきたほどである。コンピュータなどという、単純計算を大量にこなすための機械がこれほどコミュニケーションに使われるなど、バベッジもノイマンも思わなかっただろう。

 ところが、個人の自由拡大と権利強化は、コミュニケーションを難しくする。多様化した価値観のなかでは、自分はよかれと思って発言したことが相手の逆鱗(げきりん)に触れるケースが激増する。それを調停してくれる権力も不調である。「どっちもどっちだろ」などと、その場を手打ちに導いてくれる青年団の頭だの、村長だのはもういない。どちらも前時代的で抑圧的な権力の象徴である。

 であれば、コミュニケーションで生じたトラブルは当事者同士で解決せねばならず、しかしまったく価値観の異なる者同士の直接調停などうまく転がるはずもなく、泥沼化した罵りあいが延々と続く消耗戦になる。

 このとき、謝って調停から降りる選択肢は取りづらいのだ。大きな物語のように皆が同じように依拠している価値観が存在するなら、その価値観に照らし合わせて正しかった、間違っていたと自らの行動を振り返ることができる。間違っていれば、謝ることも正すことも難しくない。

 でも、「みんな違ってみんないい」社会は、正解が多数ある社会だ。どちらにも理はあるのである。しかも、自分なりの正解を見つけて「好きなように」生きていくことが推奨される世の中なので、間違いの修正は自分の生き方の否定へと直結する。

 社会のどこかに正解があって、それに対する回答が間違っていたのではなく、社会のどこにも正解はなく、自分なりの正解を作っていい、作らねばならないはずなのに、その正解が否定されるのである。この差は大きい。だから、些細なことでも、争いから降りることができない。間違いの修正ではなく、自分の生き方の再構築をしなければならないからだ。そんなしんどいことを、そうそうやりたくはない。

 多様性と包摂の精神に則ってお互いの異なる生き方を認めればいいのだ、という物言いは、現実のトラブルに直面した当事者にとっておためごかしにしか聞こえないだろう。調停者もない中で、自分が先に寛容さを示せば、相手は容赦なく利得を奪っていく。それはこの社会において負けを意味する。コミュニケーションのコストとリスクはとても高いのである。

承認欲求とSNS

 承認に対する欲求もそうだ。今どき、小学生でも承認欲求という言葉を使いこなす。普遍的な、とても強い欲求である。だが、価値観が多様化した社会で、これほど得にくいものもない。

 みんなが同じ価値観を持っている社会であれば、たとえば「お金持ちが偉い」社会であればお金を稼げばいいし、少なくともお金を稼ぐ努力をしていれば褒めてもらえる。絶対的な、1位の金持ちになれなくても、ある水準を超えるように頑張ることもできる。

 でも、奉仕活動をする人が偉い、自分の意見を言える人が偉い、シンプルな生活をする人が偉い社会では、お金を稼ぐ活動に対する評価はよくて無関心、悪くすれば反発を買うだろう。構造的に、承認欲求はとても満たされにくい。

「人の承認なんて得なくていい。自由な社会なんだから。自分さえ納得していればいい」これは正論である。しかし、誰も幸せにしない類いの正論だろう。誰にも評価されずに生きていけるほど強い人は少ない。誰かに褒めて欲しいが、そのために自分の活動をアピールすれば、褒められるよりは叩かれる機会のほうが多いのが現状である。

 そうした、フリクションばかりが大きい社会に目をつけたのがSNSである。SNSは友だちとつながるサービスではない。合わない人を切り捨てるサービスである。その割には、ツイッターにはそういう機能がないと思われるかもしれないが、私はツイッターはSNSの定義を外れるサービスだと考える。ツイッター社自身もそう述べている。

 大きな母集団のなかから、軋轢(あつれき)を生まない人だけを抽出して、快適な閉じた空間を演出することにこそ、SNSの価値がある。だから、小さなSNSには、あまり意味がない。誰かにとって快適なメンバーを構成するのが難しいからだ。

SNSの限界と「もう一つの世界」

 SNSは居心地がいい。しかし、現時点ではその心地よさには限界がある。あくまでコミュニケーションのためのサービスに留まっているので、どんなに居心地がよくても、仕事をするとき、食事をするとき、排泄をするときには、そのサービスを離れなければならない。

 人間はまだリアルに軸足を置いた生活を営んでおり、そこを疎かにしすぎると学業や仕事が立ちゆかなくなる。スマホなどのスクリーンを隔てて提供されるサービスは、「ここはリアルではない」と自覚させるほどにはリアルと切り離されている。

 でも、高度な技術でリアルと同等の質量を持った世界が展開され、仕事も学校も恋愛もそこで完結するサービスが提供されたらどうだろう。少なくとも、リアルで疲弊し、忌避感を持った人々は、そこで多くの時間を過ごしてもよいと考えるだろう。そして、その実数は年々大きくなっている。

 大きな物語が潰えたいま、誰もが自分の物語を欲し、また持つことを求められてもいる。なのにリアルでは自分の物語を構築し、自信を持って快適に生きることがますます難しくなっているのである。仮想現実がそれに応えてくれるならば、すべての人とは言わないが、それなりの割合の人々が「もう一つの世界」に移住したいと願うことは不思議ではない。

リモートの方が有効なもの

 仕事や学業が仮想現実で修められるものかと思う方もいるだろう。しかし、2020年のコロナ禍は、リモートでもこれらがそれなりに機能することを実証した。もちろん、人が実際に集まり、対面することで有効に機能する活動は多い。しかし、そうでないもの、中にはリモートの方がずっと有効に機能するものもあることが、同時にあぶり出された。

 私は正直なところ、コロナ禍で行ったZoomやMeetを使った授業があまり面白くなかった。リモートでやっているのに、無理矢理リアルを比喩化した環境になっているからだと考えている。

 どうせリモートで、仮想環境で授業をするのであれば、授業自体を仮想現実で構成してしまえばよいのである。低廉化されたコンシューマ向けVR技術でも、みんなで車座になって座ったり、ホワイトボードに書き込んだり、ディスカッションをしたりすることができる。

 感染症のリスクなどは今後も社会にあり続けるだろう。また、リモートの教育に効果があることが示されたいま、体感的に拡大し続ける所得格差や多様な生き方に対応するための教育の処方箋として、リモート授業は主要な選択肢になっていくだろう。リモートでいいならば、仮想現実を使って授業をしたい、授業を受けたいという動きは、必ず出てくる。それはまだ実現していないだけで、約束された未来だと考えていい。

 私も、リアルか、リモートのどちらでも授業形態を選んでよく、仮想現実内でリモート授業を行ってよければ、それを選ぶかもしれない。というのは、現代の教育現場では顧客満足度が重要な指標だからだ。それ自体は良いことだと思う。従来の類型化した大学教授像の一部に見られるような、教員の独り言のような授業はいいものではない。

 しかし、授業評価アンケートなどが重要度を増してくると、その評価に応じて報酬にも差をつけるといった動きも出てくる。報酬はどうせなら多い方がいいので、評価がよくなるように策を巡らす。

 授業評価アンケートで高評価への寄与が大きい変数はクラスサイズと教員の年齢だ。クラスサイズはともかくとして、仮想現実であれば年齢はごまかしようがある。アバターの姿態を若くしておけばいい。私のような老人でも、ちょっとは評価が上がるかもしれない。これは授業だけでなく、高齢化せざるを得ない労働市場にも転用できるだろう。

 仕事内容もそうだ。教育と同様に、ディスカッションやプレゼンテーションの多くは、リモート技術で置換可能である。それを望む者ばかりではないが、望む者は存在し、その数は確実に増えている。まだ普及していないのは、単にリモート技術が発展途上で、まだリアルに利便性が感じられるからだ。

 今後の技術の高度化により、この懸隔は埋められていくだろう。人々が仮想現実内で過ごす時間を拡大させるならば、リアルでの会社の業務を仮想現実に再現するだけでなく、仮想現実内で完結する仕事も増えていく。

 セカンドライフで行われた、仮想現実内での建築やインテリアデザイン、アバターのデザインは言うに及ばす、仮想現実内で人を快適にするサービスが対価を得られる業務として確立するだろう。その萌芽がNFTだと考えてもいい。(続く)

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