中村紘子、フジコ・ヘミングから藤田真央、角野隼斗、反田恭平まで|日本のピアニストの物語
女優とピアニストは職業ではない
女優とピアニストは職業ではない。女優は生まれながらにして女優であり、ピアニストは生まれながらにしてピアニストなのである。
もちろん、それ相応のトレーニング&プラクティス(お稽古や訓練)が必要なのは当然ですよ。ただ、お稽古や訓練さえすれば誰でも女優やピアニストになれるわけではない。ほとんどの場合、その夢は叶わない──。
たとえば、「1万時間の法則」というのがある。その分野のエキスパートになるためには1万時間の訓練等が必要だという、『ニューヨーカー』誌スタッフライター、マルコム・グラッドウェルが提唱した理論だ。
あくまで目安だが、ピアニストでいうと、ちょうど音大に入るために必要な時間がそれくらいである(もちろん個人差はある)。エキスパートどころかやっと音大に入ったところです。ピアニストになるためのスタートラインに立って、さぁここからが勝負だぞ~、ですでに1万時間。
時間以外のコストも相当かかる。ピアノという楽器自体、高額である。ヤマハやカワイはリーズナブルな価格でピアノ教室を開いてはいるが、それなりのピアニストの個人レッスンともなるとやっぱり高額。学校の友達がわいわい遊んでるのを尻目に、鍵盤のイラストがプリントされたトートバッグ(のだめに出てくるやつ)にスコアを入れて、せっせとお稽古に通わなければいけない(ピアノのお稽古があるからと自分のお誕生日会を中座したピアニストが知り合いにいるし、うちの子バレーボールNGなんでよろしくと担任の先生にうそぶく母親もいるらしい)。
それでもピアニストになりたい、と願う若者はこの国にはたくさんいる。何なんだろう、ピアニストという響きが放つこの魔力は。その一方で、音大生なのに鬼火ひとつ満足に弾けない人が大勢いるのはどうしてだろう!?
どうしてもピアノが弾きたければ……
人は生まれいずる時、両手に何かを握っている。ナチュラルボーンな何かである。
私は右手にFenderのピック、左手にPARKERの万年筆を握って生まれて来た(ギターを弾くときは右利きで、字を書くときは左利きなのです、都合よく)。
かてぃん(角野隼斗)は右手に東大の赤本、左手にショパンのスコアを持って生まれて来たのだろう。多分。
Giftedといういい方をする人もいる。ただ、自分の両手に何が握られているのか、最初から自覚できる人は少ない。そのための1万時間でもある。
アイルランドの劇作家バーナード・ショーがこんなことをいってた。
日本の偉大なるコメディアン萩本欽一もこんなことをいってた。
2人とも残酷だ──。
けれど、どうしてもピアノが弾きたければ弾けばいい。
はいはい弾きますとも、と音大を出て一度は和菓子屋に就職したもののチャンスをつかんで東京パラリンピックの閉会式でピアノを弾いた人もいる。そうかと思えば、YouTubeにストリートピアノを弾いた動画をあげて一躍人気者になった人もいる。医学部でしゃかりきになって勉強しながらショパン・コンクールに出た猛者もいる。
本書は、そんなふうにピアノを弾いてきた日本のピアニストの物語だ。