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『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』本文公開⑥

前回の大統領選の年の6月、全く無名の男性が書いたメモワール(回想録)が刊行され、大ベストセラーとなりました。J.D.ヴァンス著『ヒルビリー・エレジー』です。なぜこの本が注目を浴びたかといえば、トランプ大統領の主要な支持層と言われる白人貧困層=「ヒルビリー」の実態を、当事者が克明に記していたためでした。それから4年、大統領選を前に再び本書がクローズアップされています。11月24日には、ロン・ハワード監督による映画もネットフリックスで公開されます。本連載では、本書の印象的な場面を、大統領選当日まで短く紹介していきます。【追記】11月13日より劇場公開もあるようです。

※こちらから上映劇場の情報が見られます。

(以下、本文)

投票権を持つ白人保守層のかなりの割合(約3分の1)が、バラク・オバマ前大統領はイスラム教徒だと信じている。ある調査では、保守層の32パーセントが、オバマは外国生まれだと回答し、19パーセントは、どこで生まれたかわからないと答えた。つまり、白人保守層の過半数が、オバマがアメリカ人であることすら疑っているのである。実際に私は、知人や遠い親類が、オバマについて、イスラム原理主義者とつながっているとか、裏切り者の売国奴であるとか、遠く離れた世界の端で生まれたなどと語るのを、たびたび耳にした。

私が大人になるまでに接してきたヒルビリーたちと、オバマのあいだには、共通点がまったくない。ニュートラルでなまりのない美しいアクセントは聞き慣れないもので、完璧すぎる学歴は、恐怖すら感じさせる。大都会のシカゴに住み、現代のアメリカにおける能力主義は、自分のためにあるという自信をもとに、立身出世をはたしてきた。もちろんオバマの人生にも、私たちと同じような逆境は存在し、それをみずから乗り越えてきたのだろう。しかしそれは、私たちが彼を知るはるか前の話だ。

オバマ大統領が現れたのは、私が育った地域の住民の多くが、アメリカの能力主義は自分たちのためにあるのではないと思い始めたころだった。自分たちの生活がうまくいっていないことには誰もが気づいていた。死因が伏せられた十代の若者の死亡記事が、連日、新聞に掲載され(要するに薬物の過剰摂取が原因だった)、自分の娘は、無一文の怠け者と時間を無駄に過ごしている。バラク・オバマは、私が育ったミドルタウンの住民の心の奥底にある不安を刺激した。オバマはよい父親だが、私たちはちがう。オバマはスーツを着て仕事をするが、私たちが着るのはオーバーオールだ(それも、運よく仕事にありつけたとしての話だ)。オバマの妻は、子どもたちに与えてはいけない食べものについて、注意を呼びかける。彼女の主張はまちがっていない。正しいと知っているからなおのこと、私たちは彼女を嫌うのだ。
 
白人の労働者階層に広がる、このような怒りや冷笑癖(シニシズム)については、誤解にもとづくものだと多くの人に批判されている。たしかに、一部の陰謀主義者や過激な人たちが、オバマの信仰や先祖などについて、ありとあらゆる方法で、無意味なことを書きたてている。

だが、まともな報道機関はすべて、あの辛口で知られるFOXニュースも含めて、オバマにはアメリカの市民権があり、正常な宗教観の持ち主であるとたえず伝えている。

私の地元の知り合いたちも、主要なメディアがオバマについてどのような報道をしているか、よく知っている。ただ、彼らはそれを信じないのである。アメリカの有権者のうち、メディアが「とても信頼できる」と考えているのは、全体の6パーセントにすぎない。多くの国民は、アメリカ民主主義の砦であるはずの報道の自由を、たわごとにすぎないと考えている。

報道機関はほとんど信用されておらず、インターネットの世界を席巻する陰謀論については何のチェックも働かない。「バラク・オバマは私たちの国を破壊しようとしている海外からの侵略者だ」「メディアの報道は噓ばかり」「白人労働者の多くは、アメリカに関する最悪のシナリオを信じている」……。

以下に、私が友人や親類から受け取ったメールの一部を公開しよう。
 
・9・11同時多発テロ事件から10年目に、テロに関する〝未解決の疑問〟がテーマのドキュメンタリー番組が制作された。ラジオ番組のホスト役を務め、右翼として知られるアレックス・ジョーンズはその番組のなかで、あの惨劇の裏にはアメリカ政府の関与があったことを示唆した。

・オバマが推進する医療保険制度改革「オバマケア」のもとでは、患者の体内にマイクロチップを埋め込むことを強制しているという内容のチェーンメールが出回った。この話には宗教的な含みがあるため、波紋はさらに広がった。聖書には、終末が訪れたときに「獣の刻印」が背教の証として使われると記されている。多くの人が、この獣の刻印は、じつは電子デバイスなのではないかと考えていた。実際、複数の友人が、ソーシャルメディアを使ってオバマケアへの注意を呼びかけた。

・ニュースサイト「ワールドネットデイリー」に、ニュータウンで起きた銃乱射事件は、世論を銃規制の方向に誘導するために、政府が引き起こしたものだという趣旨の社説が掲載された。

・複数のウェブサイトに、オバマがまもなく戒厳令を発動し、3期連続での在任を可能にするだろうとの情報が載った。
 
同じような話は、ほかにもいくらでもある。実際にどれだけの人が、こういう話を信じているかはわからない。ただ、私たちのコミュニティの3分の1の人が、明確な証拠があるにもかかわらず、前大統領の出自を疑っているとするならば、ほかの陰謀説も、思ったより浸透している可能性が高いだろう。

これは自由至上主義のリバタリアンが、政府の方針に疑問を投げかけるというような、健全な民主主義のプロセスとはちがい、社会制度そのものに対する根強い不信感である。しかも、この不信感は、社会のなかでだんだんと勢いづいているのだ。

夜のニュース番組は信用できない。政治家も信用できない。よい人生への入り口であるはずの大学も、私たちの不利になるように仕組まれている。仕事はない。何も信じられず、社会に貢献することもできない。

社会心理学者は、集団で共有された信念が、一人ひとりの行動に大きな影響を与えることをあきらかにしている。一生懸命働いて目標を達成することが、自分たちの利益になるという考えが集団内で共有されている場合、集団内の一人ひとりの作業効率は、ほかの条件はまったく同じで各自がばらばらに働いたときよりも高くなる。理由は簡単だ。努力が実を結ぶとわかっていればがんばれるが、やってもいい結果に結びつかないと思っていれば、誰もやらない。

また同様に、何かに失敗したときにも、同じようなことが起こる。失敗の責任を自分以外の人に押しつけるようになるのだ。

私はミドルタウンのバーで会った古い知り合いから、早起きするのがつらいから、最近仕事を辞めたと聞かされたことがある。その後、彼がフェイスブックに「オバマ・エコノミー」への不満と、自分の人生へのその影響について投稿したのを目にした。

オバマ・エコノミーが多くの人に影響を与えたことは否定しないが、彼がそのなかに含まれないことはあきらかだ。いまの状態は、彼自身の行動の結果である。生活を向上させたいのなら、よい選択をするしかない。だが、よい選択をするためには、自分自身に厳しい批判の目を向けざるをえない環境に身を置く必要がある。白人の労働者階層には、自分たちの問題を政府や社会のせいにする傾向が強く、しかもそれは日増しに強まっている。

現代の保守主義者(私もそのひとりだ)たちは、保守主義者のなかで最大の割合を占める層が抱える問題点に対処できていない、という現実がここにはある。

保守主義者たちの言動は、社会への参加を促すのではなく、ある種の疎外感を煽る。結果として、ミドルタウンの多くの住民から、やる気を奪っているのである。

私は、一部の友人が社会的な成功を収める一方で、ミドルタウンの黒い誘惑につかまり、早すぎる結婚、薬物依存症、投獄といった、最悪の状態に陥る友人もたくさん見てきた。将来の成功や失敗は、「自分自身の未来をどのように思い描いているか」にかかっている。ところが、「敗者であることは、自分の責任ではなく、政府のせいだ」という考え方が広まりつつあるのだ。

たとえば私の父は、懸命に働くことの価値をけっして否定するような人ではなかったが、それでも、生活を向上させるはっきりとした道のいくつかを、信用していなかった。私がイェール大学のロースクールに進学すると知ったとき、父は私に、「黒人かリベラルのふりをしたのか」と言ったものだった。白人労働者の将来に対する期待値は、これほどまでに低いのである。こうした態度が広まっていることを考えれば、生活をよくするために働こうという人が少なくなっても、なんら不思議ではない。(続く)

J.D.ヴァンス著 関根光宏・山田文訳『ヒルビリー・エレジー』(光文社)より




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