なぜ「経済学」に疑念が生じるのか?|高橋昌一郎【第37回】
「効率性」と「公平性」の二本立て構造
読者が小学生だとする。先生が「お楽しみ会」のゲームを2つ提案した。「第1のゲーム」は生徒が各自サイコロを振って、偶数ならばキャンディを貰えるが、奇数ならば何も貰えない。「第2のゲーム」は生徒の中から代表を選び、その代表がサイコロを振って、偶数ならば全員がキャンディを貰えるが、奇数ならば全員が何も貰えない。なお、この代表はくじ引きで選ぶとする。先生が第1と第2のどちらのゲームをやりたいかと尋ねた。読者はどちらを選ぶだろうか?
私の家族に尋ねたところ、妻と長女は即座に「第1のゲーム」と答えた。なぜなら「自分でサイコロを振りたい。それなら勝っても負けても納得できるから」である。ところが長男は「第2のゲーム」と答えた。その理由は「面倒くさいから」である。「仮に40人のクラスで全員がサイコロを振って答えを報告するだけでも時間が掛かる。中には奇数が出たのに偶数だとウソを言ってキャンディを貰う生徒もいるかもしれない。くじ引きも面倒なので、委員長が代表を務める。その代表が皆の目の前でサイコロを1回振れば簡便に済む」わけである。
さて、本書によれば、この実験の意義は「リスク回避」と「格差回避」を区別できる点にある。まず「第1のゲーム」も「第2のゲーム」も生徒がキャンディを貰う確率は同じ50%である。つまり個人の「所得変動」のリスクに対する「リスク回避」は同等とみなせる。ところが「第1のゲーム」ではキャンディという「所得」を得る生徒と得ない生徒が発生して「所得格差」が生じる。
実際にこの実験を行ったところ「過半数」が「第2のゲーム」を選んだそうだ。そこから「生徒たちは自分の所得変動リスクだけでなく、クラスメートの中で格差が生まれることを嫌っている」すなわち「格差はよくないことだと感じている」と結論できるというのだが、果たしてそこまで飛躍してよいのだろうか?
本書には「よく似たタイプの実験はほかにもいくつか試みられ、学術論文として発表されています」と書いてある。しかし、私がこのゲームの部分を読んで気になったのは、そもそもなぜ6通りを生じさせる「サイコロ」を使うのか、表か裏かの「コイン」を使う方が明快ではないかという点だった。いずれにしても、私の家族4人は、誰一人として「格差」については考えていなかった!
本書は、「経済」を「経世済民(世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと)」とみなし、限られた資源をいかに配分するかという「効率性」と、その資源を困っている人々に配分して格差を小さくする「公平性」との「二本立て構造」と捉える。しかし、多くの経済学者は「効率性」を重視して「経済成長」を追究し、「公平性」のための「社会保障」を「後回し」にする。著者・小塩隆士氏は、本来は同時に議論すべき二本の評価軸が一方的に偏る状況に警鐘を鳴らす。
本書の特徴は、「教科書では教えない市場メカニズム」がどのようなものか、可能な限り経済用語を使わずに説明し、「医療保健」や「教育市場」、「人口減少」に対する「政府介入」など、「経済学の思考軸」の俯瞰図を見せることにある。
本書で最も驚かされたのは、一橋大学で教鞭を取る小塩氏が、「授業で経済学を教えていて、『これは、いくらなんでもウソだろ』と思っているテーマが幾つかあります」とか「正直なところを言うと、筆者はこの中位投票者仮説を授業で説明するとき、心底から納得して話しているわけではありません」などと、経済学そのものに鋭い疑問を呈している点である。「学者としてははなはだ落ち着きのない雑食派」と自称する筆者の率直な経済学への疑念には共感できる!