09_反知性主義の袋小路を前に、「教養」の可能性と公的領域のあり方を問い直す
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09_反知性主義の袋小路を前に、「教養」の可能性と公的領域のあり方を問い直す

(前回からのつづき)

 ずいぶん連載の間を空けてしまったので、今回はまず、本連載がここまで何を論じてきたのかを要約し、おそらく佳境に入っている本連載の「結論の導入」としたい。

 連載の第1回から第5回までは、時事的なものを中心とするさまざまな話題を糸口に、現在の大学と大学教育、それもとりわけ教養教育をめぐる諸問題、そしてその歴史的・社会的背景を探っていった。教養部の解体を中心とする大学改革、それと関連する「高大接続改革」と入試改革の矛盾、偏差値偏重からゆとり教育を経て、「主体性評価」へといたる「能力」観の変遷。日本学術会議問題と学長選考問題が示す、「役に立つ学問」の優遇の問題。ここ30年の、こういった大学改革のエンジンとなってきたのは「市場化」の論理であり、新自由主義であった。初回に確認したように、大学教育の市場化には二つの意味がある。一つは大学組織を一般企業のように経営することであり、もう一つはこれまでは公共的なものであった大学の業務を市場に「開く」こと、言いかえればそれを私有化・私営化の論理に従属させることである。もっと分かりやすく言えば、公共的な事業である教育を私企業に「売り飛ばす」ことだ。

 第6回から第8回は、第5回に提示した「役に立つ学問/役に立たない学問」という図式の問題と、その中における人文学の位置づけを出発点としながら、がらりと話題を変えた。そこでは主にイギリスにおける経験を検討した。それは、第5回までの、日本の教養教育をめぐる窮状の「外側」をなんとか想像しようという努力だった。C. P. スノーの「二つの文化」論争は、人文学対自然科学という表面上の対立の本質には、一方には戦後イギリスの拡大する教育機会とその背景としてのメリトクラシーの進展が、そしてもういっぽうでは功利主義とロマン主義という文化の全体を論じる二つの伝統の問題が存在するとこを明らかにした。功利主義は「役に立つ職業教育」、ロマン主義は「高尚なる非職業教育」というそれぞれの教育/文化の伝統の背景にある思潮であった。だが、イギリスの成人教育の実践の意味を捉えるためには、功利主義とロマン主義の対立図式は不十分であった。レイモンド・ウィリアムズが労働者階級の成人教育に賭けたものとは、労働者階級が自主的に学ぶことによって自分たちの社会を変化させ組織化していく力を手に入れることである。それは、単なる職業スキル──後に述べるように、そのスキルそのものが変化しているのであるが──を教える功利主義的職業教育とも、そのようなもの、つまり産業社会における労働とは切りはなされたところで、例えば一編の詩といった作品に社会の全体を見るような、ロマン主義的な文化秩序の統合とも異質なものであった。

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 だが、20世紀の終盤に向けて、成人教育は別のものへと吸収され変化していった。その名は「生涯学習」である。イギリスの労働者階級の自主的でもある教育組織の成人教育と違って生涯学習は国連(ユネスコ)によってグローバルに広められていく。そしてその理念は、成人教育が持っていた、学びを通じた社会変革という部分よりは、グローバルな新自由主義とその生産体制としてのポストフォーディズムに適合するような能力観を基礎とするものとなっていった。そこでは職業的なものと非職業的なものの区分は切り崩されていく。つまり、コミュニケーション能力を代表とする「人間的能力」が職業的能力へと飲みこまれていく。例えばそのような人間的能力のひとつは感情管理である。前回は、「ライフハック」と呼ばれるような現代の労働者の自己啓発が、いかに労働の能力と感情管理の能力を不可分のものとしてとらえているかを論じた。

 連載の前半で批判的に検討した大学改革、大学入試改革はある意味ではそのような能力観に「正しく」対応しようとしたものだったと言えるだろう。コミュニケーション能力の強調(それはなぜか口頭コミュニケーションに限定される)や「主体性評価」、あとはここまで論じることができなかったがアクティブ・ラーニングの隆盛には、片方では公共の事業としての教育を私企業に切り売りしたいという事情が透けて見えるけれども、もう片方ではポストフォーディズムに対応した「能力」の育成という目的も、確実に存在するのだ。いや、これら二つは別々の事態なのではなく、今回後半で触れるウェンディ・ブラウンが「新自由主義的合理性」(『いかにして民主主義は失われていくのか』)と呼ぶものの二つの側面なのだろう。

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成人教育・民主主義・ポストフォーディズム的市民性

 以上が前回までのまとめである。ここで、問題点を整理しなおそう。

 ウィリアムズが実践した成人教育の理念をひと言で言ってしまえば、それは「民主主義」ということになるだろう。ただし、それは既存の中流階級的(ブルジョワ的)民主主義に「参画できる主体を育てる」といったものとは異なる。ウィリアムズにとっては、成人教育の実践そのものが、社会を、そして民主主義そのものを作りかえ、作り出す実践であった。それは、労働者階級の人びとが、自分たちの生きる社会とはどのようなものであるのかを学び、その社会を作りかえ、作り出す実践に参加する方法を学ぶ場として構想されたのである。民主主義という言葉が響かないならば、それは広い意味での「政治」ということだ。それはもちろん、議会で行われることに限定されない、社会を作って運営していくという広い意味での政治である。

 これは、成人教育の学びが、哲学者のハンナ・アーレントが「活動」と呼んだものを可能にしようとしたと言いかえることができる。実際、私のここまでの議論は、アーレントの『人間の条件』での有名な「労働/仕事/活動」の区分に落とし込むことができるだろう。ただし後で述べるようにそこには重要な差異もあるが。

 アーレントは人間の条件を三つの領域に分けて考えた。それが労働(labor)、仕事(work)、活動(action)である。アーレントの言葉そのものはそれなりに難解なのでここではかなりかみ砕いて説明すれば、まず労働とは生活と生命の必要のための苦役である。この苦役としての労働から逃れられることがすなわち人間の自由である。古代ギリシアの奴隷制は、ポリスの「人間」たちを労働から解放した。

 仕事とは、通常の意味での「仕事」ではなく、芸術作品とその製作のことである。芸術作品は労働の成果とはちがって、永続的なものである。生活のための労働から離れたところで芸術作品を製作できることは、人間を人間たらしめる特有の条件なのである。

 最後の活動とは、ほぼ政治のことであると考えてよい。だがそこでの「政治」とは、現代の私たちが考えるような、「永田町」での出来事といった意味での政治ではない。ここでもアーレントは古代ギリシアのポリスに理想を見いだす。アーレントにとっては活動=政治が行われる公的領域とは、必要性=労働から自由になった空間である。それは基本的には直接民主制の政治空間だ(とはいえ、古代ギリシアのポリスでは政治に参加できる市民は限られていたのだが)。それは単独的なものではなく、かといって集団的で画一的なものでもなく、複数的なものだ。アーレントは自由な個人が固有のアイデンティティをもってそこに参加する「テーブル」のイメージを、活動の行われる公的領域に与えている。

 ここまでで顕著なように、労働/仕事/活動は、古代ギリシアのポリスを理想としているが、近代になってこれらの理想的な区分は崩壊したとアーレントは嘆く。近代においては、仕事と活動の領域は失われていってしまう。労働が仕事と活動を押しやり、活動を可能にする公的領域を「社会」が押しやってしまうことによってである。ここで、アーレントにとって社会とは公的領域であるどころか、その対立項であることが重要だ。アーレントは社会とは家族の拡大されたものだと論じる。それは「必要性」としての労働から自由な諸個人が現れる空間ではなく、家族という私的な労働の空間が拡大していったものにすぎない。それは画一的で個を抑圧する。

 もっとも広い意味での政治としての「活動」を可能にする、労働から自由な公的領域。これは、非職業教育としての成人教育の理想にかなり近いように、まずは考えられる。そのような領域が労働によって侵食されて消滅していったというアーレントの考えと、前回述べたように、成人教育が生涯学習得へと姿を変え、ポストフォーディズム的な労働の能力の獲得の場へと変質していったという事情がかなり似かよっているように見えることも含めて、かなり近い。

 だが、先に示唆したように、ここには大きな差異もある。アーレントはあくまで、古代ギリシアに存在した公的空間と活動の、近代における消滅を嘆いている。それに対して、成人教育から生涯学習への変質は、20世紀という短い期間での出来事だ。

 ここで、アーレントにおいて顕著な「社会嫌い」について考える必要がありそうだ。それに関して、アーレントが近代の社会と考えているものは、案外に最近のものであると見てみることを提案したい。アーレントが「社会」について述べるときに念頭に置かれているのは、基本的に「大衆社会」である。その出現は19世紀である。さらに短いスパンで見るなら、アーレントの念頭にあるのは、フォーディズムを背景とする福祉国家、もしくは福祉資本主義であると見ることができる。そこでは、生活の必要としての労働と、労働の生産物に対する需要を生み出す消費とが、社会の屋台骨となっている。そのような社会においては労働から自由な公的領域は失われてしまう。

 このような一種の「疎外論」であることにおいて、アーレントは本連載の第5回・第6回で論じた、ロマン主義の系譜にかなり近づくようにも見える。疎外論とは、現在を疎外された状況だと考える返す刀で、過去のある時点に疎外以前の理想郷を見いだすような思考法である。マシュー・アーノルドからF. R. リーヴィスへといたる系譜は、資本主義出現後の産業社会・大衆社会の文化の現状を嘆き、そういったもの(労働と消費)から切りはなされた「文化」に可能性を求めた。

 さて、それが正しいとして私が憂慮しているのは、大衆社会、そして直近のフォーディズム的福祉国家を批判する(そしてまた全体主義を批判する)その反面において、アーレントは戦後の自由主義体制、冷戦リベラリズムに対して、そしてそれらの体制にすでに胚胎されていた新自由主義とポストフォーディズム体制に対して、ある種の盲点をかかえてしまったのではないかということだ。そしてそれによって、彼女が嘆いた公的領域の消滅や活動=政治の消滅に関して、有効な視座を提供するのに失敗してしまったのではないかということだ。

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疎外論を超えて?

 ウェンディ・ブラウンは一連の著作(『いかにして民主主義は失われていくのか』および『新自由主義の廃墟で』(未邦訳))において、新自由主義がいかにして「社会」や「政治」という領域を嫌悪し、それを縮減していったか、そしてそれと同時に民主主義を市場の自由の原理を歪曲するものとして拒絶していったかを論じている。

 新自由主義時代の生産様式としてのポストフォーディズムが要請する「能力」は、そのような「社会」「政治」「民主主義」といった領域の外側(つまり市場)において主体性を作りあげる方法だったといえる。ハンナ・アーレントが新自由主義時代を生きていれば、おそらくそれを「活動」の領域のさらなる縮減ととらえ、活動とそのための公的領域そのものがポストフォーディズムによって乗っ取られていったことを嘆いたに違いない。

 では、私たちは新自由主義の時計を巻き戻して、福祉国家時代に(さらには古代ギリシャ時代に?)回帰し、公的領域を取り戻して活動、政治、民主主義を取り戻せばいいのだろうか? 簡潔に言えば、否である。そのような思考こそ疎外論の落とし穴だろう。疎外論は、過ぎ去った時代に理想的な状態があったことを想定し、それへの回帰を訴える。ここまで述べた通り、マシュー・アーノルドやF. R. リーヴィスは「文化」をめぐる疎外論を展開した。アーレントが古代ギリシアに理想像を見いだすとき、そこには否応なく疎外論の響きが聞こえる。

 大学教育についても同じことが言えるだろう。市場化が進んだ現在の大学を嘆く返す刀で、かつての大学への回帰を志向すればそれでいいのか。端的に言ってそれはないだろう。そもそも、過去に理想的な大学教育など、存在したためしはない。それはギリシアのポリスの民主主義、アーノルド=リーヴィス的な文化と同様にこう言ってよければ過去の幻像である。

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 そして今、問わねばならない疑問がある。私がレイモンド・ウィリアムズの成人教育の理想に「現在の外側」を求めるとき、私の思考は同じように疎外論的になっていないか。私は、ポリスや「文化」として成人教育をふり返ろうとしたのだろうか。否である。私は過去に理想的な形で実現されたけれども今は失われたものとして成人教育に目を向けたわけではない。言ってみれば、私はそこに死産した可能性を見ようとしている。常に挫折し続けた可能性としての成人教育だ。

 そのような思考なくしては、新自由主義・ポストフォーディズムの内側か外側か、現在の疎外か過去の理想郷かといった二項対立から抜け出して、現在生成しつつあるものを見すえて萌芽しつつある可能性を見つけだすことはできない。私はそう考える。成人教育がポストフォーディズム的生涯学習へと変容したというのは、本来あった可能性がすっかり失われたということではない。それは成人教育のあり得た可能性が別の形を取っていったということだ。そこには連続性があるということだ。同様に、福祉国家と新自由主義の間には、断絶だけではなく常に連続性が見いだされなければならない。そのように考えてこそ、私たちは現在を、不変の、歴史の最終的な結論のようなものとして考えるのではなく、過去の残滓だけではなくこれから生じるかもしれない勃興的なものもうごめく、ダイナミックなプロセスとしてとらえることが──それは、とらえることが非常に困難だということを意味しているとはいえ──できる。

 思弁的に聞こえるかもしれないが、以上のような思考を基礎としつつ、現代における「教養」とはより積極的にいかなるものであり得るのかについての考察に乗り出していきたい。まず考えなければならないのはポストトゥルースや反知性主義、さらには陰謀論という言葉で表現される現在の「知」に対する態度と、ポストモダニズムとの関係である。ポストトゥルースは現在私たちが公共的なもの、政治的なものを思考する際のもっとも明白な障害となっている。だが陰謀論は、単なる非-知の形態であるというよりは、知の重要な構成要素である「批判精神」と表裏一体になっている。それゆえにこそ陰謀論は単に否定すれば済むものではない、現代の知の真の袋小路であると言える。



参考文献
ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房、1994年。
ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか──新自由主義の見えざる攻撃』中井亜佐子訳、みすず書房、2017年。
Wendy Brown. In the Ruins of Neoliberalism: The Rise of Antidemocratic Politics in the West. Columbia UP, 2019.

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