第六章 スカウト革命――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則
12月15日刊行の新刊『オリックスはなぜ優勝できたのか』第六章の冒頭を公開します。以下、本書の概要です(光文社三宅)。
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以下、すべての抜粋記事を読めるマガジンです。
「(東京オリンピックで)うちの選手が主力としてキーになるポジションにつくことを目標にしよう」
第六章 スカウト革命
2021年(令和3年)8月7日、横浜スタジアム。
日本野球界の悲願ともいえる東京五輪での「金メダル」をつかみ取った。
侍ジャパンの24選手。その歓喜の輪の中に、オリックスの2選手がいた。
吉田正尚は全5試合で「3番」を務め、20打数7安打、打率・350をマークした。
決勝の米国戦でも、8回1死二塁のチャンスでセンター前へヒットを運ぶと、米国のセンター、ジャック・ロペスが送球ミスを犯す間に二塁走者の山田哲人(ヤクルト)が生還、勝利を決定づける大事な2点目を呼び込んだ。
山本由伸は、五輪初戦のドミニカ共和国戦、ノックアウトステージ準決勝の韓国戦と2試合に先発した。ドミニカ共和国相手には6回無失点。宿敵・韓国相手にも5回まで2安打無失点、続く6回途中にピンチを招いて降板したが、開幕戦と準決勝という、絶対に負けられない重圧の中で、23歳の若き右腕はいずれの試合でも先制点を相手に与えていない。
オリックスの投打の柱が、ジャパンの「クリーンアップ」の一角と「エース」を担った。
これを、7年前に〝予言〟していた男がいた。
ここでまず、東京五輪に関する時系列をおさらいしてみる。
日本が「東京五輪」の招致に成功したのは、2013年(平成25年)9月の国際オリンピック委員会総会でのこと。ただ、その時点で「野球」が競技種目に入るかどうか、決まってはいなかった。
開催都市が提案する追加競技として「野球・ソフトボール」「空手」「スケートボード」「スポーツクライミング」「サーフィン」の5競技の追加が正式決定したのは、誘致の決定からおよそ3年後、2016年(平成28年)8月3日に行われた国際オリンピック委員会の総会でのことだった。
東京五輪で、日本代表の中心になる選手を獲る──。
加藤康幸が、オリックスのスカウト陣に、その「未来への指令」を出したのは「球団本部副本部長兼編成部長兼アマチュアスカウトグループ長」に就任した2014年(平成26年)のことだった。
つまり、まだやるかどうかも分からない東京五輪の「野球」に、日本代表としてオリックスから選手を送り込むことを、自らの〝所信表明〟としていたのだ。
「2020年がホントはピーク。そこに日本代表の選手が出るようなスカウティングをしていかないといけない。ビジネスと一緒。中長期プランです」
ターゲットは、東京で五輪が開催される〝オリンピックイヤー〟というわけだ。
オリックスの選手が、日本代表として活躍して金メダルを獲る。そして、金メダリストたちがチームを引っ張って、オリックスが優勝する。
そのためには、好素材の選手を発掘し、ドラフト会議で指名する必要がある。
さらに選手のレベルや潜在能力に応じた綿密なトレーニング計画を立て、的確なコーチングも行い、育成環境の整備もしていかなくてはならない。
ソフトとハードの両方が整わなければ、この中長期プランは実現しないのだ。
加藤は、その難解なプロジェクトに着手しようとしていた。
野球に特化したインターネットメディア「Full‐Count」の2015年(平成27年)1月30日付配信は「オリックス大補強の舞台裏 改革を託された男の哲学」
加藤との一問一答から、その〝五輪イヤー構想〟を抜粋してみる。
東京五輪は、コロナ禍で1年延期の2021年(令和3年)に開催された。
前述したように、吉田がクリーンアップを打ち、山本はジャパンのエースとして開幕戦を担い、日本代表は金メダルに輝いた。
そして、2021年のペナントレースを沸かせたオリックスの快進撃も、シーズン終盤に死球を受け、右尺骨骨折での戦線離脱があったとはいえ、打率・339で2年連続の首位打者を獲得した吉田正尚と、シーズン15連勝での18勝、規定投球回到達では両リーグでただ一人の防御率1点台となる1・39、奪三振は206で2年連続、さらに勝率1位の「投手4冠」に輝いた山本が、チームをけん引し続けた。
吉田正尚、2015年(平成27年)ドラフト1位。
山本由伸、2016年(平成28年)ドラフト4位。
加藤がオリックスの編成とスカウト部門を担ったのは、2014年(平成26年)からの3年間のこと。吉田や山本のような好素材を発掘し、育てていくというその道筋をつけたのは、加藤の「目」による「スカウティング革命」の力でもあった。
そのプロセスを、これからたどっていく。(続く)