同じメスでも模様が違う? 遺伝学への新境地へとつながる虫好きの素朴な疑問|藤原晴彦
「超遺伝子」という言葉を聞いたことはありますか。なにやらすごい働きをしそう……。字面からはそんな想像を掻き立てられないでしょうか。実はそれ、間違いなんかじゃありません。生き物の複雑で不思議な現象にスーパージーンが関わっていることが、最新の研究で明らかになりつつあるんです。例えば、チョウの擬態を制御していたり、ヒアリの巣の作り方を決めていたり。多様な生き物でその存在が見つかっています。
一方で、「超」と付くけどふつうの遺伝子と何が違うのだろうか、ヒトにも超遺伝子はあるのだろうか、など疑問もたくさん湧いてきます。そこで、5月新刊『超遺伝子』では、実際にシロオビアゲハで「超遺伝子」を見つけた藤原晴彦先生が、超遺伝子とは一体なんなのかを詳しく解説。遺伝学の新境地へと誘います。
本記事では刊行を記念して、第1章の一部を抜粋して公開。超遺伝子の存在に気づくきっかけとなる、ダーウィンとウォレスの物語をぜひ覗いてみてください。
ウォレスとダーウィンの進化論
アルフレッド・ウォレス(1823‐1913)は、200年ほど前にイギリスに生まれた博物学者である。南米のアマゾン川や東南アジアのマレー諸島を探検し、インドネシアのバリ島とロンボク島の間などを境にして、生物の種類や多様性(生物相)が大きく変わることを発見したことで有名である(のちにウォレス線と呼ばれる)。
ウォレスが活躍した19世紀は「博物学の時代」であり、彼は学者というよりも、当初は収集したコレクションを欧米の裕福なコレクターに売る、プロの探検家もしくは収集家というべき人物だったようだ。しかし、膨大なコレクションを続けるうちに、集めた動植物の多様性に魅入られるとともに、種が変化していくことにある種の規則性があることを見出した。それが自然選択(自然淘汰)説であった。
要約すれば、同じ種の中にもさまざまな変異を起こしたものがあり、その中には他よりも生存や子孫を残す確率が高いものがいる。そのような有利な形質を持った個体の子孫は増えるが、不利な形質を持った個体の子孫は少なくなっていく、という説である(図表1‐1)。
ウォレスと同時代のイギリスに生きた、進化生物学の先駆者にはチャールズ・ダーウィン(1809‐1882)もいる。ウォレスがふつうの家庭の出身で、高等教育とは無縁だったのに対して、ダーウィンは裕福な家庭に育ち、エディンバラ大学やケンブリッジ大学などで十分な教育を受けた。
ダーウィンはビーグル号で世界中を巡って集めた見聞やコレクションをもとに、そこに見られる生物の多様性から進化(当初はこのような言葉はなかった)のしくみを想定するようになったといわれる。全く対照的な人生を送った二人だったが、ともに自然選択説にたどり着いた。とくに、地球上の生物が共通の祖先から派生し、自然選択によって多種多様な生物が誕生したという概念は、キリスト教を信奉する当時の人々に大きな衝撃を与えた。
神の手によってすべての生物が作られたとするキリスト教。片や、さまざまな生物は祖先種から生まれ、ヒトもサルも同じ祖先から誕生したかもしれないというダーウィンの進化論。イギリス社会の中で、キリスト教徒から猛反発を受けるだろうと予想したダーウィンは『種の起源』の公表を躊躇していたといわれる。ダーウィン自身が宗教論争に巻き込まれることはそれほどなかったようだが、ハクスリーをはじめとする彼の友人や進化論を信ずる人々は、キリスト教と長らく対峙することとなった(アメリカなどでは、現在でもその論争が完全になくなったわけではない)。
よく知られているように、ダーウィンは進化論のアイデアを早くから考えついていたが、実際に公開したのはマレー諸島に居たウォレスから同じアイデアの論文を受け取ったためといわれている。1858年に二人は共同で論文を発表した後、翌年にダーウィンは『種の起源』を発表した。この本は大きな話題となり、当時の大ベストセラーとなった。はたして、ダーウィンとウォレスのどちらが早く自然選択説に到達したかは分からないが、二人の交流や進化論の成り行きに関する本は、現在に至るまで数多く出版されている。
ダーウィンはいまだにイギリスで最も人気がある科学者の一人である。自然選択説は「ダーウィン・ウォレス説」と呼ばれていたが、いつしかウォレスの名は消え、ダーウィンの名のみが広く知れわたるようになった。『ダーウィンに消された男』(ブラックマン著、朝日選書)には、二人を取り巻く泥臭い人間模様が描かれている。
ウォレスは栄誉にこだわらない楽天的な性格で、ダーウィンを敬愛してやまなかったと伝えられている。ダーウィンほどの名声を得られなかったことは、他人から見ると一見不幸にも思えるが、さまざまなことを成し遂げたウォレスの長い生涯は、本人には満足できるものだったのかもしれない。英語学者で評論家として著名な渡部昇一の遺稿として出版された『幸福なる人生︱ウォレス伝 渡部昇一遺稿』(育鵬社)には、ウォレスの数奇な一生が読みやすくまとめられていて、興味深い。
毒蝶をマネる擬態の発見
南米のアマゾン川の探検で、ウォレスは同僚のヘンリー・ベイツ(1825‐1892)とともに多数の昆虫を採集している。ベイツもウォレスと同じく高等教育を受けておらず、独学で博物学の分野に入った人物で、とくに昆虫については並々ならぬ知識を持っていた。ウォレスはベイツの影響を受けて、昆虫採集に夢中になったといわれる。
1848年、二人は南米に出かけ、ウォレスは船の火災により標本をすべて失ってしまったものの、ベイツは1万種以上の標本を採集した。その大半は昆虫。ウォレスとベイツ、さらにはダーウィンも昆虫採集には目のない「虫屋(fly catcher)」であり、「虫」を話題にコミュニケーションが深まり、進化論は成熟していったのではないかと筆者は想像している。ベイツは自らの昆虫採集での経験や多様な動植物の観察から、ウォレスとダーウィンが導き出した進化論を強く支持した。
スーパージーン研究においてベイツは重要な人物である。スーパージーンの最初の例となる擬態を初めて定義づけたからである。ベイツは南米からイギリスに戻った後、ウォレスとは違って二度と冒険旅行に出ることはなかったが、標本の整理に膨大な時間を割いていた。そして、自身の膨大な標本コレクションの中で、有毒な蝶(独特の嫌な匂いから判断したのだろう)の多くが、黒地に赤や黄といった派手な模様の翅を持つことに気づいた。
捕食する鳥にとって、マズい味の有毒な蝶は、できれば食べたくない。有毒な蝶は自身がマズいことをアピールするために、派手な模様の翅を持つものが多く、またその模様を鳥に見せるために、ゆっくり飛ぶこともある。それによって捕食されるリスクが減ると考えられる。このような模様や色は警告色ともいわれる。初めてこの蝶を食べる未熟な鳥には効かないが、一度そのような蝶を食べれば、マズい味の蝶の色や模様は強く記憶され、次回からはそのような姿形の蝶を避けるようになる。
さらに、ベイツは標本を丹念に調べるうちに、他にも奇妙なことを見つけた。さまざまな色や模様をした毒蝶から系統的に遠く離れた蝶の中にも、毒蝶に非常に似た模様のものがいたのだ。しかも、匂いが全くない「無毒な」蝶が数多く含まれていた(シロチョウ科の蝶など。私たちがよく知っているモンシロチョウもシロチョウ科の蝶)。ベイツは、無毒な蝶が系統的に離れた有毒な蝶に姿形を似せ、鳥からの捕食を免れているのではないかと推測し、これを「擬態」(似せるという意味のmimicからmimicryという言葉を作った)と名づけた。
無毒な種(擬態種と呼ぶ)が有毒な種(モデル種と呼ぶ)に似せるこのタイプの擬態は、後年「ベイツ型擬態」と呼ばれるようになり、昆虫だけでなく、魚類や爬虫類など、ほとんどの動物に見られることが分かっている。
一方、ドイツのフリッツ・ミューラー(1821‐1897)は、系統的に離れた有毒な蝶の間でも紋様や形が似たものがいることに気づいた。この擬態は「ミューラー型擬態」と呼ばれており、毒のあるハチやカエル、ヘビなどでも見られる。不思議なことに、ベイツ型やミューラー型を含め、蝶の擬態はスーパージーンによって制御されているものが多い。
ナガサキアゲハはメスだけ擬態する
ウォレスはベイツ型擬態のことをベイツの論文や著書(『アマゾン河の博物学者』、和訳:長澤純夫、思索社)からよく知っており、マレー諸島の探検を記した自著『マレー諸島』(和訳:宮田彬、思索社)の中で、ナガサキアゲハという蝶についてかなりのページを割いて紹介している(図表1‐2)。その一部をここでも紹介しよう。
ウォレスの時代の分類では、比較的近縁だと思われていた毒のあるモデル種(ホソバジャコウアゲハ属)と擬態種のナガサキアゲハ(アゲハチョウ属)だが、現在ではかなり離れた種であることが分かっている。本文が長いので省略しているが、ウォレスはナガサキアゲハの第二群のメスが、毒のあるホソバジャコウアゲハに似せて鳥からの攻撃から逃れる、とはっきり述べている。
さらに、「シロオビアゲハ(Papilio polytes theseus)のメスの第二群は、ホソバジャコウアゲハと同じ群の他の種(ベニモンアゲハなど:Papilio antiphusおよびpolyphontes)を非常に巧みにまねており、そのためこれらはオランダの昆虫学者デ・ハーンを完全に欺き、したがって彼はこれらを同一種として扱ってしまったほどだ」とも書いており、私たちが現在スーパージーンの研究をしているシロオビアゲハとナガサキアゲハにまで言及している。
これらの蝶はいずれもメスには2種類あり、そのうちの1種類(第二群)だけが毒蝶に擬態し、オスは全く擬態しないという不思議なベイツ型擬態を示す。ウォレスはそのことをすでに150年前のスマトラで発見しているのである(口絵1)。
遺伝学の知識があまり浸透していない当時、ウォレスは自身も遺伝学の知識を持っていなかったであろうにもかかわらず、この現象に遺伝が関与していることまで看破している。最も重要な点は、この複雑な現象が遺伝していく過程で中間型が出現しないと述べていることだ。実はこれがスーパージーンの最も本質的な部分であり、本書の根幹をなす原理である。
ウォレスはそのことについてさらに、一人のイギリス人男性が、黒い髪で赤い肌の妻と、巻き毛髪で黒い肌の黒人の妻を持った場合の仮定の逸話を例にして、蝶の不思議を説明している。「息子はすべて自分と同じ青い目で白い肌、娘は二人の妻とそっくりになるといった奇妙なことが起こっている、つまり父と母の性質を併せ持つことが決してないのはおかしい」と述べている。実際、私たちはそのような例を知らない。
同じ種の中に全く異なる性質のものが決して交わることなく後世へ伝わっていく。これがスーパージーンの不思議なのである。ウォレスは後述する150年後のスーパージーン研究の本質を見抜く驚異的な予測をしていたのだ。
ウォレスの『マレー諸島』発刊は1869年のことであり、ダーウィンとの共著論文の発表やダーウィンの『種の起源』発刊から10年ほど時が経っている。二人はこの間に郵便による文通で互いに意見を伝えあっており、1868年9月18日にウォレスがダーウィンに宛てた手紙には次のような一節がある。
虫屋同士の楽し気な会話の一節だが、メスだけがなぜ擬態するのかという謎は、その後、多くの昆虫学者の興味を引き(無論私もだが)、後年の遺伝学者たちが提唱した「ナガサキアゲハとシロオビアゲハのメスだけが擬態する現象がスーパージーンによって引き起こされる」という仮説へとつながっていく。
※「第1章:スーパージーン物語のはじまり」より抜粋。本書では、ウォレスが気づいた蝶の不思議な現象に以降の天才たちが何を考えたのか、そして、スーパージーンとは一体なんなのかについても、解き明かしていきます。
目次
はじめに
第1章|スーパージーン物語のはじまり
第2章|スーパージーンに迫るための基礎知識
第3章|天才たちによるスーパージーンの予測
第4章|加速するスーパージーン研究
第5章|スーパージーンは生き物の不思議の源
第6章|スーパージーンはヒトにもあるか
第7章|アゲハの擬態とスーパージーン
第8章|スーパージーン物語の過去・現在・未来
おわりに
※より詳しい目次はこちらをどうぞ
著者プロフィール
藤原晴彦(ふじわらはるひこ)
1957 年兵庫県生まれ。東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻博士課程修了(理学博士)。その後、国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)研究員、東京大学理学部生物学科動物学教室講師、ワシントン大学(シアトル)動物学部リサーチアソシエートなどを経て、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻助教授、同教授などを歴任。専門は擬態・変態・染色体。これまでの著書に『似せてだます擬態の不思議な世界』(化学同人)、『だましのテクニックの進化』(オーム社)などがある。