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『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』本文公開⑨(最終回)

前回の大統領選の年の6月、全く無名の男性が書いたメモワール(回想録)が刊行され、大ベストセラーとなりました。J.D.ヴァンス著『ヒルビリー・エレジー』です。なぜこの本が注目を浴びたかといえば、トランプ大統領の主要な支持層と言われる白人貧困層=「ヒルビリー」の実態を、当事者が克明に記していたためでした。それから4年、大統領選を前に再び本書がクローズアップされています。11月24日には、ロン・ハワード監督による映画もネットフリックスで公開されます。本連載では、本書の印象的な場面を、大統領選当日まで短く紹介していきます。【追記】11月13日より劇場公開もあるようです。

※こちらから上映劇場の情報が見られます。

(以下、本文)

私は法律家になるためにイェールに入学した。しかし、世の中の仕組みについては何も知らなかったことを、1年目に思い知った。

毎年8月になると、有名法律事務所のリクルーターが、法曹界の新たな才能を求めてニューヘイブンにやってくる。学生はそれを「FIP」と呼んでいた(FIPは〝秋のインタビュープログラム〟の略語)。FIPの期間中は、ディナー・パーティーやカクテルパーティー、それに、ホテルのホールで開催される会合や面接会が、1週間にわたって続く。

私にとって初めてのFIPは、2年目の授業の開始日に始まった。その日、私は6回の面接を受けたが、そのなかには、ワシントンDCでとくに高い評価を受け、私の就職希望先の第一候補でもある「ギブソン・ダン・アンド・クラッチャー法律事務所」(通称ギブソン・ダン)もあった。

面接はうまくいき、ギブソン・ダンがニューヘイブンの最高級レストランで開催する、悪名高き食事会に招待されることになった。噂によれば、このディナーは事実上の二次面接で、明るく、魅力的で、やる気があることをアピールできなければ、ワシントンDCやニューヨークでおこなわれる最終面接には呼ばれないらしい。だが、レストランに到着した私が、まず最初に考えたのは、これまでに経験したどんなディナーよりも高価な食事を、こんなに緊迫した状況で食べなければならないのは残念だ、ということだった。

ディナーの前に、私たちは全員、貸し切りの部屋に集められた。ワインと会話の時間が始まった。自分よりひと回りぐらい年上の女性が、美しいリネンで包んだワインボトルを手に持ち、数分ごとに、グラスを替えましょうかと聞いたり、ワインを注いでまわったりする。最初は緊張しすぎて飲めなかったが、ついに勇気を出して、ワインを頼んでみた。すると種類を聞かれたので、「白」と答えた。これで大丈夫と思っていたら、今度は「ソーヴィニヨン・ブランとシャルドネのどちらがよろしいですか」と聞いてくる。

彼女は私を困らせようとしているのだろうか。それでも、種類の異なるふたつの白ワインがあるのだろうと推理を働かせ、シャルドネを注文した。ソーヴィニヨン・ブランが何なのかを知らなかったからではなく(いや、知らなかったのは事実だが)、シャルドネのほうが発音しやすかったからだ。私はなんとか最初の銃弾をかわすことに成功したのである。だが、夜はまだ始まったばかりだった。

この手のイベントでは、慎重かつ大胆に行動する必要がある。相手を怒らせるようなことがあってはならないが、かといって、握手をする前に相手が去るような事態も避けたいところだ。私はいつもどおりでいくことにした。ふだんの自分は社交的で、高飛車でもないはずだ。だが、そのときの私は、完全に雰囲気に飲まれていたため、ここでの〝いつもどおり〟は、口をぽかんと開けたまま、レストランの美しい装飾品を見つめて、いったいあれはいくらするのだろうと思いをめぐらすことにほかならなかった。

〝このワイングラスは、ウィンデックスで磨いたみたいにぴかぴかだ。あの男のスーツは「ジョス・エー・バンク」の3分の1セールで買ったものじゃないな。おそらくシルクだろう。あそこのテーブルクロスは、私のベッドシーツより柔らかそうだ。怪しまれないように注意しながら、あとで確かめてみよう……〟

要するに〝いつもどおり〟では通用しなかった。作戦を変える必要がある。そこで私は、「まずは目の前の仕事に集中する、つまり、面接の約束を取りつけることに集中しよう、上流階層の世界への探検はそれが終わるまで我慢しよう」と心に決め、ディナーのテーブルに着いた。

ただし、その我慢は2分しか続かなかった。テーブルに着くと、ウェイトレスが、タップ・ウォーターとスパークリング・ウォーターの、どちらにいたしますか、と聞いてきたのだ。私は目玉をぎょろつかせながら彼女を見た。雰囲気に圧倒されていた私には、スパークリング・ウォーター(輝く水)だなんて、輝くクリスタルとか輝くダイアモンドというのと同じで、ずいぶんと大げさな表現に思えたからだ。それでも結局、スパークリング・ウォーターを頼んだ。おそらく、汚染物質の少ない、からだにいい水なのだろう。

一口飲んで、文字どおり吹き出した。いままで飲んだなかで、最もひどい代物だった。昔、地下鉄の自動販売機で買った、シロップの足りないダイエットコークを思い出した。この豪華なレストランで出てきたスパークリング・ウォーターの味は、まさしくそれだった。

「この水、何か変ですよ」と私が言うと、ウェイトレスは謝り、「別のペレグリノをお持ちします」と言った。そのとき初めて、スパークリング・ウォーターが〝炭酸水〟のことなのだと気づいた。なんとも恥ずかしかった。でも幸運なことに、何が起こったのか気づいたのはクラスメートのひとりだけだった。危機的状況は終わった。もうミスは犯すまい。

ところがその直後、視線を落とすと、テーブルの上に、ばかげた数のナイフやフォークが置いてあるのが目に入った。全部で9本もある。なぜだろう。スプーンが3本もいるのだろうか。バターナイフがいくつもあるのはなぜか。

そのとき私は、かつて観た映画のワンシーンに、「食器の配置やサイズには決まりがある」というせりふがあったのを思い出した。「失礼します」と言ってトイレに立ち、私は〝先生〟に電話をかけた。

「テーブルにバカみたいにフォークが置いてあるんだけど、どうやって使えばいいのかな。恥をかきたくないんだ」

「外側から順番に使っていけばいいのよ。お皿が替わったら、同じナイフやフォークを使っちゃだめ。ああ、そうだ。一番大きなスプーンはスープ用よ」

恋人からのアドバイスで、戦闘準備を整えてからテーブルに戻り、将来の上司に華麗なテーブルマナーを見せつけてやろうと身構えた。

そのあとは特段の波乱なく、夜はふけていった。礼儀正しく会話をし、かつてリンジーに言われた「食べているときは口を開けない」という忠告を守った。テーブルでは、法律学やロースクールのこと、事務所の雰囲気などについて話をし、少しだけ政治の話題にもなった。リクルーターはみなとてもいい人で、テーブルにいた全員が(スパークリング・ウォーターを口から吹き出した男も含めて)、内定をもらえた。(了)

J.D.ヴァンス著 関根光宏・山田文訳『ヒルビリー・エレジー』(光文社)より


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