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杉晴夫著『日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか』――「はじめに」と「目次」を公開

88歳にして現役の研究者が、筋収縮研究の最前線での六十余年の経験から語る! 杉晴夫氏の新刊日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか――国際的筋肉学者の回想と遺言から、「はじめに」と「目次」をご紹介します。


はじめに


国際陸上競技の長距離走のテレビ中継でしばしば見られることであるが、我が国の選手はまずスタートダッシュをかけて、選手集団の先頭に立つ。このため、この選手はテレビ画面で大写しになり、大変かっこよい。しかし間もなくこの選手は後続する選手集団に追いつかれ、飲み込まれて所在がわからなくなる。私は「ああやはり実力不足だな」と思い、しばらくテレビから目を離した後、再びテレビ画面を見ると、なんと選手集団に飲み込まれて画面から消えていた選手が、また先頭を走っているではないか。

私は驚き、いったん集団に飲み込まれた選手が奮起して再び先頭に立ったか、と心の中で歓喜の声をあげる。しかしすぐにこれは間違いであることに気付く。この選手は遅れに遅れてついに選手集団に対し周回遅れとなり、見かけ上、選手集団の先頭を走っているように見えたのである。

私はこうしたテレビ中継の場面を見ると、我が国の生命科学の興亡の歴史を連想せずにはいられない。

我が国は鎌倉時代以来、政治の実権が「清廉潔白」を旨とする武士階級に握られており、また元寇(げんこう)の経験により、人々に国家意識、国民意識が確立していた。このため我が国は、武士階級の人々に主導された明治維新により「富国強兵」を実現し、欧米諸国に蹂躙(じゅうりん)されることなく近代国家への変身を成し遂げたアジアで唯一の国となった。

この際、我が国への欧米の科学・技術の導入は、公平無私な立場で選抜された優秀な若者たちの欧米への留学と、国内に新設された教育機関へのお雇い外国人学者の招聘(しょうへい)によって見事に成し遂げられ、その結果、直ちに生命科学史に名を刻む巨人たちが輩出した。

しかし、この輝かしい成果は、その達成後、すぐに破壊されてゆく。
この主な原因を列記すれば、

(一)独創的研究を評価せず、他人の成功を妬(ねた)む我が国の国民性
(二)学問分野の研究を推進すべき大学の教授たちの利己的な性格による後継者の矮小化
(三)利己的な教授たちの提案を唯々諾々と受け入れる政府の人々の見識の欠如

などである。近年はこれに加えて、

(四)我が国の真に独創的な研究を評価し、これを広く報道すべき新聞の科学欄や学術雑誌の編集者たちの能力の著しい劣化

がある。

特にこれらの原因のうち(三)と(四)については、私が六十余年の研究生活で痛切に体験してきたことである。本書では、その私自身が経験した出来事を、一部は伏せつつもできるだけ具体的に紹介しようと思う。これは長い生涯を研究者であり続けた私でなければ書けない事柄であり、本書を類書から分かつ最大の特徴である。

また、本書執筆中の二〇二一年現在、生命科学の応用部門である、感染症に対するワクチン開発の我が国の世界に対する周回遅れや、厚生労働省(厚労省)による国外で開発された薬物の許認可の無意味な遅れなどが明らかになり、政治家を憤激させている。この問題からは、欧米諸国ではすでに実現している鍼灸(しんきゅう)技術への医療保険の適用が、厚労省の頑なな態度により、鍼灸の本家である我が国ではまだ拒否されていることが連想される。それについても記した。

さらに我が国の生命科学にとって深刻な問題は、近年文部科学省(文科省)により強行された国立大学の独立行政法人化と、これに伴う競争的研究資金制度である。これは営利会社の経営原理を、生命の神秘に挑戦すべき生命科学分野に持ち込んだもので、我が国の生命科学分野の若い研究者の独創の芽生えを完全に断ち切りつつある。

生命科学分野における文科省の、ゲノム研究への偏重は、DNA二重ラセンの発見者、ジェームス・ワトソンの特異な性格に振り回されたためで、この結果、にわかに脚光を浴びた我が国の非生産的な分子生物学者による研究費の浪費と、研究者育成環境の荒廃をもたらした。

本書の終わりに私は、このように絶望の淵に落とされた我が国の国際的周回遅れの生命科学を、若い独創性に富む研究者の力で救い出す方策を提案する。

本書を、広く研究者を含む一般読者ばかりでなく、科学行政に携わる我が国の政府機関の方々にも読んでいただき、我が国の生命科学の再発展に役立てていただくことを願って止まない。

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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか

目 次


はじめに

第一章 明治維新による欧米の学問の我が国への移植

一・一 歴史的背景――承久の乱による、世界に例のない武士政権の誕生
一・二 明治維新初期の混乱とその克服
一・三 明治政府による欧米文化の我が国への移植の成功

第二章 たちまち開花した我が国の生命科学研究

二・一 幕末に生まれ、不朽の業績を挙げた高峰譲吉と北里柴三郎
二・二 明治政府の期待に応えたお雇い外国人たち
二・三 明治政府の期待に応えた我が国の大学の生命科学者たち
二・四 我が国における欧米の学問崇拝と、我が国の研究蔑視の風潮の原因は

第三章 生命科学を衰退させる我が国の国民性

三・一 北里柴三郎に対する我が国の研究者の執拗な迫害
三・二 経済大国である我が国がなぜワクチンを製造できないのか
三・三 慶應義塾大学と京都大学の間の「興奮の減衰・不減衰」論争
三・四 「減衰・不減衰」論争に対する、我が国の学者の日和見的態度
三・五 田崎一二の跳躍伝導の大発見と、我が国の学者の冷淡な反応
三・六 田崎の業績の国際的認知

第四章 エレクトロニクス技術による神経生理学の黄金時代

四・一 興奮の実態である「活動電位」とは何か
四・二 活動電位を起こすイオン機構の解明
四・三 神経生理学の黄金時代と、我が国の研究者の貢献
四・四 単一イオンチャンネルの活動記録法の開発と、神経生理学の終焉

第五章 理化学研究所での脳科学総合研究センターの創設と、脳研究の不振

五・一 脳科学総合研究センターの設立のいきさつ
五・二 神経細胞(ニューロン)を機能的に結ぶシナプス
五・三 神経回路網の研究と一般生理学の研究原理の否定
五・四 脳科学総合研究センターの研究の停滞
五・五 国際レベルに達した(?)、我が国のノーベル賞獲得運動

第六章 分子生物学の勃興を傍観し続けた我が国の分子生物学者

六・一 遺伝を担う物質・核酸の発見と、我が国の分子生物学者の評論家的態度
六・二 分子生物学の発展に参画し得なかった我が国の分子生物学者
六・三 ワトソンとクリックによる核酸の二重ラセン構造発見のいきさつ
六・四 DNAの暗号のRNAによる転写のしくみ
六・五 DNAの遺伝暗号の解読成功のいきさつ
六・六 クリックのセントラルドグマ提唱と、研究から離れたワトソン

第七章 外圧により表舞台に引き出された我が国の分子生物学者

七・一 ワトソンによるヒト全ゲノム解読計画の提案
七・二 我が国のヒトゲノム解読計画に対する対応の混迷
七・三 ヒトゲノム解読計画への民間会社の介入と自己顕示欲を満たしたワトソン
七・四 分子生物学の「先覚者」、渡辺格氏の言動
七・五 遺伝子ノックアウトマウスに見る研究の投機性

第八章 国立大学有名教授による科学研究費の私物化

八・一 O大学のA教授とB君の私との関わり
八・二 ある大型グループ研究申請採択結果と、二つの研究室の消滅
八・三 B君の単分子ATP実験と、欧米の研究者の反応
八・四 有力教授の利己的要望がまかり通る風潮

第九章 極めて高かった新聞科学欄記者の能力とその急激な劣化

九・一 私と新聞の科学欄記者との、研究紹介記事を介する関わり
九・二 極めて高かった新聞の科学欄記者の能力
九・三 突然低下した新聞科学欄記者の資質とその原因

第十章 我が国の新型コロナウイルスワクチン作成の「周回遅れ」の原因

十・一 ジェンナーによる免疫現象の発見と、その倫理的側面
十・二 ワクチン接種による、病原体に対する生体の免疫反応
十・三 薬剤や治療法の許認可を行う厚生省の体質
十・四 「モルヒネ様物質」を産生する巨大神経細胞
十・五 我が国のワクチン対策の国際的「周回遅れ」の原因

第十一章 国立大学の独立行政法人化の強行とその結果

十一・一 庇を貸して母屋を取られた文部省――科学技術庁の吸収合併
十一・二 国立大学独立行政法人化に関する文化省のQ&A
十一・三 法人化された大学における講座研究費の減額と、教育義務の強化
十一・四 競争的研究資金の導入とその結果
十一・五 米国の大学の科学行政とは全く異なる我が国の科学行政
十一・六 我が国独特のお粗末な研究費申請の審査法
十一・七 大学法人における教育と研究の崩壊

第十二章 我が国の生命科学再建のための基本方策

十二・一 文科省は欧米の科学研究費審査過程を精査し、我が国に取り入れよ
十二・二 我が国の大学のインパクトファクターによる人事を改めよ
十二・三 科学研究費申請の評価から利己的な有力教授を除外せよ
十二・四 我が国の分子生物学者は投機的研究を中止せよ
十二・五 研究と論文発表を行わない「評論家教授」は退陣せよ

第十三章 我が国の生命科学振興のための具体策の提言

十三・一 基礎生命科学研究施設の運営方針の提案
十三・二 分子生物学の発展には電子顕微鏡などの光学機器を活用せよ
十三・三 我が国の研究分野の盲点「Liquid Cell Electron Microscopy」とは 
十三・四 「Liquid Cell Electron Microscopy」による細胞内の構造形成の謎の解明案

おわりに

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著者プロフィール

杉晴夫(すぎはるお)

1933年東京生まれ。東京大学医学部助手を経て、米国コロンビア大学、米国国立衛生研究所(NIH)に勤務ののち、帝京大学医学部教授、2004年より同名誉教授。現在も筋収縮研究の現役研究者として活躍。編著書に『人体機能生理学』『運動生理学』(以上、南江堂)、『筋収縮の謎』(東京大学出版会)、『筋肉はふしぎ』『生体電気信号とはなにか』『ストレスとはなんだろう』『栄養学を拓いた巨人たち』(以上、講談社ブルーバックス)、『論文捏造はなぜ起きたのか?』(光文社新書)、『天才たちの科学史』(平凡社新書)、Current Methods in Muscle Physiology(Oxford University Press)など多数。日本動物学会賞、日本比較生理生化学会賞などを受賞。1994年より10年間、国際生理科学連合筋肉分科会委員長。

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