田坂広志さんの新刊『教養を磨く』(光文社新書)より「はじめに」「目次」を公開!
はじめに 二一世紀に求められる「新たな教養」とは何か
筆者は、二三年間、社会人向けの経営大学院で教鞭を執ってきたが、その講義の一つが、「ネオ・リベラルアーツ論」と名付けたものである。
では、なぜ、筆者は、「ネオ・リベラルアーツ」(新たな教養)というテーマの講義を開講してきたのか。
それは、これからの時代には、これまでの時代に論じられてきた「教養」とは全く異なった「新たな教養」が求められると考えているからである。
これまで、世の中で語られてきた「教養」とは、概ね、
書物を通じて学んだ、
様々な専門分野の、
該博な知識
といった次元で理解されてきた。
そのため、これまでの「教養論」は、しばしば、「歴史学を学べ」「宗教学を学べ」「政治学を学べ」「経済学を学べ」「心理学を学べ」「人間学を学べ」といった形で、幅広いジャンルでの読書を勧め、様々な専門知識を学ぶことを勧めてきた。
しかし、真の「教養」とは、本来、多くの本を読み、様々な知識を学ぶことではなく、そうした読書と知識を通じて、「人間としての生き方」を学び、実践することである。
だが、残念ながら、現代の「教養論」においては、しばしば、そうした「生き方」という大切な視点が、見失われてしまっている。
それが、筆者が、社会人大学院で「ネオ・リベラルアーツ論」(新たな教養論)を開講した一つの理由であるが、「新たな」と銘打っていることには、もう一つの理由がある。
それは、現代においては、この「教養」ということの前提条件、「書物を通じて学んだ、様々な専門分野の、該博な知識」に、大きな「三つの変化」が起きているからである。
では、その「三つの変化」とは、何か。
第一は、「該博な知識」に関する時代の変化である。
端的に言えば、現代では、「該博な知識」を持っていることの価値が、大きく低下している。
なぜなら、現在、急速に進展する人工知能(AI)革命の結果、いまでは、ChatGPTなどの対話型AIに簡単な質問をするだけで、世界中のウェブから集められた専門知識に基づき、分かりやすく説明してくれるからである。
すなわち、「該博な知識」だけなら、もはや、人間はAIには絶対に敵わない時代を迎えているのであり、AI革命が、「該博な知識」を持つことの価値を、大きく低下させてしまったのである。そして、その結果、かつては、人材に対する「褒め言葉」であった、「博識」や「物知り」「博覧強記」といった言葉が、いまでは「死語」になってしまったのである。
第二は、「書物を通じて」に関する時代の変化である。
近年、様々なメディアの発達と多様化によって、人々が情報や知識を手に入れる方法が、劇的に変わってきた。その結果、「活字メディア」である書物よりも、「マルチメディア」である映像や動画を通じて情報や知識を手に入れる人々が増えているのである。特に、若い世代は、YouTubeやTikTokなどで情報や知識を手に入れることが主流となっており、その結果、書物を読む人が少なくなっている。
そして、情報や知識を手に入れるメディアとして、映像や動画が主流になることによって、大きく変わったことがある。それは、映像や動画は、マルチメディアであるため、活字メディアに比べて、視聴覚に訴える迫力ある「疑似体験」や、強く印象に残る「仮想体験」ができることである。このこともまた、「教養」の意味を、これから大きく変えていく。
第三は、「様々な専門分野」に関する時代の変化である。
これまでは、「教養」を身につけるために、難しい専門分野の本でも、努力して読みこなし、様々な思想や世界観、理論や概念を学ぶことが大切とされてきた。
しかし、現代においては、専門分野の難しい本を読まなくとも、テレビの教養番組やドキュメンタリー映画、さらには、YouTubeの動画などを通じて、専門分野の学びができるようになっている。ときに、漫画やアニメを通じても「深い学び」ができるようになっている。
実際、最近では、身近なSF小説や娯楽小説、漫画やアニメでも、人類の歴史や未来、政治や経済の矛盾、DVやLGBTQの問題などを考えさせるものも生まれており、誰にもなじみやすい表現と印象的な物語を通じて、深い思想や世界観を伝えるものが増えている。
これらが、現代において、「教養」の前提条件に生じている大きな「三つの変化」であるが、その結果、この「三つの変化」が、これから、「教養」の在り方に、次の「三つの深化」を求めるようになると、筆者は考えている。
第一の深化は、「専門の知」から「生態系の知」への深化である。
先述のように、現代は、AI革命の結果、個別の専門知識だけなら、AIが、世界中の最先端の知識を、分かりやすく教えてくれる時代になった。
その結果、人間の価値は、様々な専門知識を持っていることではなくなる。
では、「知識」が人間の価値でなくなるのであれば、何が価値となるのか。
「知の生態系」である。
すなわち、「一つのテーマ」「一つの問題」「一つの問い」を中心として、様々な知識と叡智が結びついた個性的な「知の生態系」を持っていること、自身の知的成長とともに成長し続ける「知の生態系」を持っていることが、その人間の価値になっていく。
実際、昔から、分野を問わず、優れたプロフェッショナルは、個別の断片的な「専門知識」を持っているのではなく、そのプロフェッショナルなりの「個性的な思想体系」を持っており、それが「知の生態系」と呼ぶべきものによって支えられている。
それゆえ、これからの時代、人間にしかできない「最も高度な知的営み」は、心に「深い問い」を抱き、その問いの周りに、様々な知識と叡智が集まり、進化し続ける「知の生態系」を生み出すことである。
では、「深い問い」とは、何か。
それは、例えば、「人間とは何か」「組織とは何か」「社会とは何か」「生命とは何か」「心とは何か」「幸せとは何か」「死とは何か」「宇宙はなぜ存在するのか」「地球とは奇跡の惑星か」「自然と人間の関係は何か」といった問いであり、容易に答えの得られない問い、ときに「答えの無い問い」と呼ぶべき問いである。
そして、もし我々が、そうした「深い問い」を心に抱くならば、そして、その問いを問い続けるならば、そこには、自然に、知識と叡智が結びついた「知の生態系」が生まれてくる。
このように、これからの時代、「教養」というものには、「専門の知」から「生態系の知」への深化が起こるが、これが「新たな教養」の第一の意味に他ならない。
第二の深化は、「言語の知」から「体験の知」への深化である。
先述のように、現代は、新聞や雑誌、書籍などの「活字メディア」よりも、映画やテレビ、動画などの「映像メディア」を通じて、多くの人々が知識を学ぶ時代になった。
この変化の大きな意味は、映画やテレビや動画は、「実際の体験」ではないが、マルチメディアによる迫力ある「疑似体験」や「仮想体験」が得られるものであり、それは、活字メディアよりも、圧倒的に視聴覚に訴えてくるものである。
例えば、ベトナム戦争の真実について学びたいならば、書物で「ベトナム戦争の記録」を読んでも、「単なる知識」としてのベトナム戦争しか理解できないが、もし、NHKの映像ドキュメンタリー『映像の世紀』や映画『プラトーン』を観てベトナム戦争を学ぶならば、それは、「疑似体験」を通じての、感覚的・身体的な次元での深い学びになるだろう。
そして、漫画やアニメも、戦争の真実を、ある種の「疑似体験」として、共感とともに、深く伝えてくる。漫画『はだしのゲン』や『ペリリュー』、アニメ『あの日、僕らは戦場で』などは、その一例であろう。
このように、これからの時代、「教養」というものには、「言語の知」から「体験の知」への深化が起こるが、これが「新たな教養」の第二の意味に他ならない。
第三の深化は、「理論の知」から「物語の知」への深化である。
先述のように、「言語の知」から「体験の知」への深化が進むにつれ、例えば「人間とは何か」「組織とは何か」「社会とは何か」を学ぶとき、単なる抽象化された「理論」として学ぶよりも、具体的な生きた「エピソード」や「物語」から学ぶことが主流になっていくだろう。
もとより、昔から、「教養」を身につけるために、古典的な小説や文学から学ぶことが勧められたのは、そうした意味もあったが、現代においては、活字メディアとしての小説や文学を読む人々は減っている。しかし、一方で、具体的な生きた「エピソード」や「物語」を伝えるメディアとしては、小説や文学に加え、映画や映像、テレビや動画、漫画やアニメなど、むしろ多様なメディアが存在している。
例えば、「人間学」を学ぼうとしても、書物で儒学の古典や宗教書を読み、抽象的な思想や教義を学んだだけでは、しばしば「論語読みの、論語知らず」という状況に陥ってしまう。
むしろ、真に「人間学」を学びたいのであれば、優れた人物の印象的な「エピソード」が書かれた自伝やルポルタージュを読むことや、小説や映画、漫画やアニメを通じて、人間心理を生々しく描いた「物語」を読み、観ることこそが、「人間学」を学ぶ良い方法となる。
なぜなら、具体的な生きた「エピソード」や「物語」を読み、観ることは、単なる抽象的な思想や教義の学びとは異なり、自分自身の人生を振り返り、仕事を振り返り、マネジメントを振り返ることができ、自身の行動や生き方を照らし出し、自身の人生体験と重ね合わせて、深く学べるからである。
このように、これからの時代、「教養」というものには、「理論の知」から「物語の知」への深化が起こるが、これが「新たな教養」の第三の意味に他ならない。
以上、「新たな教養」の三つの意味について述べてきたが、『教養を磨く』という書名の本書は、この「新たな教養」の考えに基づき、次のスタイルで、読者に「教養」を深めてもらうことを意図したものである。
第一に、本書は、筆者自身の抱く様々な「深い問い」を中心に、様々な知識と叡智を縦横に結びつけ、それを「随想」(エッセイ)の形で語っている。[生態系の知]
第二に、本書は、専門書だけでなく、映画や小説、ときに漫画の、様々な場面を紹介し、その場面の「疑似体験」を通じて、読者に様々な学びと気づきを提供している。[体験の知]
第三に、本書は、筆者自身の体験やエピソードの紹介を通じて、「人間とは何か」「組織とは何か」「マネジメントとは何か」について、様々な形で洞察を語っている。[物語の知]
そして、本書は、読者に、このスタイルでの学びを提供するため、敢えて、七五篇の随想を、テーマやジャンルごとに分類していない。
逆に、「人類の未来」が語られた後、「話術の極意」の話になり、「宗教思想の神髄」が語られた後、「戦略思考の要諦」の話になり、「最新の宇宙論」が語られた後、「人間成長の技法」の話になるなど、読者は、その縦横なテーマの展開に、驚かれ、楽しまれるだろう。
まずは、この後の「目次」を読んで頂きたい、それだけで、筆者の語る「新たな教養」とは何かを、理解されるだろう。
そして、本書を、毎日一話、目次の順に読まれるならば、読み終わったとき、読者の知的世界が広がっていることに気がつかれるだろう。そして、様々なテーマについて、深い問いを抱き、思索が深まっていることに気がつかれるだろう。
ちなみに、筆者は、大学院の講義も、同じスタイルで行っている。
そのため、様々なテーマを縦横に語る筆者の講義は、学生諸氏から、「名刺交換から宇宙論まで」と呼ばれている。
「宇宙論、歴史観から、話術、人間力まで」という副題の通り、本書を、縦横に味わって頂ければ幸いである。
目 次
はじめに 二一世紀に求められる「新たな教養」とは何か
第一部 哲学の究極の問い
哲学の究極の問い
「運命」とは何か
リーダーの話術の神髄
二一世紀の文学の新たな役割
心の「エゴ」に処する力
才能を開花させる技法
人工知能革命による「学歴社会」の崩壊
「明日、死ぬ」という修行
プロフェッショナルの「奥義」とは何か
「カオス的世界」に処する叡智
「不運」の姿をした幸運
戦略思考の深み
第二部 科学と宗教の対立を超えて
パンデミック危機後の社会
「苦労」の意味
上手な二流、下手な一流
人生のすべての記憶
「見えている」ことの強さ
「創造性」をめざす過ち
もう一つの生態系
賢明なもう一人の自分
言葉を語るとき問われるもの
科学と宗教の対立を超えて
謙虚さと感謝の「逆説」
「我流」の落し穴
第三部 「戦略的反射神経」の時代
第四次産業革命が求める人材 三つの能力
なぜ、嫌いな人は、自分に似ているのか
「人生百年時代」の覚悟
「進歩史観」の過信
「透明な感性」が現れるとき
AIの時代からIAの時代へ
「無」と「空」の持つ力
才能の開花を妨げる「迷信」
「戦略的反射神経」の時代
「共生」という思想を超えて
静かな強さ
「褒める技術」の落し穴
第四部 「フォース」を使う技法
「新しい資本主義」とは何か
人生の「三つの真実」
直観力を身につける二つの道
人工知能政府の反乱
「悟り」とは何か
なぜ、古典を読んでも人間力が身につかないのか
英雄のいない国
「フォース」を使う技法
長寿と淘汰の時代のキャリア戦略
人工知能の「やり切れなさ」
「心の機微」のマネジメント
言葉に「言霊」が宿るとき
第五部 「ポジティビズム」の時代
我々を映し出す鏡
「成功者」の不思議な偶然
潜在意識のマネジメント
AIが故人を蘇らせるとき
可能性開花 究極の技法
「心の生態系」に処する力
「ポジティビズム」の時代
「不動心」の真の意味
優秀な人材が突き当たる壁
「死」とは何か
「我欲を捨てよ」の危うさ
プロが育たない理由
第六部 「神の技術」がもたらすもの
「制御不能社会」の出現
「可能的自我」への共感
直観を閃かせる技法
「神の技術」がもたらすもの
創造という行為の秘密
リーダーの「演じる力」
二一世紀の「利他主義」
「卒業証書」を手にするとき
「完璧主義者」の真の才能
第七部 思想を紡ぎ出す読書
人類の幼年期の終わり
不運が幸運に転じるとき
言葉を超えて伝わるもの
最先端科学と宗教的情操
人生で起こること、すべて良きこと
思想を紡ぎ出す読書
謝辞
さらに学びを深めたい読者のために