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ブラッド・ピットの右腕には……アメリカで最も敬愛されるムスリム詩人

アラビア半島で生まれたイスラム。その文化は瞬く間に北アフリカからイベリア半島に広がりました。そして、ヨーロッパに一大革命をもたらしました。今のヨーロッパの文化における基礎の一つは、イスラムの学術的成果や農業技術、工芸、食事文化などにルーツをもちます。ヨーロッパの中世から近代までの発展は、イスラム文明の文化・社会的影響や遺産抜きではあり得ませんでした。このことを、どれくらいの方々がご存知でしょうか。また、日本は明治期以降、ヨーロッパ文明から少なからぬ影響を受けてきました。そのヨーロッパ文明の中には、イスラム起源のものが数多くあります。私たちは、ヨーロッパのものだと思って受け入れたものの中に、イララムの知恵や文化や、科学が含まれていることをほとんど知らないといっても過言ではないでしょう。長年、イスラム世界を研究してきた宮田律さんは、このたび『イスラムがヨーロッパ世界を創造した』を上梓しました。中東とヨーロッパは、いかに交わり、溶け合い、互いに寛容の心をもって共存を実現してきたのでしょうか。刊行を機に、本文の一部を抜粋して紹介いたします。(トップ画像撮影:宮田律)

衝突が続く現代社会に響くメッセージ

ムスリムの詩人の中に、アメリカ人が敬愛する人物がいます。イスラム神秘主義詩人ルーミー(1207〜1273年)です。彼は、現在のアフガニスタンのバルフで生まれました。

ルーミーは現在、アメリカではベストセラー詩人と言われるほどの人気があります。彼の作品には宗教の枠を超えた普遍精神や、他宗教に対する理解や寛容の心が貫かれていて、それが多くの共感を呼んでいるのです。

アメリカの俳優ブラッド・ピットの右腕にはルーミーの詩の一節がタトゥーとして彫られています。それはコールマン・バークスの英訳で「There exists a field, beyond all notions of right and wrong. I will meet you there.(正しさと誤りの概念を超えたところに野原がある。そこで君と会うだろう)」というものです。人間は互いの相違を乗り越えて寛容にならなければならないというメッセージがそこにはあります。

この詩に見られるように、ルーミーが説く普遍性は、個々の民族や宗教に限定されず、それらの相違や多様性を超えて広く人類に共通するものです。この詩も、諸宗教はその本源に目覚めれば、その多様性にもかかわらず共通の地盤に立って理解し合えることを強調しています。宗教や宗派、民族によって争いや衝突が続く現代の国際社会に対して、とても重たいメッセージをルーミーは伝えています。

ペルシア文学史上最大の神秘主義詩人

ルーミーのペルシア名はジャラール・アッディーン・ムハンマド・バルヒー。最後の「バルヒー」は生まれ故郷のバルフにちなみます。当時のモンゴル勢力による戦火を避けるため、家族は何年にもわたる放浪生活の末、最終的にアナトリアのコンヤ(現在のトルコの都市)に住み着きました。このコンヤは、かつて「ルーム(ギリシア人が住む地域)」と呼ばれていて、彼が最後に居住したところが「ルーム」だから「ルーミー」と呼ばれるようになりました。

ルーミーの故地バルフに近いマザリシャリフにあるイマーム・アリー廟(撮影:宮田律)

ルーミーはペルシア文学史上最大の神秘主義詩人と言われています。多くのキリスト教徒の弟子たちもいました。ある日、ルーミーの説教に多くのキリスト教徒が感激して涙を流す様子を見て、あるムスリムはルーミーに「どうして異教徒があなたの話を理解できるのですか」と尋ねた。すると、ルーミーは「道はいろいろ違っても、行き着く先はただ一つ」と答えました。

「道はいろいろ違っても、行き着く先はただ一つ。
見るがいい。メッカの聖所に至る道は幾つもある。
或る人は小アジアからの道を取り、或る人はシリアから、或る人はペルシャから、或る人はシナから。また或る人はインドやイエメンからはるかな海路を越えて行く。もし道だけを見れば、みんなてんでばらばらで、お互いの開きは限りない。が、目指すところに目をつけて見れば、みんなが一致して1つになってしまう。すべての人の心が一致してメッカの聖所に向っているからだ」

(『ルーミー語録』井筒俊彦訳、岩波書店)

「被造物の間の差異は外的な形に由来する。人が内なる意味を理解したとき、そこには平和がある。おお、存在の精髄よ! イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の間に差異が生ずるようになったのは、観点の違いのためである」

(『ルーミー語録』井筒俊彦訳、岩波書店)

ルーミーの作品には宗教の枠を超えた普遍精神や、他宗教に対する理解や寛容の心が貫かれています。イスラム思想史研究の竹下政孝氏は、これらはモーゼやイエスを預言者として認めることはもちろんのこと、他の各民族にも預言者が送られたと考え、これら多くの預言者の教えは、ムハンマドのもたらした教えと同じであると説くイスラムの原理に最も忠実なものと述べています。

イスラムは、このように寛容や次のコーランの節のように中庸の道を説くものであり、他宗教を攻撃し、また少数宗派に暴力をふるうのはイスラム本来の教えとは明らかに異なるものです。

「それゆえ、汝は命ぜられたとおりに正しく歩め。汝に従って悔い改めた人々もだ。度を超してはならない。主はおまえたちの所業をお見通しである」

(『コーラン』11章112節)

現代におけるルーミーの重要性は、イスラム・フォビア(恐怖症)が見られる風潮の中で彼の詩作や著作を通じてイスラム世界の寛容な思想に触れることができ、イスラムが決して暴力的なイデオロギーでないことを知ることができます。

ふたつにみえて世界はひとつ

彼の詩集はアメリカではベストセラーになっています。スマートフォンのケースやシャワー・カーテン、クリスマス・ツリーのオーナメント、玄関マットなどにも彼の詩の一節は見られます。

「ただひとつの息がある」
わたしはキリスト教徒ではない
ユダヤ教徒ではない
いいえ イスラム教徒でもない
わたしはヒンズー教徒ではない
スーフィーではない 禅の修行者ではない
いいえ どんな宗教にもどんな文化にも属していない

(中略)
わたしは
愛している
あの人のなかにいます
ふたつにみえて世界はひとつ
そのはじまりもその終りもその外側もその内側もただひとつにつながる
そのひとつの息が人間に息を吹き込んでいます

(エハン・デラヴィ『スーフィーの賢者ルーミー─その友に出会う旅』
西元啓子編集、愛知ソニア訳)

ルーミーには次のような説話もあります。
ある将軍がルーミーや他のイスラム神秘主義者は神との合一とか、奇跡とか精神・空想上の事象にどうして自らを捧げるのかと尋ねられると、ルーミーは、将軍たちは大規模に戦い、死、流血を国と国の間の境界にもたらすことに身を捧げているが、領土を分ける境界(国境)ほどの空想はない。神秘主義のような宗教的霊感(=スピリチュアリティ)は少なくとも人を殺すことはないと答えたそうです。

インド系アメリカ人の作家ディーパック・チョプラは、1998年にルーミーの詩を著名な歌手や俳優が朗読したアルバム『愛の贈り物:ルーミーの愛の詩によって触発された音楽(A Gift of Love: Music Inspired by the Love Poems of Rumi)』をプロデュース。マドンナ、マーティン・シーン、デミ・ムーア、ゴールディ・ホーンなどが朗読しました。アメリカは軍事力でルーミーの生まれたアフガニスタンをついに征服できませんでしたが、ルーミーは愛の詩でアメリカを征服しました。

本書目次

【第1章】ヨーロッパの食文化を豊かにしたムスリムたち
【第2章】世界商業の発展に貢献したシルクロードとムスリムたち
【第3章】ヨーロッパ社会に貢献したイスラム文化と十字軍が紹介したイスラム文明
【第4章】アンダルス――文化的寛容とイスラムの栄光
【第5章】12世紀ルネサンスに影響を与えたイスラム――シチリア島とイタリア半島
【第6章】ヨーロッパ近世とイスラム
【第7章】現代地中海世界の共存
【第8章】イスラム世界で活躍したユダヤ人たち
【第9章】共存と愛を説いたイスラムの詩人・文学者たち

著者プロフィール

宮田律(みやたおさむ)
1955年山梨県生まれ。一般社団法人・現代イスラム研究センター理事長。慶應義塾大学文学部史学科東洋史専攻卒。1983年、同大学大学院文学研究科史学専攻を修了後、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程修了。1987年、静岡県立大学に勤務し、中東アフリカ論や国際政治学を担当。2012年3月、現代イスラム研究センターを創設。専門は、イスラム地域の政治および国際関係。著書に『イラン』(光文社新書)、『物語 イランの歴史』『中東イスラーム民族史』(以上、中公新書)、『現代イスラムの潮流』(集英社新書)、『武器ではなく命の水をおくりたい 中村哲医師の生き方』(平凡社)などがある。

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