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中野京子「名画で読み解く」シリーズ完全電子化記念|序章公開④イギリス王家

中野京子著の大ヒット作「名画で読み解く」シリーズの完全電子化を記念して、全既刊本の序章等をnoteで公開してまいりました。ラストとなる今回は、2017年刊行の『名画で読み解く イギリス王家12の物語』より序章全文を公開します。

序章

塔という名の城塞

 旧ロンドン市の東部、テムズ川の北岸に威容を誇るロンドン塔は、世界遺産に登録され、観光名所として知られる。ふつう「塔」という名称から受けるイメージは、ピサの斜塔のような単独のタワーだが、ロンドン塔はそうではない。頑丈な城壁に囲まれた十八エーカー(七ヘクタール強)の広い城塞であり、大小十三もの塔を擁するところからこう呼ばれるようになった。正式名称は「女王陛下の宮殿にして要塞」。

 起源は一〇七八年、ウィリアム一世による要塞建造からとされる(はるか以前の古代ローマ帝国駐屯地跡が同地に残るが)。その後、歴代の王が濠や城壁をめぐらせ、次々に建造物を建て、また増築改修し、天守閣にあたるホワイトタワーや礼拝堂、大広間、造幣局、天文台、兵舎、武器庫、一時は動物園まで備えた大城として、イギリス王室のシンボルとなってゆく。

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 敵を迎え撃つ要塞であり、平時は王の居城だったロンドン塔が、人質や国事犯用の牢獄として使われだしたのは十二世紀。難攻不落なだけに脱出も不可能で、監禁用にも最強である。ただし初期の、特に戦争相手の人質は身代金目的なので幽閉とはいえ待遇は良かった。それが悪名高い血の城塞(ブラッディ・タワーという恐れ入った名の塔まで建っている)へと変貌するのは、十五世紀の薔薇戦争以降だ。権力争いに負けた王侯貴族や聖職者、学者などが、ここで次々に死刑を待った。反逆者の門、鉄格子の地下牢、拷問室、タワー・グリーンという名の処刑広場などに、おどろおどろしくスポットライトが当たる。

 意外にも、城壁内で斬首されたのは王妃ら七人のみ。他の死刑囚はロンドン塔から城外へ引き出され、壁のすぐ傍らにあるタワー・ヒルでの公開処刑だった。おおぜいの民衆が縁日のように飲み食いしながら楽しんで見物した。打ち落とされた生首にはコールタールが塗られ、反逆者の門やロンドン橋の上に晒された。

 幽霊好きのイギリス人なので、塔内での目撃譚は夥しい数にのぼる。有名なのは自分の首を両手で抱くアン・ブーリンだが、他にもヘンリー六世や少年王エドワード五世とその弟など、恨みを残して処刑ないし暗殺された高貴な人々の霊が城のあちこちをさまよっているらしい。夏目漱石は『倫敦塔』の中で、塔の見物は一度に限ると書いている。それは彼の霊感が強すぎ、感応するものがあったからだろうか……。

ロンドン塔の囚われ人たち

ロンドン塔のイメージが陰惨さのピークを迎えたのは、テューダー朝ヘンリー八世時代だった。体制が落ち着くに従い処刑者数は減ってゆき、ステュアート朝チャールズ二世時代で実質的な処刑は終わり、ハノーヴァー朝ヴィクトリア女王時代になると、ここは王家の城塞というより歴史遺産的建造物としての性格を明確にする。

 もちろん囚人がいなくなったわけではなく、拷問や処刑、塔内での暗殺が終わったのだ。ロンドン塔最後の収容者は、なんとヒトラーの片腕にしてナチスの大物ルドルフ・ヘス。第二次世界大戦中の一九四一年、イギリスへ謎のパラシュート降下した彼は、三日間だけ塔に幽閉された後、軍基地へ移送され、これをもって塔の囚われ人は完全にゼロとなる。

 ロンドン塔に監禁後、まもなく殺された歴史上の人物を年代順に少しあげておこう。

 十四世紀前半――スコットランド独立運動の闘士ウィリアム・ウォレス。

 十五世紀後半――ランカスター朝最後の王ヘンリー六世、暗殺。その十二年後にヨーク朝エドワード五世と弟が、塔内で行方不明。

 十六世紀前半、ヘンリー八世関連――王の離婚に反対した思想家トーマス・モア、二番目の王妃アン・ブーリン、五番目の王妃キャサリン・ハワード、宰相トーマス・クロムウェル、メアリ一世の名付け親ソールズベリ女伯爵マーガレット・ポール。

 十六世紀後半――九日間だけの女王ジェーン・グレイ。

 十七世紀前半――エリザベス一世に対する反逆罪でエセックス伯ロバート・デヴルー。ジェイムズ一世爆殺容疑者ガイ・フォークス。

 処刑に至る前に拷問死した人間も少なくない。水責め、火炙り、牽引台、何でもありだった。

 一方、生きては帰れぬと言われた反逆者の門をくぐりながら、強運によって生還した者もいる。そのひとりがエリザベス一世で、彼女はただ塔を出ただけでなく、その後長くイギリスに君臨した。そして自分も臣下を何人もロンドン塔へ放り込んだ。先述したロバート・デヴルーの他に、お気に入りのウォルター・ローリーもそうだ。だが投獄の理由が理由だったため――女官と密かに結婚していたことへの嫉妬――ローリーは二カ月後には塔から出された。

 そんなあれやこれやの王室をめぐる事件の数々を、ロンドン塔は一千年にわたって見続けてきたのだった。

イギリス王室

イギリスという国はない。この言葉は日本語にすぎず(ポルトガル語Inglezが訛ったとされる)、世界は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、略してUK)と正称で呼ぶ。

 だがこのUKという国家体制に至るまでには、幾世紀もの戦いに次ぐ戦いが必要だった。小さな島国だというのに、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド人で支配権を争い、なお且つ外国からの侵攻や宗教戦争も絶えなかった。実にややこしい。ややこしいから日本では、イギリスだのイギリス人だのという便利な言葉で総称させているのかもしれない。本書もそれに倣おう。

 さて、そのイギリスにおける王室の始まりはいつか?

 異論はさておき、一応こう考えられている――ロンドン塔の基礎を作ったウィリアム一世即位の年、一〇六六年。なぜならこれ以降、一人の王による国内統治が続くことになったからだ。

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 ではウィリアム一世はイギリス出身か?

 違う。彼はノルマン人なのでノルマン王朝を開いた。ノルマン人の先祖はバイキング。つまり北欧に住み着いたゲルマン人ということになるが、またもややこしいことに、彼自身は代々フランスに住み、フランス語を話し、フランス王の廷臣ノルマンディー公ギョームと名乗っていた。そのギョームがイギリスを征服してウィリアム一世となったのだ。要するに、依然としてフランス王の臣下でありながらのイギリス王である。ウィリアム一世の別名がウィリアム征服王なのはそのためだし、今後に続く英仏関係の複雑さが納得されよう。

 このノルマン朝は百年近く続き、ようやくイングランド人によるプランタジネット王朝が十二世紀半ばから二百五十年ほど続く。末期に英仏百年戦争が勃発し、ジャンヌ・ダルクで勢いづいた相手にしてやられたイギリスは、カレーだけを残し、それまでに得た大陸の領土を全て奪い取られてしまう。

 王冠はプランタジネットの分家ランカスター家のものになっていたが、敗戦のごたごたもあり、もう一つの分家ヨーク家が台頭してきて、ついに身内同士の対決となり、一四五五年から三十年にわたる激しい内紛が始まる。これが世に知られた「薔薇戦争」だ。名前がロマンティックなのは、両家の紋章にちなむ。ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇だった。

 前半は赤が、後半は白が有利となり、エドワード四世が二十二年も王座にあって、このままヨーク王朝が続くかと思われたのに、病死。すぐさま十三歳の王太子がエドワード五世を名乗る。後見人は父の弟リチャード。少年新王はそのリチャード叔父から、戴冠式まで十一歳の弟と二人でロンドン塔にて待機するよう、命じられた。

 この叔父こそが、シェークスピア初期の傑作『リチャード三世』で魅力たっぷりに描かれる、悪党中の悪党なのだ。「歪んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠える」(福田恆存訳、新潮文庫)と自嘲めかした台詞を吐きつつ、甥たちをロンドン塔に閉じ込め、殺し屋に始末させ、リチャード三世として玉座に座った……と断言したいところだが、シェークスピアは反リチャード側の劇作家だから、そうとうなフィクションが混入しており、歴史家からは疑義が多い。リチャード三世が二人の少年をロンドン塔へ入れたこと、婚外子に王位継承権はないと主張して自ら戴冠したこと、その後いつの間にやら少年たちがロンドン塔から消えたこと。これは事実としてあるが、はたして少年殺しはリチャードだったのか、未だ定説はない。

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 十九世紀フランス・アカデミーの重鎮ドラローシュが、緊迫した場面をみごとに描きあげている。身を寄せ合う二人、ドアの隙間からのぞく影、吠える犬。この犬の存在によって、ドラローシュがシェークスピア説を採っているのがわかる(本作の詳細な解説は拙著『名画の謎 陰謀の歴史篇』〈文藝春秋〉参照)。

 およそ半世紀後、イギリス人ミレイも同主題を取り上げた(扉絵)。ドラローシュを意識した作品であろう。背景にほとんど何の小道具も置かず、ひんやり薄暗い牢獄の地下を暗示することで、少年たちの寄る辺なさが強調される。彼らを殺した真犯人への仄めかしもない。ミレイの時代には研究も進み、リチャード三世はわずか二年の治世ではあったが善政を敷き、甥を殺したのではないとの説も有力になっていたからかもしれない。

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 いずれにせよ歴史はリチャードに味方しなかった。反ヨーク家が結集した天下分け目のボズワース戦で、リチャードが華々しく戦死し(シェークスピアでは「馬をくれ、馬を! 代わりに国をやるぞ!」が最後の名台詞ということになっている)、薔薇戦争は終わる。

薔薇戦争後

ヨーク家の直系はここに途絶えた。だがランカスター家が再興したわけではない。ボズワース戦の勝利者ヘンリーはランカスター直系ではなく、ジョセフィン・テイの『時の娘』によれば、「王の弟息子の私生児のそのまた曾孫」(小泉喜美子訳)にすぎない。

 本人も負い目を感じていたのだろう。薔薇戦争後、新王ヘンリー七世として即位すると、王朝名も新たなテューダーとした。さらに箔を付ける必要から、ヨーク家の王女、即ちエドワード四世の娘にして、消えた少年たちの姉、さらにリチャード三世の姪でもあるエリザベスを妃にした(彼女に否と言う自由があるはずもない)。

 ヘンリー七世は――肖像がその抜け目なさを語っているかに見える――したたかな政治家だったので、ヨーク家につながりのある男は皆殺しにして、財産を全て没収した(このやり方を後に息子のヘンリー八世が引き継ぐ)。

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 妃エリザベスの母(姑にあたる)を修道院へ幽閉し、敵将への敬意どころかリチャード三世の遺体を辱めた(少年らを殺したのはヘンリーだとする研究者が出るのも無理はない)。生まれた長男にアーサーと名付け、いかにも家系がアーサー王伝説につながるかのように対外アピールするのも忘れなかった。リチャード三世悪党説はそのずっと前から流していた。

 存外こういう王朝は長続きするものだが、テューダーは思いがけない終わり方になる。ハプスブルクはもちろん、ロマノフやブルボンにも遠く及ばず、百二十年に満たない命脈だった。王家が転変する度に途轍もない人物が生まれ、ドラマが生まれるのが英国史の面白さといえる。また大国でいまだ王室を戴いているのはイギリスだけというのも興味が尽きない。

 本書ではイギリス王室の三王朝、イングランド人によるテューダー家、スコットランド人によるステュアート家、ドイツ人によるハノーヴァー家とその変名の王家について、それぞれ名画にからめた歴史物語を繙いてゆきたい。

※『リチャード三世』は福田恆存訳、『時の娘』は小泉喜美子訳

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