【第5回】〝世界の果て〟を歩く|パタゴニア編(前編)
数々の極地・僻地に赴き、想像を超える景色に出会ってきたネイチャー・フォトグラファーの上田優紀さん。ときにはエベレスト登山に挑み、ときにはウユニ塩湖でテント泊をしながら、シャッターを切り続けてきました。振り返れば、もう7大陸で撮影してきているかも!? そこで、本連載では上田優紀さんのこれまでの旅で出会った、そして、これからの旅を通して出会う、7大陸の数々の絶景を一緒に見ていきます。第5回はパタゴニア。130kmにおよぶトレッキングの最中に、思わぬ出会いがありました。
〝世界の果て〟へ
僕を乗せた乗合バスの車窓からは、夏を終えて緑から黄色に色を変えた草原が地平線の向こうまで広がり、暗い雲が空を覆っている。空が近いのか、雲が近いのか、今にも雨を降らせそうな重たい雲は異様に大地から近く、手が届きそうに見えた。その荒涼な風景に、果てまで来たな、という気持ちが湧いてくる。
パタゴニア。一般的に南米大陸の南緯六〇度周辺の地域のことを指し、大航海時代に冒険家のフェルディナンド・マゼランによって発見された。Fin Del Mundo——世界の果て——と呼ばれ、手つかずの自然が未だに多く残されており、世界中のトレッカーたちの憧れの地になっている。
日本を離れて四〇時間。アメリカとアルゼンチンで飛行機を乗り継ぎ、チリのプエルト・ナタレスという町にやって来た。人口二万人足らずのこの小さな港町には、トレッカーをはじめ毎年約一〇万人が訪れ、そのほとんどがここから北東約一二〇キロメートルの場所にあるトーレス・デル・パイネ国立公園を目指す。当然、僕がこの町に来たのも、この荒涼なパイネの大自然を撮影するのが目的だった。
町に着いた翌日、早速、トレッキングの準備に取り掛かった。パイネ国立公園での撮影はもちろん全て一人で行うため、撮影機材やテント、寝袋、キャンプ用品、食料などを含めた全ての荷物を自ら持ち運ばなくてはならない。今回は二週間かけて一三〇キロメートルを歩くため、持ち運ぶ荷物は慎重に選んでいった。重さは体力だけでなく、精神的にも足を止め、それは撮影にも影響してくる。特に気をかけたのが食料だった。そもそも必要最低限の荷物しか持ってきておらず、撮影機材を削ることはもってのほかだし、テントなどキャンプ用品は軽く、小さくなる最新のものを日本から持ってきている。唯一、少しでも荷物を軽くするために調整出来るものは食料だけだった。
日本にいる時からそれほど食に大きなこだわりがあるわけではないが、それでも、一日中、山の中を重い荷物を持って歩きまわり、撮影を行えるだけのエネルギーを摂取しなくてはならない。二週間くらい肉類は取らなくても問題ない。行動食は高カロリーかつビタミンB2やビタミンEを多く含むナッツ類がベストだ。最終的に、朝食:温めた脱脂粉乳にフルーツグラノーラ五〇グラム、それにハチミツを入れたもの、昼食:チョコバー一本とナッツ類三〇グラム、夕食:トマトパスタ一〇〇グラム、マッシュポテト五〇グラムに粉チーズを入れたものを二週間分持っていくことにした。
出発前夜、パッキングをすると一一〇リットルのバックパックは、はち切れんばかりに膨れ上がっている。それでも全ての荷物が入りきらず、溢れた調理器具などはバッグの外側にカラビナで引っ掛けることにした。重さをはかると四〇キログラムを超えている。ちなみに僕の体重は五二キログラムしかないので、ほとんどもう一人自分を背負いながら山歩きをするようなものだった。
原初の世界に踏み入る
出発の朝、はじめて背負う重さに驚愕した。普通に持ち上げることが出来ない。なんとか背負いあげようとバッグに腕を通しても持ち上がらず、ひっくり返った亀のようにジタバタするだけだった。こんなものを背負って、山道を一〇〇キロメートル以上歩くことができるのだろうか。とてつもない不安が襲ってきたが、もう行くしかない。日が経てば食料が減る 分、軽くもなるし、体力もついてくるだろう。そんな淡い期待を胸にひとり宿を後にし、ふらふらとした足取りでパイネ国立公園行きのバス停まで歩いていった。
歩いて、歩いて、丘を越え、山稜を登り、沢へと下る。そうして、また、峰を登っていく。持ち上げることさえ苦労するバックパックは、足を進めるたびに肩と背中と腰に重くのしかかり、まっすぐ歩くことも容易ではなかった。重力を鬱陶しく感じたのは生まれて初めてのことだ。山小屋に荷揚げをする馬に抜かれると、風と僕の足音だけが聞こえる世界になった。たったひとり壮大なパタゴニアを蟻のように這って歩いていく。
地図も見ないでただただ歩いた。機械のように全く同じリズムで同じ行動を何度も何度も繰り返す。左足を踏み出して、息を吐き、次に右足を踏み出して、息を吐く。五歩歩いたらそのままの体制で三度深く息を吐き、また左足を踏み出す。いくつの丘を越えて川を渡ったのかもう覚えていない。全身から汗が吹き出し、額から落ちた大きな粒は大地に染みこんでいく。まるで自分の汗で白地図にマッピングしているようだった。
朝起きると川へ行き、水を汲んで顔を洗って歯を磨き、残りの水でコーヒと朝食を作る。露で濡れたテントを無造作にバックパックにしまい、歩き始める。一時間に一回は休憩をし、エネルギー不足にならないように時々、行動食のナッツを口に運んだ。午後三時か四時ごろにはテントを張って、暖かい日には水浴びをする。太陽が沈む前に夕食を食べて、就寝。よほど疲れているのだろうか、毎日泥のように眠った。そしてまた朝が来ると水を汲みに行く。朝起きる時間から夕食のメニューにいたるまで、来る日も来る日も同じ日の繰り返し。ただただ苦痛でしかないものの、誰から褒められることもないこの行為がなぜか自由で爽快だった。
基本的に毎日違う場所でキャンプをしていたが、疲れが溜まってきていたり、ここはと思う場所があれば同じ場所に連泊していた。そんな日に撮影したのは夜ばかりだ。太陽が沈むと人間の時間は終わり、動物たちの時間がやって来る。それはつまり、原始の世界に近いのではないか。もうこの地球にほとんど無くなってしまった人間のいない世界は夜にこそ存在するのではないか。日本で暮らしているとそんなことは思いもしないが、地球のすみっこにある自然の中では、なぜかいつもそんな感覚になることが多かった。
月明かりの下の出会い
その日もカメラと三脚、それと熱いコーヒーだけをバッグに入れて、目的の場所もなく月明かりを頼りに森を歩いていた。聞こえてくるのは川のせせらぎと虫たちの鳴き声だけ。とても心地のよい音色だった。
しばらく歩いて森を抜けると、僕よりも大きな岩が転がる沢に出た。満月と星々に照らされた岩場はヘッドライトが無くても歩けるほど明るく、大小不揃いな岩が転がる河原を慎重に歩いていく。すると前方に何かが動いた気がした。一瞬、身体が膠着してしまう。何だろう? こんな深夜にトレッカーが山に入るわけもない。ヘッドライトの電気を消し、じっくりと目を凝らしてみると、五〇メートルほど先の岩場でなにやら影が動いているのが見える。一瞬だけ姿を明らかにしたその正体は一匹のピューマだった。
パタゴニアでピューマが人間を襲った、という話は聞いたことはないが、それでもマウンテン・ライオンと呼ばれ、時にはクマやオオカミと争うこともある。そんな野生動物を目の前にして、一気に緊張が走る。月明かりが逆光になって影しか見えないそれは、僕のことをじっと観察しているようだった。数秒がたち、危害がないのが分かったのか、興味がなくなったのか、動けないでいる僕から目線を外すと彼はすっと満月に顔を向けた。月を眺めるピューマのシルエットはしなやかで気品に溢れており、逃げることも忘れてしまうほど美しいものだった。
はっとしてカメラに望遠レンズを付けると、同時にピューマは一瞬こちらに目を向け、そのまま暗闇へと静かに消えていった。一瞬その姿を写真にとらえることが出来なかったことを悔やんだが、あの瞬間だけは僕のものだけにしておこうと思った。時間にしてたった数秒だけのこの唐突な出来事は、あまりに現実離れしていて、しばらくの間、現実か夢なのかはっきりしなかった。
はるか太古の時代からピューマは中南米地域における多くの伝説に登場し、しばしば遺跡のレリーフに刻印されている。古代マヤ文明の創生神話では雨の神が火を人間に与える前まで、人類よりもさらに高位動物だった。火を与えられた人間が文明を開化させたその後も力と権威の象徴とされ、今でも神と同じように崇められている。
あの瞬間は、まるで自分が遠い昔、まだパタゴニアが彼らの世界だった時代にタイムスリップしたような気さえした。何万年も前からこの地に生きる彼らはこれまで一体どんな景色を見てきたのだろう。あのピューマが見せてくれた景色は、もしかしたら人間が誕生する前、ピューマがまだこの世界の主だった時代のパタゴニアの風景だったのかもしれない(後編に続く)。
著者プロフィール
1988年、和歌山県生まれ。ネイチャーフォトグラファー。京都外国語大学を卒業後、24歳の時に世界一周の旅に出かけ、1年半かけて45カ国を回る。帰国後は株式会社アマナに入社。2016年よりフリーランスとなり、想像もできない風景を多くの人に届けるために世界中の極地、僻地を旅しながら撮影を行う。近年はヒマラヤの8000m峰から水中、南極まで活動範囲を広めており、2021年にはエベレスト(8848m)を登頂した。
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