突如、家族もろとも消えた、セリエA優勝3回の名監督をご存じですか?――『セリエA発アウシュヴィッツ行き』より
藤島大さんが素晴らしい書評を書いてくださいました。
あとがき――アールパード・ヴァイスを知っていますか
すべての痕跡が途絶える
本書を書きはじめる前、私はアールパード・ヴァイスについてほとんど何も知らなかった。1930年代のサッカー監督で、たしか第二次大戦の直前、人種法か何かで無理やりイタリアを追われた人。そんな記憶がかろうじてあるくらいだった。白状するなら、長い間、サッカーに携わっている人間としては、決して豊富な知識とは言えなかった。
幸か不幸か、今となっては分からないが、知識がないのは、私だけではなかった。最後には、アウシュヴィッツの遺体焼却所に吸い込まれてしまったこのハンガリー人監督のことを詳しく知っている知人はただのひとりもいなかったのだ。歴史家も、仕事関係者も、ジャーナリストも誰も。人生の終焉を迎えたその日から、彼についてはずっと謎のまま? その後もずっと謎? そんなことがあり得るのか? 答えは、「はい、あり得ます」である。「いったい誰だい?」「え、なんて名前の人?」。私が彼に関する〝忘却の壁〟を打ち破ろうと努めていたころ、いったい何度そんな逆質問を投げかけられたことだろう。
「あなたはアールパード・ヴァイスを知っていますか?」
私は何十回も、いや何百回も、怪訝そうな顔をする人々の前でその質問を繰り返した。1年以上、そのフレーズは一貫して私のもとを離れなかった。そして、私は気がついた。彼の人生は、まったく知られていない。一方で、こんな情熱が湧き上がってきた。調べてみたい。掘り下げてみたい。
特に私の背中を後押ししたのは、彼の最期に光を当てたいという思いだった。サッカー年鑑には書かれていないヴァイスの最期。サッカーのキャリアの後の人生の終末。彼と彼の家族はどのように死を迎えたのか。
その日から、私は記憶をたどる探偵となった。
信じられないかもしれないが、いわゆる〝見えざる手〟が、少しずつ私に、ヴァイス一家の生涯を再構築するための有益な情報を授けてくれたような気がする。
彼らはどのような生涯を生きたのか。どんな不安を抱えながら、どこで暮らしていたのか。その時はまだナチスの収容所で亡くなったのかさえ確信はなかった。もちろん、想像はしていた。しかし、推測の域を出てはいなかったのである。
1945年以降、一家の誰も戻ってはこなかった。それを知った何人かのイタリアのジャーナリストは、その空白をホロコーストと結びつけ、最初の記事を書いたに違いない。確かに筋は通っている。ただ、それが真実かどうかは分からなかった。名字ひとつとっても、本来のWeiszの綴りの他に、イタリア語風のVeiszも、資料ごとあるいはその時彼らが在住していた国ごとに混在しており、誤解を生みだす要素はいくらでもあった。
そんな一家のストーリーの断片をひとつひとつつなげていく。そのための旅は、私にとって特別なものだった。もしその物語の中枢に、個人と民族を巻き込んだとてつもなく大きな悲劇が横たわっていなければ、私は「実に魅力的な旅だった」と声高に言っていただろう。本を書き終えた今、私の心にとどまり続けている疑問は、なぜ、この国で最も愛されているカルチョというスポーツに関わり、あれほど素晴らしい成果を残した重要人物が、闇の中に葬り去られていたのか、ということである。存在自体が消されていたのか。
もちろん、戦争の影響はあっただろう。おそらく、無意識のうちに記憶の彼方に追いやられてしまったのかもしれない。それとも、もっと単純にただたまたま忘れ去られる運命だったのか。それは今でもよく分からない。
つまり、アールパード・ヴァイスについては、彼が亡くなってから70年間、すべての痕跡が途絶えていたのだ。サッカーの黄金期のひとつだったあの時代に、3度のスクデットや国外タイトルなど多くの栄光を手にした名伯楽の痕跡が……。今もしあれだけの実績があれば、スポーツ紙の紙面を連日飾り、夕方のニュース番組でも彼を見ない日はないだろう。そんな偉大な指揮官のひとりが忽然と姿を消したら、いったいどうなるだろうか。その「まさか」の事態が、アールパード・ヴァイスには実際に起きたのである。
唯一の例外があった。それについては、今でもどうしてあんなことができたのか不思議だし、興味もある。1960年代、奇しくも現役時代にはヴァイスの教え子であったフルヴィオ・ベルナルディーニ監督の指揮のもと、ボローニャが最後のスクデットを獲得した際、クラブの雑誌の中で、ある地元出身の記者が、亡くなる前のヴァイス一家の苦難に満ちた道のりについてかなり詳細な言及を行っている。彼はいったいどうやってあの情報を手に入れることができたのか、どの資料からか、外国の新聞あたりから収集したのだろうか、だとするとどんな新聞から、できることならその記者に直接たずねたかった。ただ、彼はすでに亡くなっている。ヴァイスが率いていた偉大なボローニャ、あるいは当時のインテルでプレーしていた選手たちも、ほとんどがもはや鬼籍に入っている。残っているのは、紙の資料のみ。原資料を丁寧にあたる他ない。
ところが、である。書籍の類はほとんど私の助けにはならなかった。ヴァイスに関する図書目録は、実に貧弱なものだった。それだけではない。時に、それは私の判断を誤らせた。足どりをきちんと再構築するには、あまりに質が低すぎた。かなり知られている文献でも、ヴァイスは「連行され、ナチスに殺された」、それ以上のことは書かれていなかった。もっととんでもない資料もあった。私がここで「とんでもない」といっているのは、調査の効率を阻害したという点でそう言わざるを得ないからだ。その資料には、「アールパードは母国であるハンガリーに戻り、ブダペストで家族とともに逮捕された」という不確かな情報が、あたかも真実のように明記されていたのだ。
その時、調査をここまで進めてきた私は悟った。この方法で先に進むのは不可能だと。それぞれ数週間を要する新しい調査が始まるたびに、私は、ほぼ毎回、間違った方向へと誘導された。アイヒマン主導で行われたハンガリーのユダヤ人強制連行の調査にはまるまる数日を要したが、結局最後に、それは私が探しているものとまったく関係がないと気づかされただけだった。
回り道ということでいえば、ローマの国立中央文書館を訪れた際、そこで重要な発見があった。それは、1938年の国内在住のユダヤ人に関する調査記録は、ローマのゲットーの住民のものを除いては、一片も残されていないということだった。なお、ローマのゲットーからは、1938年9月16日、1024人の住民が、ナチスに逮捕された後、アウシュヴィッツへと強制連行させられている。
それぞれ、イタリアサッカー通史の著書があるジャーナリズム界の重鎮、ジャンニ・ブレラとアントニオ・ギレッリは、少しではあるがハンガリー人監督について書き残している。ただ、彼の最期について、2人ともまったく触れていない。その他、スポーツ関係の有名なアンソロジーも、ヴァイスをほとんど無視している状態である。アントニオ・パーパやグイド・パニコのような研究者たちも同様である。もっとも2人は、共著の中で、ヴァイスの書いた戦術本の影響力の強さを、他の誰よりも、よく説明してはいるが。
ともあれ、私は、ヴァイス家の4人がたどった運命がどんなものだったのか、その手がかりを得るために、今までとは違う方法を模索していくことにした。当時の雑誌に始まり、あらゆるユダヤ人の名簿を調べた。必要があれば、オランダ、ハンガリー、フランスの大使館とも連絡をとった。また、パリ、ベルリン、アムステルダムのユダヤ文書センターにも電話をかけた。ボローニャ・ユダヤ人会のルチオ・パルド会長を訪問したのも、それとちょうど同じ時期である。私は、会長から、1938年、イタリア政府によって登記されたユダヤ系外国人の名簿を見せていただいた。名簿は、会長が親戚から受け継いだもので、この本を書くのに随分利用させてもらった。
その詳細な資料が、私に力を与えてくれた。パルド会長も、私の訪問を機に、現在は、ダッラーラという、偉大なチームを作り上げた当時の会長の名が冠せられたボローニャ市のスタジアムに、そのチームの偉大な指揮官であったアールパード・ヴァイスを偲ぶ記念碑を設置する計画を立て、その後、それを実現している。とにかく、その名簿は調査にとって常に貴重な資料であったが、その後も、わらの山から一本の針を見つけるような、そんな気の遠くなるような探索が続いた。
本当に実在したのか?
これは、一種のパラドックスだが、ある時点で私は、「ヴァイスという監督は本当に実在したのか」とすら考えてしまった。「いなかった」というのは言いすぎにしても、周辺の情報があまりに曖昧というか漠然としていて、疑念が膨大に積み重なっていくばかりだったからだ。今ではただの笑い話だが、その頂点ともいえる事柄が、彼の生年月日の不一致であった。ある者は、ヴァイスは「1896年、ハンガリーのショルト生まれ」と書いているが、別の資料では、1891年になっていたりした。生まれた日にも齟齬があった。4月16日としているものもあれば、7月6日になっているものもある。どうでもよい情報ではなかった。アウシュヴィッツの何百万人分の死者名簿の中には同姓同名の者がいるかもしれない。生年月日は重要なデータである。
そんな中、私はある方針を決める。よし、まずは彼の最期を調べ、それを私の調査の出発点にしよう。また、アールパード・ヴァイスが本当にアウシュヴィッツで亡くなったのかどうか調べてみよう。そしてもしそうだとしたら、いつ、どんな形で命を失ったのか調べていくことにしよう。
ここで、私は、ミラノのユダヤ文書センターの所長であるミケーレ・サルファッティ氏の助力を得る。それこそが、彷徨う私に差し伸べられた初めての具体的な助けであった。彼は、私にヤド・ヴァシェムのサイトを閲覧するように勧めてくれた。そこには、アウシュヴィッツ、ベルゲン=ベルセン、トレブリンカ各収容所、各地のゲットー、その他10あまりのナチ収容所で亡くなった何百万人のユダヤ人犠牲者の名前が登録されているという。その助言は、私にとって、ヴァイス一家の調査という荒海を乗り切っていくための羅針盤となった。
それは全体がホロコーストの数少ない生存者の証言をもとに構成された見事なデジタル・アーカイヴであった。すべての犠牲者がファイル分けされており、ヴァイス家の4人は、オランダ・ヤド・ヴァシェム協会から提供されたオランダのリストの中にいれられていた。この件に関しては、アムステルダムに本部があるオランダ・ヤド・ヴァシェム協会のヨープ・レーフィ会長に感謝しなければならない。ファイルの横に、すべてのケースでではないが、犠牲者に関するより詳しい情報や写真などが表示されている場合もある。ただ、ヴァイス家の4人にはそれがなかった。少なくとも私が調べた時には……。調査の間に私が集め、この本の中でも使わせてもらった写真は、ヤド・ヴァシェムに送りたいと思っている。
もっとも、サイト(www.yadvashem.org)への私の最初期のアクセスは、決して実り多いものではなかった。サイトに入り調査を始めても、私の前には長大なリストが示されるだけだった。繰り返し挑んでも、なかなか自分が欲しいデータにたどり着けない。もしかしたら、ヴァイスの死を証言できた人がいなかったのではないか、そんな懸念がリアルに心に浮かんできた。そのために今も消息が分からない虐殺被害者も多いからだ。
検索エンジンを前に、私はありとあらゆる可能性を試してみた。それでも見つからず、一時は「アールパードは本当にアウシュヴィッツで亡くなったのか」と本気で疑ったこともあった。そう、ある日の夜中、コンピューター画面の中に「1896年ショルト生まれ」の文字を見つけるまでは。〝キーワード〟は「オランダ」だった。イタリアから逃亡した後、一家はヨーロッパ中を不安を抱えながら放浪したというが、その目的地が確かオランダだった。なんとなくそう記憶していたのだ。こうして私はようやくヴァイスのファイルにたどり着いた。その瞬間、背中がゾクゾクッとした。あの時の感動を言葉で言い表すのは難しい。
家族はいたのか?
ただ、コンピューター上でのその成功も、私の調査にとっては〝ただのはじまり〟にすぎなかった。一時の勝利に酔いしれていても仕方がなかった。次に私が調べなくてはならないのは、「アールパードに家族はあったのか?」だった。いくつかの書籍が、全員がホロコーストの犠牲となったと伝えている。ならば、妻はいたのか、子どもは何人、1人、2人、それとも3人か。
ここで私は、ボローニャ市から第二の助けを得ることとなる。個人名をいえば、とりわけ戸籍謄抄本係長のクラウディオ・ロンカラーティ氏にお世話になった。私が閲覧を希望したのは、ヴァイス家の当時の住民票と戸籍抄本の写し。ただ、心の中では「住民登録をしていなかったらどうしよう」という不安もあった。外国人の監督や選手が、終始ホテル暮らしというのは、最近でもよくあることだからだ。1週間後、電話が鳴った。私の頼みを聞いた別の部署から、「頼まれたものはすべて揃っている」という報せだった。書類をとりにいくため、私は駆け足で市庁舎へと向かった。その時の興奮はどんなものかと問われても、正直、伝え切るのは不可能だ。手にした書類には、アールパード本人の氏名はもちろん、妻エレナ、ロベルト、クララという2人の子どもの氏名も、黒い字でしっかり印刷されていた。さらに嬉しかったのは、住民票にあった住所だ。ヴァレリアーニ通り39番地。なんと、私の自宅から300メートルも離れていなかったのだ。
それぞれの生年月日を含む、その他の情報もその後明らかになっていった。ただ、何より私がその調査にのめり込んだ最大の要因は、あるユダヤ人家族の歴史が眼前に広がっていくかのような感覚を持てたことだ。わずか数カ月前、私はアールパード・ヴァイスについて何も知らなかった。ところが今は、彼がアウシュヴィッツで亡くなったこと、家族を持っていたこと、そして、監督をしていた時期に、非常に重要な本を一冊出していることなどを、確信を持って断言できる。なお、彼の本はボローニャ市の図書館で借り、大事にコピーをとらせてもらった。
そして何より、今の私には、彼らの半生を想像するのを容易にするひとつの〝形ある場所〟が存在する。私は、彼らが住んでいた場所をいつでも目の当たりにできる。どんな日でも、彼らの残した足跡を簡単にたどることができるようになったのだ。彼らはこの道を通って、次はあの道に入っていったのだろうか。自分が彼らと一体になったような気分だった。
夕方、何度彼らの元アパートの前を通ったことだろう。そこからスタジアムまで何歩かかるか歩いてみたりもした。アールパードがいたビルを建てたという人の息子で、今はそのアパートのオーナーである人物とも話をした。ただ、それでもまだ私には何か物足りなかった。このストーリーは、もっと多くの要素で、よりしっかりと再構築されるべきだ。そんな思いが胸に浮かんできた。
それ以来、私はボローニャの市営歴史文書館に足しげく通うようになった。そこで当時の興味深い一次資料をいくつも見つけた。それからすぐに、今度は国立文書館にも立ち寄った。また、その間に、アルキジンナージオ館やボローニャ貯蓄銀行機構の事務所に当時の定期刊行物の閲覧のため行くこともあった。
私が、そこで残念にも発見したことは、その種の資料の保存は、当時の社会情勢を考えると非常に困難だったという現実だ。アールパードがいたころのボローニャ県の行政資料、あるいは警察の極秘資料にあたるようなものの大半は、退却中のドイツ軍、またはそれら〝危険資料〟が残っていると不都合をこうむる人々の手によって持ち去られ焼却されていた。カーザ・デル・ファッショ(ファシスト党事務所。当時は同じ建物内にボローニャFCのクラブ事務所があった)の資料についても同様であった。クエストゥーラ(県警察本部)も調査させてもらったが、重要な資料は、さらに少ないというのが現状だった。
数々の困難はあったが、私の調査への情熱は日増しに強くなっていった。資料の調査と並行して、私は、スポーツ人としてのヴァイスに焦点を当てはじめた。まず当時のスポーツ界の歴史を勉強した。そして、アールパードがプロの監督として成し遂げたことがいかに素晴らしいことであったかを知るにいたった。絶対的な確信はなかったが、彼が奇抜な実験者であり、当時の最前線のサッカー監督であり、いわゆる「歴史を創り上げた」人物のひとりであることが分かってきた。ただ、その人物を、彼の死後、誰も知らない。そんなことがあっていいのか。調査をやめるわけにはいかなくなった。
前にも述べたが、大戦終結後から今日までの間に、アールパードよりも獲得タイトル数が少なく、目立った痕跡も残していない多くの同業者が、インタビューを受けたり、テレビのスペシャル番組に出演したり、その他、様々な注目を集めてきたことだろう。アールパードは違う。つまり、彼は二度殺されたのだ。一度目はナチスに、二度目はその後の人々のあまりに表面的すぎる態度に……。当時、誰かに「僕は今、ある監督のことを調べているのだけど、彼はインテルで1度、ボローニャで2度、スクデットを獲得しているんだ」と話すと、大概の人は途端に目を輝かせた。そうなのだ。アールパード・ヴァイスとはそれほどの結果を残した指揮官だったのだ。
諦めないことが重要
調査旅行のことに話を戻そう。当時のボローニャの選手から証言をとるのがもはや不可能だったことは先述した。最後に亡くなったのは、エットレ・プリチェッリで1995年のことだった。故ラファエル・サンソーネの夫人はまだ存命だが、夫の死をまだ引きずっておられて、細かな取材は難しかった。当時のチームを取り巻いていた雰囲気など、詳細な情報は、ディーノ・バッラッチ氏から提供してもらった。彼はアールパードがボローニャ監督時代に、ユースチームでプレーしていた選手のひとりだった。
この種の調査で重要なのは、とにかく諦めないことである。どんな方法も、それがいかに愚かなものに見えても、新しい情報を得るきっかけになる、そう強く信じることだ。どんな調査でも、やってみなければ分からない。まだヴァイス家のボローニャでの住所が分からなかったとき、私は当時の電話帳を探し回ったが結局みつからなかった。ボローニャ市のフィルム・ライブラリーで見た写真類は、私を十分満足させるものではなかったが(ライブラリーのアンジェラ・トロメッリーニさんにこの場をかりて深謝する)、それにより、〝学校への道〟が開けたのは、その後の調査にとって決定的な出来事だった。その〝道〟については、後で詳しく述べる。
アールパード・ヴァイスについての基礎知識は増え、当時の社会や政治の情勢についても理解を深めようとつとめたおかげで、ある地点までは到達できた。だが、そこからが大変だった。彼の家族にアプローチする材料がなかなか見つからなかったからだ。ジャーナリストのタマーシュ・ミシュルの上質で寛容なサポートはあったが、ハンガリーからは有力な情報が得られなかった。また、イタリアからの脱出後、アールパードが活動していたと見られる町、パリの市営文書館でも、スタッフの方々の好意に助けられはしたが、一家が住民登録をした形跡がないなど目立った成果は得られなかった。
ただ、先ほども少し触れたように、カギは、学校にあったのだ。つまり、私はこう考えた。1930年生まれのロベルト・ヴァイスは、ボローニャで小学校1年生、2年生までは学校に通っていたはずだと。ただ、ポイントは、どこのどの小学校だったかということである。私はいつものようにボローニャ国立文書館にむかい、当時の道路案内表を見て、それがボンビッチ小学校だと仮定した。その仮定は後に正しかったと分かる。すぐに学校に関する資料を閲覧したいと伝えたが、答えは「半年後にもう一度、連絡してくれ」というものだった。残念な結果だったが、私にとってはそれが幸いした。なぜなら、その場所に、私が探していたものはなかったからだ。私は、調査方法の修正を余儀なくされたが、その結果、多くの時間を無駄にしなくてすんだ。
全生徒の氏名が載った1960年代までのボローニャの小学生の名簿はすべて、町の郊外にあるジョルダーニ小学校の倉庫に眠っていた。そのことは、私が質問状を出した市の教育委員会の職員も想像すらできなかったようだ。その学校の修道女でもある先生と知り合えたことも大きかった。彼女のおかげで、私は、倉庫の調査を手伝ってくれる彼女の同僚や用務員の人たちとコンタクトをとることができた。みなさまにはこの場を借りて感謝したい。
ある朝、いつものように早朝だったが、私はそのホコリを被った名簿の山の中にいた。何年開けられていないのか分からない倉庫のドアが開いた、その直後のことだった。紙の束の中で、心臓の鼓動が高鳴った。1936年から1937年にかけての名簿をついに見つけたのだ。不安を抱えながらひとつひとつ名前を調べていくと、ロベルト・ヴァイスの名を発見した。その時の思いを、いったいどんな言葉で表せばいいだろう。
その時点で私が次にやるべきことは、ロベルトのクラスメイトの名前を書き写すことだった。まさか、ここまでたどり着けるとは、夢にも思わなかった。
決定的な一本の電話
その後、私は書き写した名簿の名前と電話帳のそれを照らし合わせた。そこからさらなる何かが飛び出してくることを願って、である。私にとって有利に働いたのは、当時の生徒の家がいわゆる住宅地にあったことで、昔からそこに住んでいる人が多い地域であったことだ。一方、不運だったのは、1930年生まれでまだ生きている人が徐々に少なくなっていることだった。4本か5本、無益な電話をした後、それは起こった。あの電話のことを私は、これから一生忘れることはない。
電話の向こう側にいたのは、ジョヴァンニ・サヴィーニ氏だった。彼は、私の「ロベルト・ヴァイスという名前を聞いて何か思い出すことはないか」という質問に対して、答えるのを少しためらった。サヴィーニ氏は、ため息をつく時間をとってから、話しはじめた。ロベルトは、私のおさな馴染みで、かつての遊び相手である。戦争が終わってからずっと、ロベルトがどうなったのか、自分に教えてくれる人を探していた。息子たちに頼んで個人的に調査をしたこともある。今、私のわきには、調査の結果がかかれたボロボロの資料が意味もなくつまれている。誰にも話したことのない事柄ももちろんある等々。
私は、彼に、「もしあなたが、ロベルトをその後襲った悲劇のことを聞きたいというのなら、今まで私が調べた範囲でそれを話します」と言った。彼はその申し出を承諾した。交換条件として、彼は私を彼の家に招き入れてくれた。上品な奥さんが、私に紅茶とビスコッティをふるまってくれた。その間、サヴィーニ氏は、記憶と友人への思いを過去から引っ張り出そうとしていた。その後、私は、数枚の写真を披露された。ロベルトとクララが写ったものだった。フランスやオランダから届いた手紙も見せてもらった。
誓っていい。その時、私の体に電流が流れた。
いや、それ以上の感覚だった。私は、寒さと暑さを同時に感じた。私は、ゲームが後半に突入したことを理解した。自分が、歴史の核心部分に突入したことをだ。もはや書類の上の名前を追いかけるだけの調査ではなくなった。そこには生きている事実があり、リアルな感情があった。もはや、これは運命なのだと思った。同じころ、バーリ市の戸籍謄抄本係から、アールパードが結婚した日付と場所、両親と義父母の氏名に関するデータが送られてきた。
サヴィーニ氏が私にもたらしてくれた宝物によって、ふたつの事実が明らかとなった。ひとつめは、アールパードは、パリでは仕事を得られなかったこと。それを知るには、妻エレナの手紙を読めば十分だった。それと同時に、アールパードはオランダへの移住を決めたことも分かった。新しい職場を見つけるためにである。
ドルトレヒト
そのころ、私は当時のフランスの状況を学ぼうと数冊の本を読み進めていた。ただ、それらをいったんわきにおいて、私はドルトレヒトにいくつかあるサッカークラブの事務所に電話をかけてみることにした。電話番号は、オランダサッカーのバイブルといわれている『フットバル・インターナショナル』で調べた。アールパードには少なくともそこで1度は監督として働いていて欲しかった。1939年、ヨーロッパにいたほとんどユダヤ人がそうだったように、単に難民のひとりとしてオランダにいて欲しくはなかった。電話に出たのは、当時のクラブのGM、オーラフ・アウウェルケルク氏だった。その後、私と彼は密に連絡を取り合うようになる。
アールパード・ヴァイスを知っていますか? 私のその質問を聞くと、氏は、少し私を待たせてから、こう語り出した。「確かにヴァイスというんですね。今、私は1939年のチームの写真を見ているのですが、その中に彼がいます」。2週間後、私は車で、ドルトレヒトの狭い路地を走っていた。
オランダは、私の調査にとって、実に意味のある場所となった。私は、オランダのおかげで、この本を書きあげることができた。ドルトレヒトにいくまで、私は、当時のアールパードを実際に身近で知っていた人物から話を聞いたことがなかった。すでに私の重要な取材対象となっていた指揮官と言葉を交わした人を、私はひとりも知らなかった。だから、クラブの古参スタッフであるヴィム・フェゼイル氏が、アールパードと彼の妻、そして、2人の子どもたち(私は氏の話を聞きながら、ボローニャの自宅から500メートルしか離れていないサヴィーニ家で見た2人が写った写真のことを思い出していた)のことについて話しはじめた時には、心で何か激しい声のようなものを聞いた。私は、宗教的な静寂の中で、その声を聞いているような感覚におそわれた。
アウウェルケルク氏は、重要な語り部となってくれた。彼は私にさらに大きな贈り物をくれた。クラブ事務所から、ニコ・ズヴァン氏に電話をかけてくれたのだ。彼はヴァイスから実際に指導を受けた最後の教え子というべき元プレーヤーだった。あの時の興奮もまた、心から消し去ることはできない。
「アールパード・ヴァイスという名を久しぶりに聞いたよ。疲れてしまっていて、調子もよくないが、そのイタリア人ジャーナリストにこう伝えてくれ。私のところにどうか来てくれと。監督のことなら喜んで話すから」
そのメッセージを聞いて、私は彼の家をたずねた。彼は、奥さんとともに私を居間に迎えいれてくれた。そして、ヴァイスの思い出を語ってくれた。私と氏との間に、奇妙な連帯感が生まれた。
ヴェステルボルクを訪れた時にも、同じようなテンションを感じた。ヴァイスの伝記をすでに書きはじめた後、もう一度、収容所跡のガイドブックの中の写真を見返したことがあった。ガイドブックはオランダ語版で、それを訳して読んだことは一度もなかった。おそらく、写真だけでその酷さが十分伝わってきたからだろう。人生の中で、あれほど人間の悪意を身近に感じたことはおそらくない。
現地には、普段は犠牲者の親戚に公開されている追憶のための小部屋があった。そこで、ある従業員のかた(彼からは、他人の苦しみと共生するのに慣れた人だけが持ち得る独特の雰囲気を感じた)が、私にアウシュヴィッツ連行被害者の名簿を見せてくれた。そこで、私は、ヴァイス家の4人が無理やり乗せられた列車の正確な番号を知ることができたのだ。
アールパードの家族についてだが、オランダで私は、寄木細工の最後の1ピースを見つけた。それにより、私を惑わせていた心のモヤモヤを解消することができたのである。エレナ・ヴァイス(旧姓レヒニツェル)の名前がなぜか、ヤド・ヴァシェムの名簿の中に見当たらなかったのだ。彼の夫と2人の子どものそれはすぐに見つかったのに。そこでも、私は、誤った推測を行ってしまった。エレナはもしかして生き残ったのではないか。ベタな憶測だが、オランダの家に彼らを逮捕するためにナチスがやってきたとき、彼女だけ、牛乳か何かを買いに外出していたのではないのか。残念だが、そのすべては私の憶測にすぎなかった。謎の答えは簡単だった。エレナはオランダで名簿に登録されたが、そのとき、彼女の実際の名前であるイロナ(Ilona)でそれを行っていたのだ。エレナ(Elena)との文字の違いはわずかに2つ。ただ、それに彼女の不運な運命を変える力はなかった。
そのエレナ(イロナ)だが、彼女は私の最後の素晴らしい発見と深く結びついた。一家の中で彼女の顔が写った写真だけがしばらく見つからなかったのだ。ところが、最近になってようやく2枚見つかった。2枚とも夫のアールパードと一緒に写っている(15・16頁参照)。これもまた〝もうひとつの奇跡〟と言えよう。
さて、アールパード・ヴァイスの運命をたどるというこの冒険をいったん中断する前に、多くのかたがたに感謝の意を表したいと思う。助力をたまわった、貴重なアシストをくださった、情報を見つけ提供してくださった多くのかたがたの何人かはすでにこの本の中で言及させていただいた。その皆さんのご厚意を小生がなんとか書籍という形でひとつにまとめられたことを、深謝の念とともにここにご報告したい。特にミケーレ・サルファッティ氏には、この場をかりて感謝の意を示したい。彼の存在がなければ、この本は途中で歩むべき道を失っていたと思うから。その他、バーリ関係の情報に関してはジャンニ・アントナッチ氏に、ヴァイス一家のイタリア脱出時の資料についてはピエルジョルジョ・レンナ氏に、また、イタリア国立中央文書館のクラウディオ・サンタンジェリ氏、オランダ関係の調査で助けていただいたエミル・ハーファーズ女史とオランダ国立文書館のかたがたにも同様の謝意を表したいと思う。
その他、多くのかたに有効な助言をいただいたり貴重な意見交換をしていただいたりした。ロレンツォ・ジュリアーニ氏、パオロ・ファッキネッティ氏、ルイージ・パセッリ氏、ピエール・ランフランキ氏、ありがとうございました。最後に、有効なヒント、独特の観察眼、歴史をふまえた当時の雰囲気に関しての助言などを、まるで涸れることない泉のように私に提供してくれたジュゼッペ・レッジャーニ氏にも格別なる謝意を示したいと思う。
本書の内容は、ほぼすべてが資料と綿密な調査にもとづいたものであるが、どうしても確定できなかった事項に関しては、著者の推測による部分があることを最後にどうかご了承いただきたい。