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「ナチスと美術」の知られざる関係。ドイツの美術館に眠る膨大な作品が意味するもの

博覧強記の美術史家、神戸大学教授・宮下規久朗さんによる美術をめぐる最新エッセイ集『名画の生まれるとき――美術の力Ⅱ』(光文社新書)が刊行されました。本書は、「名画の中の名画」「美術鑑賞と美術館」「描かれたモチーフ」「日本美術の再評価」「信仰と政治」「死と鎮魂」の6つのテーマで構成されています。長年、美術史という学問に携わってきた宮下氏が、具体的な作品や作家に密着して語った55話が収録されています。刊行を機に、本書の一部を公開いたします。今回は、第五章「信仰と政治」の中から一話をお届けします。

「退廃芸術展」と「大ドイツ美術展」

ナチスと美術とは深い関係にある。美術を愛したヒトラーやゲッベルスといったナチス幹部は膨大な美術作品を各地から強引に収集した。多くが返還されたとはいえ、現在もなお所有権をめぐる問題を残している。

一方、ナチスが「退廃芸術展」を開催し、前衛美術を迫害したこともよく知られている。ところが、それと並行して「大ドイツ美術展」を開催して、保守的なドイツ美術を大々的に称揚したことはあまり知られていない。1937年から44年まで開催され、毎回千点以上の作品が展示された大規模な展覧会であった。しかし、戦後ナチスの戦争犯罪と同一視されてタブー視され、その実態のほとんどはあきらかになっていない。公的に買い上げられたものも多いため、ドイツの多くの美術館には、地下倉庫に膨大な作品が今なお未整理のまま死蔵されているという。

弾圧された「退廃芸術展」に出品された美術は、高く評価され、ドイツ20世紀の正統とも目されているが、「大ドイツ美術展」の方は、ナチスの誤まてる基準によって制作された陳腐なものと片づけられ、その実態はいまだ謎に包まれている。

2021年に出版された前田良三『ナチス絵画の謎』(みすず書房)は、この大ドイツ美術展と、その中心となったヒトラーの御用画家アドルフ・ツィーグラーを扱った初めての書である。ナチスが推進した大ドイツ美術とは、保守と前衛、アカデミーと在野、技術とアイデア、ドイツとフランス、ミュンヘンとベルリン、大衆と個人といった二項対立の前者に重点を置き、実体も理念も空疎でありながら、大衆の欲望をすくいあげて美術を政治に取り込む手段であったことがあきらかにされる。そしてその成立過程を19世紀のドイツ画壇に遡って検討し、大ドイツ美術が歴史の必然として登場したことも示された。

第一回大ドイツ美術展に出品され、今も例外的にミュンヘンの近代美術館という公共の美術館で見ることのできるツィーグラーの代表作《四大元素》(図1)は、4人の女性ヌードによる擬人像だが、この作品を詳しく分析し、そこに漂う違和感は「生物的なものと政治的なものの結合」に由来するとする。この画家の凡庸さと小心さは、小役人として淡々と大虐殺を実行したアイヒマンの「陳腐なる悪」を想起させずにはいない。

5-25アドルフ・ツィーグラー《四大元素》1937年 ミュンヘン、近代美術館

(図1)アドルフ・ツィーグラー《四大元素》1937年 ミュンヘン、近代美術館

ヒトラーの御用彫刻家の回想録

ヒトラーの御用彫刻家として知られるアルノ・ブレーカーの回想録は邦訳されている(『パリとヒトラーと私』高橋洋一訳、中央公論新社)。

彼はヒトラーに気に入られ、第三帝国の官邸などを飾る巨大な記念碑を数多く制作した。しかし、長年パリに暮らし、モンパルナスで狂乱の1920年代を謳歌した彼はきわめてリベラルな考えをもっていた。「退廃芸術展」の開催を阻止しようとし、ドイツ軍のパリ占領中は、捕虜となった芸術家を助け出すのに奔走する。彼はヒトラーに取り入った政治的な人物というより、人と芸術を愛してやまない純粋な人物であったように思われる。彼にとって、ヒトラーは芸術の目ききであり、壮大な都市計画を構想した偉大な政治家であった。

しかしブレーカーは戦後、作品の大半を破壊されて公的な活動を禁じられ、彼と親しかったフランス人たちは対独協力者の嫌疑をかけられた。占領下のパリの美術館で大規模な個展を開催したことが、大きな恨みを買っていたようである。以前、彼のおかげで命拾いした友人の多くが彼を裏切り、ジャン・コクトーのような例外もいたが、冷淡な態度をとったことが悲しく綴られている。

この本からは、ナチスの暴虐さよりも、戦後のナチス協力者への断罪の苛烈さや不条理さが浮かび上がる。ブレーカーは戦後、アメリカ陸軍情報部に呼び出され、「ヒトラーの栄光に貢献したこと」を公的に懺悔(ざんげ)したほうがよいと助言されるが、自分は彫刻家として与えられた責務に没頭したにすぎないとこれを拒絶する。

芸術家の戦争責任という問題は、太平洋戦争中、戦争記録画や軍事記念碑を制作した多くの日本の美術家にもあてはまり、容易に帰趨がつかない。しかし、ブレーカーのいうように、美術家は大きな舞台が与えられれば嬉々として仕事するのが当然である。それを非難するのは、ドイツでも日本でも、つねに後付けの倫理観、そして凡庸な同業者の嫉妬心からであった。美術というものは、戦争の暴力だけでなく、人間の醜さによっても歪められてしまうということを考えさせられた。

美術史の課題

「大ドイツ美術展」では農村風景やヌードとともに、健全な母子像が人気を博した。たとえば、1938年の大ドイツ美術展で最高賞を受賞したカール・ディービッチュの《母》(図2)は、絵葉書となって大量に流通している。こうした母子像は、カトリックのミュンヘンならではの聖母像の代替物であったと見てよいだろう。

5-26カール・ディービッチュ《母》1938年 所在不明

(図2)カール・ディービッチュ《母》1938年 所在不明

ナチスの戦争画については、拙著『美術の誘惑』(光文社新書)や『そのとき、西洋では』(小学館)に書いたことがあるが、同時代の日本に紹介され、日本の戦争記録画に大きな影響を及ぼした。

その中には、ドイツのフジタともよぶべきフランツ・アイヒホルストのように、厭戦的な作品を描いた画家もいて注目に値する。日本の戦争記録画も、少し前までタブー視されて秘匿されてきたが、近年は東京国立近代美術館の常設展示でも展示されるようになり、研究も大いに進展した。それに対し、ナチスの戦争画はまだほとんどわかっていないのは寂しいかぎりだ。

また、大ドイツ美術はナチスとともに途絶えたのでなく、戦後の東ドイツ美術にそのまま継続しており、ソ連や中国の社会主義リアリズムもその延長線上にある。社会主義リアリズムはモダニズムとともに20世紀の二大潮流のひとつとなったが、その淵源にあるのがナチス美術なのだ。こうした系譜も今後あきらかにされるべきだろう。

このように、美術史的にはまだ考えるべき問題が多く残っている。ナチス絵画を十把一絡げに否定したり、タブーとして隠したりするのではなく、個々の作品や美術家についての実態があきらかになれば、そして東ドイツ美術を歴史的にとらえられることになれば、退廃美術に始まるモダニズム一辺倒のドイツの20世紀美術史は書き換えられねばならなくなると思う。

『名画の生まれるとき』目次

第一章 名画の中の名画
第二章 美術鑑賞と美術館
第三章 描かれたモチーフ
第四章 日本美術の再評価
第五章 信仰と政治
第六章 死と鎮魂

著者プロフィール

宮下規久朗(みやした きくろう)
1963年愛知県名古屋市生まれ。美術史家、神戸大学大学院人文学研究科教授。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。『カラヴァッジョ──聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞などを受賞。他の著書に、『食べる西洋美術史』『ウォーホルの芸術』『美術の力』(以上、光文社新書)、『刺青とヌードの美術史』(NHKブックス)、『モチーフで読む美術史』(ちくま文庫)、『闇の美術史』『聖と俗』(以上、岩波書店)、『そのとき、西洋では』(小学館)、『聖母の美術全史』(ちくま新書)など多数。

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