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11章 なぜ、それでもマスメディアは必要なのか/山口周著『グーグルに勝つ広告モデル』全文公開【その10】

11章 なぜ、それでもマスメディアは必要なのか

これまで事業面から、マスメディアが直面せざるを得ない様々な難しい問題について、多少辛辣な意見も含めて、述べさせていただきました。

しかし筆者は、極端な論者が述べるようなマスメディア崩壊論、インターネット万能という考え方に与しません。それどころか、マスメディアはいまだに社会にとって必要欠くべからざるものであると考えています。

マスメディアに関する論考の終章に、この点についての筆者の考え方を二つ説明したいと思います。

一つは、マスメディアが弱体化すると健全な民主主義が脅かされる、という点。そしてもう一つが、知の地盤沈下が起こる可能性がある、という点です。

*マスメディアは民主主義の礎を担う

米国連邦最高裁判事であったルイ・ブランダイスはこう書いています。

我々の自由を勝ち取った先達は、国家の最終目標は人間を自由にして才能を発揮させること、と信じていた。また、施政においては、話し合いによる力が恣意的な営みを抑えるとも信じていた。自由な言論と集会なしには議論は不毛になる。自由の最大の敵は消極的な国民である。公開議論は政治的義務だ。これはアメリカ政府の根本的な原理である。(キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社)

ブランダイスは、自由の最大の敵は管理や国家権力ではなく「消極的な国民」である、といっているわけです。

「消極的な国民」とは、どういうことでしょうか?

ブランダイスは直前の文章で「自由な言論と集会なしには議論は不毛になる」と指摘しています。「消極的な国民」というのは、言論に参加しない、議論や集会に参加しない国民を指しているわけです。

逆にいえば、米国の民主主義の礎は自由な言論と議論にあり、それに積極的に参加することは国民の義務である、と指摘しているわけです。

この点から、マスメディアというのは、民主主義の健全な成立にとってきわめて重要な機関である、といえます。

では、インターネットメディアはどうか?

将来的なことは何ともいえませんが、現時点でインターネットメディアが、討議制民主主義の礎を担うような言論機関になるのは難しいと、筆者は感じています。その理由は、分散しすぎているからです。

言論機関には偶発接触性が求められます。たまたまニュースに出合う、ということが必要なのです。自分が望んでいない情報にも偶発的に出合うからこそ、自分と異なる意見を持つ人が世の中に多数存在することや、意識することのなかった暗黙の規範を学ぶことができるわけです。

建設的な議論には、他者が依拠している認識の前提や規範をふまえることが必要です。自分と異なる意見の存在や暗黙の規範を知るということは、建設的な議論を社会から絶やさないための必要条件なのです。

一方、インターネットメディアは自分が望む情報だけを効率的に収集してくれる機能を、どんどん進化させています。確かにこれは便利だし、そもそも情報がオーバーフローしている現状において、何らかのフィルタリングを行わないと情報を咀 嚼できないという問題も背景にはあります。

しかし、多くの人が自分にとって関心ある領域、好きな領域の情報だけに接触するようになったら、社会はどうなるでしょう。最悪のシナリオは、同じ意見を持つ人たちだけが極端に固着化した閉鎖的な派閥を形成し、派閥相互の対話や議論がないまま対立が深まり、お互いが疑心暗鬼になって日々を送る、というものでしょう。

これはテロのメカニズムに似ています。米国とアラブの関係や日本の社会とオウム真理教の関係性もそうでした。

つまり、対話をする以前から「理解し合えないもの」とあきらめ、同じ志向・好みの人たちだけで閉鎖的な集団を作る。そして、他人との接点を作る努力を放棄し、最後に爆発する、という構図です。

インターネットは民主的なメディアであると、よくいわれます。これまでテクノクラート(国家政策に関与できる上級技術官僚)だけに限定されていた情報収集の能力を人々に開放したことから、そういわれるのでしょう。

しかし、権力が崩壊分散されたまま、新たな統治機能が回復されていないというコンテキストになぞらえれば、インターネットは民主的であるというより、アナーキーであるというべきでしょう。

アナキズムは成熟した倫理と自己責任を求めます。しかし今の日本にはまだまだその土壌はありません。今の日本でマスメディアが持つ連帯形成機能が失われると、社会としての連帯感が喪失し、個々人がカプセル化して不安感に苛まれながら社会をさまよう状態──社会学者のデュルケムが唱えたアノミーに陥る可能性があります。

戦前の日本では天皇制が、戦後の日本では会社と左翼運動が、アノミーの防波堤として機能してきました。しかし、左翼運動についてはいうまでもなく、会社の連帯形成機能が終身雇用制度が崩壊する中で失われつつあることを考えると、マスメディアが健全な民主主義を維持するための最後の防波堤になるのかもしれない、と筆者は考えています。

*ウィキペディアは寄生虫?

ウィキペディアは、今現在250以上の言語で、合わせて600万項目を掲載するオンライン百科事典です。普通の百科事典としては最大規模のブリタニカが7万項目であることを考えると、いかに巨大かがわかります。運営しているのは非営利のウィキメディア財団という組織で、フルタイムの編集者は5人しかいません。ウィキペディアにおける各項目の内容はユーザーが執筆し、全世界に2000人とも3000人ともいわれるボランティアが、内容の管理を行っています。

英国の科学誌「ネイチャー」が、ブリタニカとウィキペディアの正確性を、42項目について複数の専門家に検討させた結果、ウィキペディアは間違いや抜け落ちが1項目あたり平均4つあり、ブリタニカ国際大百科事典は3つでした。そこから、同等の正確さがあると評価したことで、科学技術等の客観的事実ではおおむね信用できるとされています(ただし、人物に関する情報や争点を有する歴史的事象──南京事件や従軍慰安婦問題──については、事実誤認が見られるなどの非難もあります)。

しかし、ここでは「信用できるか」という論点ではなく、そもそも「おおむね信用できるということがどんな弊害をもたらすか」ということを、論点として取り上げたいと思います。

おおむね信用できると評価された科学技術等の客観的情報はユーザーが書き込んだものですが、そのユーザーは何らかの「信用できる」情報源を参照したはずです。

たとえユーザーが記憶に基づいて情報を書き込んだとしても、記憶された情報はもともと何らかの情報源からインプットされたものである以上、根源的に否定しようがありません。

そしてその情報源には、インプットのプロセスの中のどこかで対価が支払われたはずです。

情報は断片的に生み出されて編集され、プラットフォームに乗せる形に変換されて流通し、最後に貨幣と交換されるという、「知のバリューチェーン」ともいうべき経済システムの中で生み出されています。

ウィキペディアは、グーテンベルクからグーグルが登場するまでの「旧世界」がずっと発展させてきたこの「知のバリューチェーン」から、無料で情報という栄養をもらってコンテンツを拡充するという寄生虫のような構造で肥大化しています。

ここで問題になるのは、ウィキペディアがフリーであるがゆえに、強大な普及力を有しているという点です。そのため「知のバリューチェーン」を循環する経済価値が減少し、ウィキペディアが循環的に依存していた「信用できる」情報源が、事業運営上の深刻な困難を迎える可能性があるのです。

そうなると、ウィキペディア自体も中長期的には生きながらえることができないでしょう。

ここに大きなジレンマがあります。

*「知の拠って立つ基盤」をどこが担うのか?

信用できる、信用できないという議論以前に、当のウィキペディアは自分たちを「信用できないメディア」に分類していて、逆に信用できるメディアとしてBBCや「ニューヨークタイムズ」を挙げています。手続きとして、最終的に参照者を信用できる情報源までナビゲートできればいいという考え方です。

しかしこれは、旧世界から新世界へのトランジション(転換)の最中で、両方のメディアがまだ併存し得ている2008年時点では有効な考え方かもしれませんが、新世界に移り切ってしまい、ウィキペディアのようなフリーの情報源が普及浸透してしまうと、人の情報に対する価格感度が高まり、結果として旧世界のシステムである「知のバリューチェーン」が崩壊してしまう可能性があります。

ここで注目してほしいのが、新世界の住人であるウィキペディアが「信用できる情報源」として旧世界の住人であるBBCや「ニューヨークタイムズ」を挙げている点です。彼ら自身も旧世界のマスメディアを、最終的に立ち返るべき情報源として指摘しているわけです。その立ち返るべき情報源は「知のバリューチェーン」が崩壊すれば存続できません。

そうなったときに、社会の「知の拠って立つ基盤」をどこが担うことになるのか?

ウィキペディアについては、多くの場合「集合知の威力」とか「みんなの知恵が権威をしのいだ」というような天使的に楽観的なトーンで語られます。しかし、そもそもウィキペディアに記述されている「みんなの知恵」が、根源的には社会がコストをかけて育んできた知の基盤に拠って立っていることを、ゆめゆめ忘れてはならないと思います。

以上、二つの社会的な側面から、なぜマスメディアの存続が必要か、という点について述べさせていただきました。

しかし、今のビジネスモデルに拘泥していては存続が難しいこともまた確かでしょう。事業体として継続するためには、やはり革新が必要です。

ポストイットを生み出した3Mはもともと鉱山会社でしたし、インテルはメモリー生産、液晶事業で業績を伸ばしているシャープはもともと筆記具のメーカーでした。長期に存続している会社というのは、どこかで大きく経営の変曲点を乗り切っているのです。

そして今、マスメディアはまさに変曲点に直面しています。この環境変化の大きさは未曾有のものですが、マスメディアが日本で最高の頭脳を集めている産業であることを考えれば、筆者自身は彼らの能力自体がこの変曲点を乗り切っていくためのボトルネックになるとは考えていません。むしろ過去の成功に囚われる心のあり様を変えていくことこそ、最大のチャレンジでしょう。

ぜひ、過去のビジネスモデルに囚われることなく、この変曲点を、勇気をもって乗り切ってほしいと切に願っています。

弱体な共和国にあらわれる最も悪い傾向は、何事につけても優柔不断であるということである。この類の国家の打ち出す政策は、なにかの圧力に屈した挙句、やむを得ずなされたものになる。(マキアヴェッリ『政略論』)

(12章以降に続きます。毎日更新予定)


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