日本人最多の船外活動。野口聡一さんが本書で語った「無重力の不安と変化」
ISS(国際宇宙ステーション)に滞在中の野口聡一さんは、間もなく日本人初となる4回目の船外活動を行います。宇宙空間における船外活動とは、いったいいかなる体験なのでしょうか。ミュージシャン・矢野顕子さんとの対談をまとめた『宇宙に行くことは地球を知ること』(取材・文/林公代さん)の第一章で語られた船外活動について、今回、特別に抜粋して公開いたします。(写真:「星降る夜にオーロラが舞う」2021年1月21日、野口さんのツイッターより)
野口さんのツイッターより
足があるのかないのか、
自分がどこにいるかわからない
野口 宇宙での感覚といえば、忘れられないのが、2005年の宇宙飛行で行った船外活動のときのことです。1996年に宇宙飛行士候補者に選ばれてから9年後、待ちに待った初飛行でした。しかも、二人一組で行う船外活動のリーダーという大役に抜擢されました。
その飛行は、2003年に7人の仲間が命を落としたスペースシャトル・コロンビア号の事故以来、2年半ぶりに宇宙に戻るという歴史的フライトでもありました。「Return to Flight」と呼ばれ、アメリカはもちろん、世界の注目を集めることになったんです。
失敗できない本番のために、僕は一緒に船外活動を行う相棒の宇宙飛行士とともに、約800時間もの地上訓練を重ねました。これは、当時の船外活動訓練の最長記録です。でも、無重力状態を模擬した水中の訓練を繰り返したにもかかわらず、現実の宇宙空間では予期していなかった感覚に襲われました。
国際宇宙ステーション(ISS)は、地球上空約400キロメートルを秒速約7・8キロメートルで飛行しています。これはライフル銃の弾丸の数倍もの超高速で、90分で地球を一周します。そのため45分おきに昼と夜が訪れます。夜は地上のように徐々に暗くなるのではなく、一気に闇が襲ってくるようで、ものすごく怖い。真夏のビーチから急に真っ暗闇の洞窟に放り込まれたように、何も見えなくなるからです。まるで、闇に襲われるような感覚です。もちろん、宇宙服のヘルメットには小さなヘッドランプがついています。「もうすぐ夜が来るぞ!」というときに点灯しますが、ライトが照らすのはごく狭い範囲ですし、目が暗闇に慣れるまでには時間がかかります。さらに、宇宙服のヘルメットの構造などの問題で、首の動きが制限されます。
元々、視野が限られ昼でもISSの外部構造がほとんど見えない状態なのに、そのわずかな視野さえも夜は奪われていく。つまり、目を閉じているのに近い状態になります。
夜になって驚いたのは、自分の足が曲がっているのか、伸びているのかがまったくわからなくなったことです。地上ではたとえ目を閉じていても、腕や足が伸びているか、曲がっているかはわかりますよね。それは筋肉が常に重力を感じているから。重力に抗って筋肉を動かせば、その情報が脳に届くためです。
一方、無重力状態では足を曲げても伸ばしても、重力がまったくかかりません。そのため足を動かしたという情報は脳に届きません。極端な話、腰から下がなくなったとしてもわからない。腕も同じです。身体感覚が一気に分断してしまったようで、とまどいました。
同じ無重力状態でも、ISSの中で照明をつけているときは、目で足や腕の位置を確認できるので、そんな感覚はありませんでした。しかし、特にISSの中で目を閉じたときや、船外活動中は自分の足が曲がっているのか、伸びているのかまったくわからない感覚が強くなります。これが無重力で本当に大変なことなんです。
船外活動の作業中に真っ暗になると、瞬間的にISSの構造もほとんど見えなくなり、身体感覚が失われて、自分の位置や姿勢もわかりにくくなります。巨大なISSの中で自分がどこにいるのか把握できないという事態が、起こりうるんですね。船外活動中に「僕、今どこにいるんだっけ?」という冗談のような会話が宇宙飛行士間で交わされることは、決して珍しくないんです。
船外活動を行う野口宇宙飛行士。©NASA
「空間識失調」という言葉を聞いたことがありますか?航空機が雲海や霧の中に突入した場合などに、パイロットが平衡感覚や方向感覚を失って、操縦不能に陥ることがあります。水平線や地平線が見えなくなったことで機体の姿勢がわからなくなり、雲海などの均質な景色のために奥行き情報が得られず、速度感覚がなくなって、操縦を誤ることがある現象です。過去の宇宙飛行士に対する調査では、宇宙長期滞在を経験した宇宙飛行士の38%が空間識失調を経験したというデータもあります。
夜間の船外活動中に方向感覚を失ってしまうのは、この空間識失調の一例です。そもそも、地球上で私たちは耳の中にある耳石などの器官で縦方向の基準軸を、眼からの視覚情報で縦横方向の広がりや奥行きといった三次元情報を得ています。自分のセンサーから得たこれら仮想の三次元情報を、重力方向という絶対的な軸に合わせることで、空間を認識しています。
ところが無重力状態では耳石センサーが働かず、視野も限られます。絶対的な重力の軸も存在しません。自分が意識する三次元情報と実際のISSのズレが大きくなったときに、方向感覚を失うわけです。
そんなときは、船外活動を共に行う宇宙飛行士の声がけが重要です。「右方向に5メートル進むとハッチ(出入り口)がある」とか「頭上30センチに次の手すりがある」など声をかけてもらうことで、脳の中で空間認識を再構築し、活動を再開することができるのです。
「ちょっと窓を開けて地球を愛でようか」(2021年1月22日、野口さんのツイッターより)
「手で感じる水平線」「硬さで感じる温度」
「指先で聞く音」
野口 そもそもなぜ宇宙で感覚が遮断されやすいかをお話ししておきますね。
そもそも宇宙空間とは、空気のない真空であり、昼は120度以上、夜はマイナス150度以下にもなる激しい温度変化がある極限環境です。また、スペースデブリと呼ばれる宇宙ゴミや放射線が飛び交います。
そうした過酷な宇宙空間から宇宙飛行士を守ってくれるのが、宇宙服です。逆にいえば、船外活動で着る宇宙服は、宇宙空間の激しい温度変化も、真空などの圧力情報も遮断するようにできています。つまり、宇宙飛行士の生命を守るための宇宙服は、宇宙飛行士の感覚を遮断する働きがあるということです。さらにヘルメットの内部では、自由に首を動かすことが難しい上にガラス越しの視界は限られています。そして船外活動のときにヘルメット内のヘッドセットを通して聞こえてくるのは、船内からの指示や一緒に船外活動をする仲間の声。あるいは自分の呼吸の音だけです。
重力情報がない、視覚情報がない、耳からの情報も限られる。これこそが宇宙空間、特に船外活動中に感覚遮断が起きやすい理由なんです。
そうやって感覚を遮断された状態でも、ISSの状況を把握し、宇宙服をどこかにひっかけて破かないように、命綱が決して外れないように気を配りながら、正確な作業をしなければならない。すると、地上の常識では考えられないような「感覚のクロスオーバー(お互いに補完し合うこと)」が現れるのです。
たとえば、「手で感じる水平線」。
私たちが地上で、ある面が水平かどうかを知るには、水を流せば確認できます。でもそんなことをしなくても、壁にかけてある絵が少し傾いていれば、見た瞬間に気がつきますよね。それは頭から足へと貫く重力の軸や、水平面をさまざまなセンサーで把握しているからです。
一方、同じ絵が無重力状態の宇宙船の中にあったとして、それが水平に飾られているのか、傾いているのか、わからないのです。それは重力軸という絶対的な情報がないから。自分の立つ位置や見る角度によって、水平面は異なります。
では、そんな無重力空間で、我々はどうやって水平方向や垂直方向など、「無重力空間での新しい秩序」を構築するのか。
ISSは約109メートル×約73メートル。全体でサッカー場ほどの大きさがある巨大な構造物ですが、その中央を約100メートルにわたって貫くのが「トラス」と呼ばれる橋げたです。このトラスが我々宇宙飛行士にとって、宇宙空間での水平線になります。
宇宙空間での移動時は足を使わず、手すりを伝って移動します。船外活動中は100メートル以上も手すりを頼りに移動することがあります。そのための多数の手すりが、ISSに取りつけられています。たとえ目を閉じて音が聞こえなくても、手すりを伝っていく方向で、宇宙船の水平方向が認識できるわけです。
薄暗い船内を移動するときも同じです。手すりの方向やスイッチの位置情報など手からの触覚情報によって、宇宙飛行士は脳内に水平・垂直という三次元空間を描いて移動できるようになります。
ISSの中央にある橋げた。手すりを伝って100メートル以上移動する場合も。©NASA
また、宇宙空間の激しい温度差を感じることはできないとお話ししましたが、「硬さで感じる温度」があります。
宇宙服の手袋は指先にヒーターがついていて、昼間の120度の熱さも夜のマイナス150度の冷たさも感じないように作られています。でも手袋はシリコン製なので、温度によって硬さが変わります。夜の間はカチカチに硬くなった手袋が、昼の間にだんだん柔らかくなってくる。実際に肌で宇宙空間に触れなくても、手袋の硬さの変化によって、その温度を感じることができます。手のひらが太陽を感じるのです。
「指先で聞く音」も新しい感覚でした。宇宙空間は真空ですから、音は伝わりません。一方、ISSの中は空調のファンや冷却ポンプなど、さまざまな機械が回っています。それらが回り始めると、手すりに振動が伝わってきます。本来、空気の振動は耳で音としてとらえるわけですが、振動自体は手で触覚として感じられます。「(ポンプが)回った!」と。その振動によって、音が聞こえるように感じることも可能なんです。
「手で感じる水平線」「硬さで感じる温度」「指先で聞く音」──。
目や耳からの情報が遮断されたとき、残された感覚でなんとか補って、自分の内部に外の世界をつくり上げていく。これまでの常識では考えられないような、「感覚のクロスオーバー」が起こったわけです。
これら多くの感覚に、指先が重要な役割を果たしているのも面白い点です。極端な話、自分と外の世界を繋ぐ唯一の接点が、指先になってしまうということです。
宇宙に行くことは地球を知ること◇もくじ
まえがき 大人の女性だって宇宙が知りたい 矢野顕子
第1章 宇宙で感覚や心はどう変化するか
第2章 死の世界
第3章 生の世界
第4章 3度目の宇宙へ
第5章 スペースX―イーロン・マスクと「宇宙新時代」
第6章 宇宙に飛び出すことは地球を知ること
あとがき 宇宙は誰にでも開かれていて、思っているより近くにある
野口聡一