隣人、同僚、見知らぬ他人を羨ましく感じてしまうのは、なぜ!?|山本圭
嫉妬の悪名高さ
嫉妬は誰しも多かれ少なかれ馴染みのある感情に違いない。心当たりがあると思う。隣人が高級車に乗っているのを見たとき、同期が自分を差し置いて出世したとき、嫉妬心は静かに芽生え、しだいに私たちを昼夜問わず苦しめるようになる。アメリカの小説家ゴア・ヴィダルはかつて、「友人が成功するたびに、私の中の何かが少しずつ死んでいく」(Hendershott, The Politics of Envy, p. 195)と冗談めかして言ったというが、ここにはどこか笑えない真実味がある。身近な友人関係から政治家や有名人のスキャンダルまで、世間には人々の嫉妬心があちこちで渦巻いている。
中世イタリアの画家であるジョット・ディ・ボンドーネは「羨望」という作品で、角の生えた、口から蛇を出す女性の姿を描いている。
彼女の目は見えておらず、耳は大きく描かれているが、これらはそれぞれ嫉妬の「邪悪な目 evil eye」と他人への異常な関心を象徴している(Sara Protasi, The Philosophy of Envy, Cambridge University Press, 2021, p. 181)。片方の手は、いまにも他人の持ち物に手を伸ばさんとしており、もう片方の手は自分の所有物を決して手放すことがないようにしっかりと握られている。ここから嫉妬がいかに卑しい悪徳と考えられていたかがうかがえる。ちなみに嫉妬のモデルが女性であるのも、おそらく何らかのジェンダー的なバイアスがあるように思われる(日本語の嫉妬という語も「おんなへん」である!)。
言うまでもなく、嫉妬感情は一般にすこぶる評判が悪い。六世紀にグレゴリウス1世がキリスト教のいわゆる「七つの大罪」にエントリーしたが、その悪名高さはその他の悪徳のなかでもピカイチとされる。たとえばしばしば指摘されるように、嫉妬にはまったくもってプラスになるところがなく、何一つ取り柄がない。同じ七つの大罪に数えられる怠惰や憤怒にさえ、社会的には何かしらポジティブなところがなくはない。たとえば、怠惰は私たちの疲れを癒やすことがあるし、怒りもまた私たちを勇気ある行動(圧政や不正義への異議申し立てなど)へと奮い立たせることがある(Joseph Epstein, Envy: Seven Deadly Sins, Oxford University Press, 2003, p. 1)。
しかし、こと嫉妬にかんしては、そうしたポジティブな要素がいっさい見当たらないのである。このことが嫉妬をほかの感情とは一味ちがう、特別なものにしているように思う。イギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルが、嫉妬を「すべての激情の中で最も反社会的なまた最も忌まわしい感情」(J・S・ミル『自由論』塩尻公明・木村健康訳、岩波文庫、1971年、158頁)としているのも理由がないことではない。
嫉妬にまつわる物語
かくも敬遠される嫉妬であるが、厄介なことに、いつの時代にもかなり普遍的に見られるものらしい。古今東西いたるところでこのテーマについて多くのことが書かれてきた。キリスト教の聖書にも繰り返しこのテーマが現れる。
なかでもカインとアベルの物語はよく知られたものだろう。カインとアベルはそれぞれ作物と肥えた羊を神に捧げたが、神はカインの捧げ物には見向きもしなかったため、カインはアベルを殺害してしまった。政治思想家のハンナ・アーレントがこの物語を引き合いに出して「暴力ははじまりであった」と評したことがあるが、この逸話を読めばつい「嫉妬ははじまりであった」と言いたくもなる。
それでなくとも、人間の嫉妬にまつわる物語は、しばしば小説や戯曲の題材になってきた。たとえば、シェイクスピアの『オセロ』は、オセロの昇進や成功を妬むイアーゴがオセロを策略にかけようとする物語であるし、夏目漱石の『こころ』でも、先生のKに対する嫉妬(あるいはジェラシー)がテーマの一つになっている。童話や子ども向けの物語でも、嫉妬は頻出するテーマである。有名どころでは『白雪姫』があるし、日本民話でも『花咲か爺』などがよく知られている。
さらに個人史としても、こうした感情は幼少期から見られるという。たとえば、兄弟姉妹間の嫉妬は典型的なものだろう。子どもは親や養育者の愛情が兄弟姉妹に向くことに我慢できず、何かしらトラブルを引き起こす(こうした兄弟姉妹間の敵対感情を、心理学では「カイン・コンプレックス」と呼ぶ)。こうした幼児の嫉妬について、神学者のアウグスティヌスは『告白』のなかでこう伝えている。
嫉妬に狂うのは大人だけではなく、幼児もまた自分だけに向けられていた親の愛を奪われたと感じ、兄弟姉妹に嫉妬の炎を燃やすのである(ただし厳密に言えば、このあとでも議論するように、この幼児の感情は「嫉妬」というより「ジェラシー」に近いものと考えられる)。
かように、どうやら嫉妬するのであれ嫉妬されるのであれ、総じてこの感情を回避して生きることは容易ではなさそうだ。だからと言って、嫉妬に満ち満ちた社会に生きるのもなんだか嫌である。だとすると、この感情を真面目に検討し、上手な付き合い方を導いておくことは、それなりに意義のあることだろう。
良性嫉妬と悪性嫉妬
嫉妬論の世界では、しばしば二つのタイプの嫉妬感情が区別される。良性嫉妬(benign envy)と悪性嫉妬(malicious envy)である。ここで良性嫉妬と呼ばれているのは、隣人への敵対的な感覚を伴っておらず、どちらかと言えば優れた隣人への賞賛や憧れを表すものと考えられている。よくある少年漫画風に言えば、自分より優れたプレイヤーを目標にし、一歩でもその人物に近づけるよう一生懸命努力するといったものだろう。そのため、一般に良性嫉妬はそれほど悪いものとは考えられておらず、むしろ爽やかですらあり、社会的にも許容されやすい(Stanford Encyclopedia of Philosophyの“Envy”の項目を参照)。
これに対し悪性嫉妬は、はるかにタチの悪い嫉妬のことである。これは良性嫉妬とは異なり、精神的な痛みを伴うもので、さらに本性上、隣人への敵意を持った感情である点に特徴がある(Richard H. Smith, ed., Envy: Theory and Research, Oxford University Press, 2008, p. 4)。悪性嫉妬に支配されると、嫉妬者は相手の破滅を望むようになり、また嫉妬者自身もその感情に苦しみ、破滅することもある。一般に嫉妬という感情で考えられているのはこちらのほうだろう。
だがじつを言えば、本書はこの区別についてやや懐疑的である。確かにそうした区別が有用な局面もあるかもしれない。嫉妬と呼ばれる感情が、必ずしも他人の不幸を望むものとは限らず、嫉妬者を鼓舞してよりよい方向へ動機付けることもあるだろう。とは言いつつも、良性嫉妬をなおも嫉妬の一つのカテゴリーとして捉えてよいのだろうか。
本書が良性嫉妬という概念を避けたいと思っているのは、ある論者らが指摘するように、本書で論じようとする嫉妬の概念を曖昧にしてしまうからだ(Richard H. Smith and Sung Hee Kim, “Comprehending Envy”, Psychological Bulletin, Vol.133, No.1, 2007)。
ここでは、嫉妬と憧憬(longing)を区別しておくことが手がかりになるだろう。どちらも他人が持っているものが欲望の原因になる点で違いはない。しかし憧憬の場合、私たちは自分が持っていない才能や容姿などを持つ誰かにあこがれの感情を抱き、自分もそれを手に入れられるよう努力するだろう。それに対し、嫉妬に特徴的なことは、他人が持っているものを自分が持っていないという状況に苦しみ、他人がそれを失うことを切望する点にある。自分をより高みへと引き上げるのではなく、むしろ他人の足を引っ張ることで溜飲を下げる、これこそ嫉妬が邪悪であるとされるゆえんだろう。そうすると、良性嫉妬という概念を保持する理由はなくなり、そうした感情については憧憬と呼べば事足りるはずである(Justin D’ Arms and Alison Duncan Kerr, “Envy in the Philosophical Tradition” in Smith, ed., Envy, p. 47)。
そのため本書では一部の例外を除き、悪性嫉妬を話題の中心にする。本書では、他人の失敗を待ち望むもっと醜くドロドロした、おぞましい情念としての嫉妬をおもなターゲットにすることにしたい。
なぜ嫉妬は主題化されてこなかったのか
嫉妬心を持つと後ろめたいとか疾しいと感じてしまい、自分でもそのことをなかなか認めることができない。そのため、内なる嫉妬心は通常秘匿される。誰も自らが嫉妬に駆られているとは認めたくないし、何より他人にそのことを知られたくもない。
嫉妬の性質について、アメリカの小説家ハーマン・メルヴィルが『ビリー・バッド』のなかでとても興味深い指摘をしている。新米水兵のビリー・バッドは、船員の誰からも好かれていた。しかし、そんなビリーに嫉妬し、彼を策略に陥れようとしたのが先任衛兵長のクラガートであった。そこでメルヴィルは嫉妬感情について次のように書き記している。
私たちは嫉妬の存在を容易には認めようとしない。誰かの成功に妬んでいたとしても、「あいつは大したことない」といったように、その価値を否定することで自分を慰めることも多い。そのためこの感情は、たとえば怒りや悲しみといった感情に比べると、ストレートには表に現れにくい。それはたいていの場合、自らを偽装する。
そのためだろうか、現実の政治分析において、嫉妬が主題化されることはあまりない。だとすると、この感情にはどのような特徴があり、それが人々の判断や評価にどれほどの影響を与えているのか、あるいはもっと広く、嫉妬が持つ政治的な意味合いについて、私たちはあまり理解してこなかったのではないだろうか。本書が目指したいのは、この感情の秘密を心の暗部から引きずり出し、そこに光を当てることである──たとえその作業がときに苦痛に満ちたものだとしても。