【第90回】「量子力学の多世界解釈」は「最善」か?
「無数の平行世界」とは
「無駄」が多すぎるのではないか?
量子力学は、ミクロの世界では、いわゆる「客観的実在」の概念が成立しないことを示している。たとえば、水素の原子核の周りには1個の電子が存在するが、その電子は原子核の周囲の至る所に「不確定」つまり「確率的」に存在し、波のように空間を満たしているとみなされる。この「粒子」でも「波」でもある状態を「共存」と呼ぶ。ところが、いったん電子の位置が「観測」されると、その瞬間に電子は「波」から「粒子」に「収束」するのである。
1932年、数学者ジョン・フォン・ノイマンが発表した『量子力学の数学的基礎』によって、量子力学は数学的に「完成した」とみなされた。ノイマンの公理系では、「観測」から「収束」に至る経緯が公理系内部で厳密に数学的に定式化される。だが、公理系の外部にある「観測」とは、何を意味するのか。
その解釈に疑問を投げかけたのが、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーだった。彼は1935年、「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験を提示した。閉鎖された鉄の箱の中に、猫が入っている。箱の中には、毒ガス発生装置があり、1時間後に原子核崩壊が起こる確率が50%の放射性物質に繫がっている。その物質が原子核崩壊を起こせば毒ガスが発生する仕組みだ。
1時間後に箱を開けて観測すると、その瞬間に「原子核崩壊が起きて猫が死んでいる状態」か「原子核崩壊が起きずに猫が生きている状態」のどちらかに収束するというのが、「量子力学の父」ボーアの「相補性解釈」である。
しかし、なぜ一方の状態だけが観測されるのか。これでは、自然界がサイコロを振って猫の生死を決めているかのように映る。だからアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と宣言して、ボーアを批判したわけである。
本書の著者・和田純夫氏は1949年生まれ。東京大学理学部卒業後、同大学大学院理学系研究科修了。ケンブリッジ大学・ボローニャ大学研究員などを経て、東京大学教養学部専任講師。定年退職後、現在は成蹊大学非常勤講師。専門は素粒子論・量子論。著書に『物理講義のききどころ』(岩波書店)や『量子力学が語る世界像』(講談社ブルーバックス)など多数がある。
さて、量子力学の「多世界解釈」によれば、上記の思考実験では箱の中を「観測」した瞬間に「原子核崩壊が起きて猫が死んでいる世界」と「原子核崩壊が起きずに猫が生きている世界」に分岐する。つまり、自然界はサイコロを振らず、公平に同等で相互不干渉な2つの世界に分ける。この分岐は、あらゆる観測において生じるわけだから、世界は常時、無数に分岐していくことになる。この世界で本文を読書中の読者が、別世界では食事中か睡眠中あるいは旅行中かもしれない。読者は無数の平行世界に「共存」するわけである。
本書で最も驚かされたのは、この種の解説書ではニュートラルに扱われることが多い量子力学の解釈問題に対して、和田氏が「多世界解釈」を最も「無駄のない論理構成」と明確に支持していることだ。たしかに「多世界解釈」では「観測」に内在する「意識」「量子もつれ」「主観確率」などの問題が消え去り、「客観的実在」が確立される。しかし、その「論理」の代償として設定しなければならない無数の平行世界とは、あまりにも「無駄」が多すぎるのではないか(と、論理学者の私が言うのも妙な話かもしれないが……笑)?