第二章 契約金0円――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則
第一章に続き、第二章の冒頭を公開します。以下、本書の概要です(光文社三宅)。
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下馬評を大きく覆し、2年連続最下位からのペナント制覇は、いかに成し遂げられたのか? 逆に、なぜかくも長き暗黒時代が続いたのか? 黄金期も低迷期も見てきた元番記者が豊富な取材で綴る。
1994年の仰木彬監督就任まで遡り、イチロー、がんばろうKOBE、96年日本一、契約金0円選手、球界再編騒動、球団合併、仰木監督の死、暗黒期、2014年の2厘差の2位、スカウト革命、キャンプ地移転、育成強化、そして21年の優勝までを圧倒的な筆致で描く。
主な取材対象者は、梨田昌孝、岡田彰布、藤井康雄、森脇浩司、山﨑武司、
北川博敏、後藤光尊、近藤一樹、坂口智隆、伏見寅威、瀬戸山隆三、加藤康幸、牧田勝吾、水谷哲也(横浜隼人高監督)、望月俊治(駿河総合高監督)、根鈴雄次など。
12月15日発売! 現在予約受付中です。
目次、プロローグはこちら。
第一章はこちら。
「素人が口を出すな」
第二章 契約金0円
プロ野球の球団経営は「儲からない」と言われ続けてきた。
昭和の時代には、赤字経営がむしろ当たり前だと見なされていたほどだ。
「子会社にあたる球団の欠損金を補填するための支出は、親会社の『広告宣伝費の性質を有するもの』として取り扱うものとすること」
1954年(昭和29年)8月10日付、国税庁による「職業野球団に対して支出した広告宣伝費等の取扱について」の表題がつけられた通達は、平成を経て、令和の新時代に入った今も、球団経営への優遇措置として続いている。
だから、プロ野球は「親会社の節税対策」の一環と揶揄されたこともあった。
何とも古めかしい「興行」という名称でくくられ、コスト感覚とは無縁の「どんぶり勘定」と呼ばれる、どこかしら道楽的な捉え方だった時代が長く続いてきた。
そうした旧態依然の産業構造に危機感を持ったのは、パ・リーグの方だった。
プロ野球発足時の〝オリジナルメンバー〟から球団を買収した新規参入組にとって、それまでの緩い経営感覚は、全く受け入れられるものではなかったのだ。
そこに「フロント主導」という新たな経営の概念が、海の向こうから押し寄せてきた。
2000年(平成12年)から2003年(平成15年)にかけ、メジャーを席
巻したのは、低年俸の球団、オークランド・アスレチックスの快進撃だった。
金満球団と言われたニューヨーク・ヤンキースなど、裕福なビッグネームの老舗球団とは正反対、選手年俸の総額では、メジャー全球団の中でも下から数えた方が早い〝超・低予算球団〟だった。
2002年(平成14年)のシーズン開幕時点で、ヤンキースの選手年俸総額は1億2600万ドル(約151億円=当時)。一方のアスレチックスはその3分の1、4000万ドル(約48億円=同)程度だった。
お金がなければ、ビッグネームのプレーヤーは獲れない。いい選手が来なければ、チームは強くならない。その図式から導き出されるのは、資金力のない球団は弱い、という単純明快な、実に味気ない見解でもあった。
ところがアスレチックスは、2000、2002、2003年にア・リーグ西地区を制覇した。2001年は同地区2位だったが、この4年連続でポストシーズン進出を果たした。
おカネのないアスレチックスが、どうして強くなったのか。その秘密を紐解いた一冊の本が、瞬く間に世界的なベストセラーになった。
『マネー・ボール』(マイケル・ルイス著)で詳述されていたのは、試合における選手のパフォーマンスを、データ面から徹底的に分析したことだった。
ただそれは、打率、本塁打、打点といったベーシックな指標ではなく、四球数、出塁率といった、これまで注目されておらず、活用し切れていなかったデータを新たに組み合わせることで、新たな評価基準を作り、その〝新指標〟が優れた選手を活用していったのだ。
出塁率や四球数など、アスレチックスが活用した新たなる基準で選ばれた選手たちは、それまで全くといっていいほど目立たない存在だった。
だから、その年俸も決して高くなかった。それらの〝安い選手たち〟を集めれば、低予算のチームでも賄えるのだ。
資金力不足であっても、経営の工夫で新たに活路を見出せるという一種のビジネス論としても、アスレチックスの取り組みは日本だけでなく、世界的に注目されたのだ。
それまでのプロ野球は、監督の経験やカリスマ性で選手たちを引っ張り、チームの補強面においても、監督の人脈やそのネットワークに頼る、それこそ現場任せに近かった。
プロ野球の世界を大きく変える、革命的な取り組みでもあった。
素人が口を出すな。野球を知らないやつらが、ごちゃごちゃ言うんじゃない。
日本の野球界は、プロ・アマを問わず、いまだにその〝古き伝統〟が色濃く残っている。
その反対語ともいえるのが「フロント主導」という言葉になる。
アスレチックスが実践した『マネー・ボール』のコンセプトは、プロ野球ビジネスに「フロント」の関与する比重を増やしていくという新たな潮流を意味していた。
メジャーでも、チーム編成を統括する「GM」のポジションは、かつてはプロでのプレーを経験した〝選手上がり〟が大半だった。しかし今では、ハーバードやイェールといった全米トップクラスの名門大を卒業し、プロ野球の経験がないビジネスエリートたちを起用するのが主流になってきた。
ビジネスからの観点を踏まえ、経済理論やマーケティングの専門家らも交えながら、あらゆる角度から見たデータも駆使して、チームの補強に関しての決定を行っていく。
フロント、つまり球団が揃えた戦力を動かしていくのが監督だ。だからメジャーでは、監督を「フィールドマネジャー」と呼ぶ。
経営サイドと、現場の実働部隊との明確な分離。
ビジネスの世界では、当然の感覚だろう。オリックスはその、最新鋭ともいえる「ベースボール・ビジネス」に取り組もうとしたのだ。
阪神・淡路大震災を乗り越え、球界の盟主・巨人を倒して日本一に輝いたのは、1996年(平成8年)。しかし、その後のオリックスは緩やかな下り坂を下るがごとく、順位もチーム力も年々、次第に落ちていくことになる。
リーグ3連覇を目指した1997年(平成9年)は2位。98、99年は3位。
2000年(平成12年)は、分水嶺ともいえるシーズンだった。
阪急から球団を買収して以来、初となるBクラス転落の4位。そのオフ、ポスティング・システムという「入札制度」を活用することで、イチローがメジャー移籍を果たした。
翌01年にFA権取得が濃厚だったイチローの保有権を持っている間に、メジャー球団へ入札制度で移籍させる。イチローの夢を叶えさせたという美談の側面もあるが、球団ビジネスとしては、FAでのメジャー移籍なら、球団側に金銭的なメリットは全くない。
主力選手が一人、チームから抜けてしまうという戦力的なダメージしか残らないのだ。
ところが、ポスティング・システムなら、球団は「入札金」を手に入れることができる。
イチローのシアトル・マリナーズへの移籍に伴ってのその金額は、1312万5000ドル。当時の換算で日本円にすると、約14億円になる。
そこに、企業のシビアな決断が見える。
ただ当時は、プロ野球界にそうしたビジネスの感覚が薄かったのも事実だ。選手を売って儲けた、とも見えるオリックスの決断を、全面的には受け入れがたい空気も残っていた。
この〝イチロー放出〟と同じ延長線上ともいえる、新たな取り組みがあった。
それが「契約金0円」での新人採用だった。
契約金0円は、選手を「商品」に例えれば、その仕入れ値が「0」だということだ。
何千万円、何億円という契約金を払って入団させても、それに値するような活躍を見せないまま、球界を去る選手も多い。もちろん、その逆もある。
契約金の高さは、アマ時代の実績と、そこから導かれる期待値の高さでもある。
それがプロ野球界の掟であり、球団経営とは、そうした〝博打性〟を帯びたものである。
それは、スポーツビジネスという名前になっても、変わらない部分ではある。
今は芽が出ていなくても、野球への意欲がある。鍛えたら化けるかもしれない。
未知の魅力に賭ける、といえば、もっともらしく聞こえるが、要は元手をかけずにいい選手を発掘できないのかという、人件費抑制のための新機軸でもあった。
そこでオリックスは、2000年ドラフトからの3年間で、11 人の「契約金0円選手」を指名した。うち10人が入団、1人が入団拒否している。
先に結果から書いておこう。
投手3人のうち、1軍登板を果たしたのは2人。勝ち星は「1」のみ。
野手7人のうち、1軍出場を果たしたのは4人。うち安打を記録したのは2人。
その10人のうち、オリックス、近鉄の合併初年度となる2005年(平成
17年)までに、7人が退団している。
ついでに、皮肉な事実を付け加えておこう。
12年間の長きにわたってプロで活躍した中島俊哉は、2002年(平成14年)ドラフトで8位指名を受け、オリックスに入団した最後の「契約金0円選手」だが、近鉄との球団合併に伴う「分配ドラフト」で、2005年からは東北楽天へ移籍している。
オリックスでの2年間では1軍で1安打。しかし、移籍後に素質が開花し、通算296試合に出場し、4番も打つまでに成長した。
さらにオリックスは、ファーム組織の改革にも乗り出していた。
2軍で育てた選手が1軍に上がって活躍し、いわゆる稼ぐ選手になる。そのための〝準備期間〟を過ごす場所でもあるが、そこは「コストセンター」の位置づけになる。
選手一人、1年間の育成にかかる年俸以外のコストは、約1000万円といわれている。
遠征の移動費、寮での食事、ユニホームの洗濯費といった、選手を育成するための諸経費は、ドラフト1位のスター候補でも、契約金0円選手でも、球団に所属している間、その一人一人にかかるコストという面から見れば、何ら変わらない。
こうした支出を、少しでも軽減できないか。
そこでファームの「独立採算化」を目指し、スポンサーをつけたのだ。
ファームのチーム名を、穴吹工務店が3年総額3億円で購入。穴吹工務店側は、同社が建設・販売しているマンションのブランド名をつけた。
ファームのチーム名は2000年から「サーパス神戸」となり、ユニホームのロゴも「SURPASS」に変わった。
つまり、1軍と2軍では、ユニホームも違うのだ。
マイナーからメジャーに上がるという、メジャーの感覚も持ち込み、ハングリー精神を鍛えるという意味合いもあったという。
「契約金0円」と「1軍と名前の違うファーム」
サーパスは、2008年(平成20年)まで続いた。
つまり、この2つの試みが同時進行していたのは3シーズンというわけだ。
その3シーズンのうち、2001年と2002年は現役選手としてサーパスのユニホームでもプレーした経験を持ち、2003年には2軍打撃コーチとして「契約金0円選手」を指導していたのが、藤井康雄だった。(続く)