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【プロローグ公開】なぜ私たちは「問うこと」を諦めるべきではないのか。|景山洋平

この度、哲学者である関西学院大学准教授・景山洋平さんの『「問い」から始まる哲学入門』が刊行となりました。
今晩のメニューから選挙の投票先といった国の行く末に関わる「問い」まで、私たちの生活には「問い」があふれていますが、そもそも私たちはなぜ問うのでしょうか。また、2600年にわたって根源的な「問い」を重ねる哲学者たちは何を探究し、なぜ探究を続けているのでしょうか。本書では、そんな「問い」の歴史とその意味を景山さんが丁寧に解説してくれました。刊行を記念して、本記事ではそんな本書のエッセンスが詰まったプロローグを公開いたします。

世界は「問い」にあふれている

本書は、人間の言語活動である「問い」を視座として、哲学の基本問題を概説します。

「問う」とは何をすることでしょうか。しばしば「自分の問いを持て」と職場や学校では言われます。そこでは、解決すべき社会のニーズや、解明すべき学問上のテーマを自分で見つけだすことが要求されます。

また、個人の生活でも、進学や就職、転職、さらには結婚など人生の分かれ道で、自分がどう生きるべきか、私たちは自分に問いかけます。そこで求められるのは自分に本当にふさわしい選択について熟慮することです。さらに、社会や人類に関わる、もっと大きな問いもあります。たとえば、どのような年金制度をつくるべきか、隣国とどのように付きあっていくべきか、という政治上の問いがあります。また、気候危機のような地球規模の事柄にどのように対処すべきかという、人類の生存をめぐる問いもあります。

これらの「問い」に「答え」はあるでしょうか。もちろん、学校や職場に満足したり、多くの人が納得できる年金制度をつくれば、それは一定の答えです。けれど、その答えは暫定的なものにすぎません。つまり、あらゆる疑問を消しさる完全な解答ではありません。

現在の学校や職場に満足できているのは実際にそこに身を置いている視点からそう思うだけであって、別の学校や職場に進んでいれば本当はもっと充実した生活を送っていたかもしれません。また、多くの人が納得できる年金制度があったとしても、当然納得していない人に我慢してもらって制度ができるわけだし、納得した人でも他人に妥協しているはずです。

不確かな世界を生き抜くために……

そうすると、「答え」があるといっても、いつでも私たちは、別の選択もできる分かれ道で迷いつづけています。「答え」は「問い」を新しく生み出すだけです。この無力さには、人間であることの根底の哀しみがあります。

かくも終わりなく、おぼつかない境遇を繰り返すだけなら、「問う」とはむなしい行為ではないでしょうか。むしろ、問うことなどしないで、そのつどのなりゆきに身を任せるほうが幸せではないでしょうか。

問うためには世界の不確かさから目をそむけずに受けとめなければなりません。それだけでも大変なのに、一生懸命自分の問いに取りくんでも結局は別の不確かさに直面してしまうのだとしたら、そんなことをしても徒労でしょう。古代ギリシア神話のシーシュポスのように、冥界で永遠に巨岩を運び上げるような虚しさがそこにはあります。

けれど、私たちは問うべきです。なぜなら、不確かさに向かいあって問うことは、不確かな世界のただなかに身を置く私たちの生を肯定して引き受けることだからです。この世界には、数えきれない無数の人びとがそれぞれのかけがえのない人生を生きていて、夜空の星々のように、謎に満ちたそれぞれの現実に向かいあっています。「問う」とは、みずから自身のうちにその光を見いだし、いわば、人間であることをあらためて取り戻す行為です。

哲学の問いが目指す場所

本書のねらいは、哲学に固有のさまざまな「問い」を、人間であることに他ならないこうした「問い」の「賛歌」として示すことです。賛歌は英語でヒム(hymn)ですが、その語源である古代ギリシア語のヒュムノスはもともと神々や英雄を称賛する歌を意味しました。

これに対し、本書の賛歌は、もちろん読者の皆さんもふくめて、人間へ向けられています。人間は、今を生きるために、不確かな未来へと問いかけます。その問いは、人の生の果てしない多様さにおうじて、人生の選択から年金制度や気候危機までさまざまです。けれど、問いの言葉は、本人の存在を超えて、言葉を受けとめる他者へと繋がっています。

人びとは、問いの言葉をつむぎあって、多様な問いが繰り広げられる唯一の場所を織りなします。哲学の問いがめざすのは、この唯一の場所へとさかのぼり、問いかける人間そのもののありかたを明らかにすることです。

ただし、哲学は「人間とはこういうものだ」と上から目線で語ったりできません。むしろ、哲学は、哲学者自身には決して手が届かない、それぞれの現実を生きる無数の人間の心のうちを言葉のあて先とします。誰かが受けとめて、自分だけの「問い」を生きる可能性に気づいてくれることを願う、そうした言葉の営みが哲学です。この意味で、哲学の「問い」は人間の賛歌です。

哲学の言葉は誰かに受け取られるのを待っている

叙述じよじゅつは次のように進んでいきます。はじめに、本書の視座である「問い」がなぜ哲学的に重要なのかを説明します。そこでは、「問い」こそが21世紀の哲学の根本課題であることが示されます。「問い」という言語活動は、哲学が論じるさまざまな事象をつらぬく不確かさをあらわにする、哲学の究極の源泉です。

次に、哲学のさまざまな基本テーマについて、「問い」を視座として概観します。具体的には、存在、神、カテゴリー、実在、世界、時間と空間、自己と他者、身体、誕生と死といった概念についてお話しします。これらは、私たちが生きる現実の一番の基本となるものです。人の生活は各人各様ですが、皆さんも、他のすべての人びとも、みんなこれを前提としています。それゆえ、これを学ぶことで、人が生きる現実の全体を見晴るかす普遍的な視野が開かれます。

ただし、そこには、「これだけが真理だ!」と決定できるような唯一の「答え」はありません。現実そのものが不確かだからです。この不確かさゆえに、現実のすべて――問うもの自身をふくめ――は、不確かさに向きあう「問い」に集約され、そこから新しく現れでます。

これらの概念は、人生の悩みや年金制度などの具体的な「問い」にはただちに繋がりません。むしろ、哲学の役割は、さまざまな選択の手前で、不確かさに向かいあって迷う人間そのもののありかたをとらえることです。

日々の生活で苦しむにせよ、気候危機への対処で悩むにせよ、私たちが面前する現実の不確かさそのものを自覚し、それを幅広い視野からとらえなおさなければなりません。哲学の一見してとても抽象的な議論は、そのためにあります。ここから、哲学の「問い」は、個々人の生の「問い」に、そして、何かを選びとる決意に繋がってゆきます。

本書は、哲学に興味のある社会人や学生に向けた「哲学入門」として執筆されています。また、哲学にさほど興味のない方にも、「哲学って、はじめて読むけど、こんな話をしているのか」と哲学の基本問題に見通しを持ってもらえるよう、重要な哲学者の名前や基本的な学説についてもある程度はお話しします。けれど、専門用語や哲学者の名前がわからなくても事柄を理解できるように本書は書かれています。わからない言葉は気にしないで読み飛ばしてください。

哲学が問いかける言葉は、哲学者だけのものでないどころか、そもそも哲学者の所有物でなく、その言葉が皆さんに受けとめられて、皆さん自身の「問い」が始まるために存在します。

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目次公開

エピローグ

第1章 問うものとしての人間
1・1 哲学の歴史は「問い」から始まった
1・2 問いこそは哲学のもっとも根源的な事柄
1・3 「問い」は日常の対話のはざまで人びとに呼びかける
1・4 21世紀の哲学の課題としての「問い」

第2章 「ある」への問い
2・1 「ある」こそがもっとも謎に満ちている
2・2 神をとらえる試み
2・3 カテゴリーにより深まっていく問い
2・4 人間が挫折したとき「ある」は姿をあらわす

第3章 実在への問い
3・1 実在をめぐる基本問題
3・2 万物をつらぬく変容そのものとしての世界
3・3 なぜ時間と空間に広がりがあるのか
3・4 未知と遭遇する人間に、世界の謎が開かれる

第4章「私」とは誰か
4・1 「私」を「私」たらしめるもの
4・2 「私」の身体の成りたち
4・3 「私」の誕生と死
4・4 問いかけられて、「私」の自由が始まる

エピローグ

景山洋平(かげやまようへい)
1982年、三重県生まれ。東京大学文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部専任講師を経て、現在、関西学院大学大学院文学研究科・文学部准教授を務める。専門は現象学、解釈学、近代日本哲学を中心とし、現代における存在論と人間論の再構築を目指している。著書に『出来事と自己変容 ハイデガー哲学の構造と生成における自己性の問題』(創文社)がある。


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