人間がメタバースで死ぬ日
エピローグ後編
岡嶋裕史さんのメタバース連載の32回目、最終回です。「1章 フォートナイトの衝撃」「2章 仮想現実の歴史」「3章 なぜ今メタバースなのか?」「4章 GAFAMのメタバースへの取り組み」に続き、エピローグを2回に分けてお届けします。今回はその後編、最終回となります。
エピローグは全体のまとめ的な役割を果たします。エピローグを読んだ後に頭から読み直していただくと、より理解が深まるはずです。
下記マガジンで、本連載をプロローグから順に読めます(新書編集部 三宅)。
エピローグ前編はこちら。
人間がメタバースで死ぬ日
この議論で個人的な話をすることにあまり意味はありませんが、私は状況が許すならメタバースで生きて、そして死にたいと考えています。今でも自由になる時間があると人がなるたけ出てこないゲーム世界で時間を過ごしていますが、そこで糊口を凌げるならリアルには帰りません。
お墓も(いらない派ですけど)リアルは高いので、メタバースに埋葬して欲しいです。そっちのほうが楽しいから。二次元女子がお墓参りに来てくれるNFT(非代替性トークン。ブロックチェーンで管理することで、オリジナルであること、偽造されていないことが証明されたデジタルデータのこと)があれば、人生を賭した重課金に乗り出すことでしょう。
以前に有志で、オタクが埋葬される萌え共同墓地のクラウドファンディングを企てたことがありましたが、リアルでそんなものを作るよりメタバースでの埋葬の方が楽ですし、理想に叶っています。
上で述べたのはオタクの戯言ですが、それに近い生活や感覚は多くの人が持つことになると思います。
本論でも述べたように、個人の自由は価値観としてとても広まりました。それは純粋によいことだと思います。でも、自由を謳歌して価値ある人生を自分の責任で勝ち取らなければならない、まで拡大するとちょっとしんどくなってきます。
そもそも、みんなが幸せになろうと頑張っていますから、資源や地位が有限である以上、全員が勝ち組になれるわけでもないでしょう。「ナンバーワンよりオンリーワン」という言い方もありますが、実人生ではおためごかしに過ぎません。
そうであるならば、自分にとって快適なフィルターバブルの中に潜って、そのバブルでのナンバーワンを目指すのは理のある選択肢です。バブルの外側には広大な世界がありますが、見えなければ存在していないのと一緒です。
井の中の蛙ですが、蛙はけっこう幸せでしょう。蛙を批判することはたやすいですが、むしろ世界を知り尽くしている人よりも、楽しそうにしています。蛙である状況を飲み込んだ上で、井戸の中に入っていく人は増えるかもしれません。
フィルターバブルに残るのは自分1人
フィルターバブルが最適化に最適化を重ね、さらには個人の快を突き詰めていくと、最後にフィルターバブルに残るのは自分1人になるかもしれません。
私のような人間だとそれが心地いいですし、それが寂しく感じる人はそれこそ星新一の「養成配給会社」やバンダイナムコの「Under World」のように、自分に都合のよいことしか言わないAIに周囲を固めてもらえばいいでしょう。
今の技術では不可能に思えるかもしれませんが、すでにチューリングテストを突破して、テキストの会話だけでは人と見分けがつかなかくなったAIが現れました。
美辞麗句を並べるAIに囲まれた、どこまでも孤独なフィルターバブルは、端から見ればグロテスクかもしれませんが、もともと人の幸せはグロテスクな要素を内包します。しかも、その構図は利用者には隠蔽されるのです。社会に根付けば、誰も気にしなくなるでしょう。
正義の問題もあります。ロールズ的な現代の正義は、「負荷なき自我」を想定するあまり、時として「1人1人に正義がある」といった議論に陥りがちです。個人主義が浸透したいま、政治もこれを強く調停する能力や態度を持ちません。日本でも著名なサンデルが批判を試みた部分です。
こうした議論と、個人の可能性の追求といったムーブメントが接続すると、「自分が不快に感じることは不正義である。それを是正して、正義を勝ち取らねばならない」といった意識が育まれることになります。
これは理屈として飛躍しており、ロールズでも、ましてサンデルの言う正義でもありませんが、このような正義の理解が浸透したことで、正義を主張する個人が、正義の拳で個々に殴り合う状況が頻出しています。
何が正義かという問題は、一朝一夕で語れるようなものではありません。だからこそ人類は、千年単位の時間を費やして考察を重ねてきました。そのための社会的なしくみもあります。
サイバー空間ではそのしくみが未整備で、しかし正義の需要自体はある(指針としての正義なしに生きるのは不安で不便です)ため、大きな声を上げた者、執拗に主張し続けた者、多数の賛同者を得た者の言葉が、いつの間にか正義と認識される環境が強固に成立してしまいました。
個々に正義が存在し、かつ多様性を認めるという議論が主潮を占める状況下では、それぞれの正義は主張可能であり、主潮と外れる正義の感覚も少しは存在が認められてもいいはずなのに、実態としてそうではない状況は、大権力が単一の正義を押しつけてくるのと同様にストレスがかかります。
正義に関われないことは、レビュー爆撃の項で考察した社会に関われないケース同様、無力感をもたげさせる苗床です。
それに反発して声を上げる者はまだいいのですが、穏健な多数派はここで議論を降りてしまいます。向かう先は傷つかずにすむ穏やかな世界です(別の選択肢として、大権力が単一の正義を押しつける安定した過去へ回帰する手段もありますが、一度自由を知ってしまった後でそれを望む人は多くないでしょう)。
それが、ここまでに論じてきたSNSでありメタバースです。多くの人は傷つきたくないですし、傷つけたくもありません。
究極のフィルターバブル≒メタバース
メタバースはコミュニケーションだけでなく生活全般を、(VR機器を活用するならば)視覚と聴覚だけでなく五感を、フィルターバブルの分厚い繭の中にくるんでくれるでしょう。
それが良いことかどうかはわかりません。人間がリアルで生を受けた生きものである以上、リアルから遊離することは悪であると断じる価値観も、とてもよく理解できます。それを踏まえてもなお、メタバースに魅力を感じる者は多く、その割合は増え続けるでしょう。
すでにステージは、メタバース的な世界が実現するかどうかではなく、実現していくことを所与の条件として、そのときどんな問題が生じ、どうクリアするかを議論する段階に至っていると考えます。
多くのメタバースが乱立してインフラになったとき、そこに社会が成立します。一つのメタバースに引きこもる人もいるでしょうが、いくつかのメタバースを行き来してコミュニティを拡げたり、ビジネスを行う者も現れます。
そこで過ごす時間が長くなり、ビジネスを行うまでを視野に入れるなら、メタバースでのアイデンティティも重要になります。
SNSはそこまで生活に深く食い込んでいないので、フェイスブックはフェイスブックの、ツイッターはツイッターのアカウントで分離していて、深刻な不都合がありませんでした。アカウントの相互運用もまだ初期的な段階と言えます。
しかし、メタバースではアイデンティティを保ったままそれぞれのメタバースを行き来できることが重要になるでしょう。アカウントのみならずアバターもそうです。メタバースごとにアバターを取り替える自由さや、個人情報保護としての追跡不可能性は大事ですが、同一のそれらを保持して仮想現実を渡り歩く需要は必ず生まれます。それに応える技術が求められるでしょう。
メタバースでの恋愛、デジタル遺産
メタバースが生活空間になれば、恋愛も行われるでしょう。メタバースでのアイデンティティで婚姻することは可能でしょうか? それはリアルと切り離せるでしょうか? リアルで結婚している人が、メタバースで別の相手と結婚することは重婚になるのか。メタバースはポリアモリー(複数の人と恋愛関係を結ぶこと)が許されるのか。
リアルでは男性の人が、メタバースでは女性のアバターを使い、婚姻することは可能か。それを女性と信じて婚姻した配偶者が、実は相手はリアルでは男性だったと知ったときに、詐欺罪は成立するのか。人間が操るアバターだと信じて疑わなかった相手と結婚したら、その背後にいたのがAIだったときどうするのか。
利用者が亡くなったときは、どうでしょう。いまでもSNSに多くの足跡が残されているので、デジタル遺産をどうするのかクローズアップされることがあります。恥ずかしさを覚える内容も含まれるため消したい遺族と、自分の死後も足跡としての自分の文章や写真を遺し続けたい本人との葛藤などが具体例です。
これがメタバースになると、残る情報量も多くなる上にその中にはアバターも含まれます。人間はELIZA効果(そんなはずはないと思いつつも、コンピュータの挙動に人格を感じてしまうこと)によって、モノにまで簡単に人間の気配を読み取ってしまいます。デジタルデータだからといって故人のアバターを消去してしまって良いのか。
人の筆致やしゃべり方を上手に模倣するAIも現れてきました。それを遺しておくのが慰めになる遺族も、却ってつらくなる遺族もいるでしょう。遺す側の故人も、消したい人も、ずっと存在することを希望する人もいるでしょう。人はいつまでも世界に自分が生きた爪痕を残し続けられるのかもしれませんし、見方を変えればいつまでも死ねないのかもしれません。
ちょっと想像しただけでも、まだまだ私たちが考えねばならないこと、考えるべきこと、考えてもよいことが残されていて、わくわくします。こうした問題について考え、取り組み続けることで、人はもっとよりよい生を生きられるようになるでしょうし、巨大なビジネスチャンスをつかむこともできるはずです。(了)
※ご愛読ありがとうございました。本連載は光文社新書の一冊として刊行予定です。
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