フェイスブックやツイッターと競合―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史
1章③ フォートナイトの衝撃
光文社新書編集部の三宅です。岡嶋裕史さんのメタバース連載の続きをお送りします。1章はメタバースに最も近いと言われている「フォートナイト」について。下記マガジンで、プロローグから順に読めますよ。
「リアルよりも仮想現実のほうがいい」というリアル
そんなに仮想現実がいいのか。
リアルでうまくやっていたり、リアルの生活に親和性の高い資質を持っている人には、ぴんとこない話だとは思うが、すごくいいぞ。
私もリアルで生きるのが苦手な人間である。人間関係は気ばかりつかうわりには、好かれもせず、仕事の生産性も悪い。そもそも仕事に行く以前の話で、朝起きるのがうまくないし、満員電車に乗る才能もない。人生が下手くそなのだ。
気分転換に食事に行ったり、旅行に行ったりするといいよとアドバイスをしてもらっても、人の集まるところではリラックスできないし、旅では道を間違う。
だから、気分転換がしたいときは、いつもゲームをしている。ゲームメーカーの思惑通り、ゲームの目的(謎を解いたり、魔王を倒したり)に邁進することもあるが、そこで時間を過ごすだけのこともある。
最近のお気に入りは(古いコンテンツだけど)NieR:Automataだ。この世界では人類は滅んでいて、その足跡は廃墟と化し、今はアンドロイドと機械生命体しかいない。
NieR:Automata
抜群である。リアルで汚染された心が、高圧洗浄で純白を取り戻すようだ。NieRは終わりがあるタイプのコンテンツだが、敢えて終わらせずに散歩ばかりしている。
人が誰もいなくなった朽ちた建造物を巡るだけで、明日も生きてみようかという気分になる。私は確かにこの仮想現実に救われている。
「ゲームばかりして」と怒られることの多い人生だったが、「メタバースに棲んでいるのだ」と言えばなんだか最先端である。
VRのローラーコースターで遊ぶこともある。
もともとは、学生さんの卒業研究だったのだ。「VRで練習すれば、リアルにもフィードバックできるのではないか?」と考えたのである。けん玉で有名な研究(けん玉の練習をVRでやると、リアルでも上手になる。VRはスローモーションで動かすことができるなど、練習に都合がいいのだ)があるので、それをリスペクトしたのかもしれない。
ともあれ、せっせとVRのコースターをチューニングした。私も共感したのである。ジェットコースター的なものは好きだが、根性なしなのでガチに速かったり、くるくるまわったり、天地の関係がおかしくなるのはおっかないのだ。
だから、いつも「ひよこパス」などを買っていた。子ども向けの乗りものしか乗れないお得なパスポートチケットである。それで十分なのだ。子ども向けジェットコースターは予定調和に満ちていて、とてもいいアトラクションだ。
だが、VRで経験を重ねれば、さっそうと大人向けのこわいジェットコースターに搭乗可能かもしれない。清水の舞台から飛び降りようと画策した挙げ句、やっぱりやめますと長蛇の列から抜ける屈辱ともおさらばである。私は彼の研究を生暖かく見守った。
しかし、途中からVRのコースターのほうが良くなってしまった。米津玄師のコンサートと同じである。途中で怖くなってコースターを止めても怒られないし、何なら頻繁に止めて写真を撮ってもいい。ゆっくり動かしても、逆に速く動かすのも、設定一つで可能である。席も常に一番いいところに座れ、リアルでは法令的に無理だろうと思われる安全を無視したレイアウトも組み、チャレンジすることができる。
これ、リアルよりもいいぞ、と感じるのはジェットコースターにとどまらない。私は下手の横好きだが、もう何十年かレーシングカートを趣味にしている。下手くそなりに、車の挙動も理解していると思う。
最近のレーシングシミュレーターは、本当にリアルの運転の練習になるくらいよくできている。画面を通して映し出される映像表現もそうなのだが、ハンドルコントローラーやペダルコントローラ、ギアボックスなどの精度が素晴らしい。ブレーキを踏んで前輪が潰れる感覚や、スロットルを開けすぎてリアが流れ始める感覚がきちんと表現されている。実車に乗る手間や費用を考えたら、こっちでいいやと思わせる水準である。
レーシングシミュレーター「rFactor2」
そして、現実には(自分のライセンスでは)乗るのが不可能なスペックの車やサーキットを楽しむこともできる。自分が走らせたデータを記録して、後から映像として鑑賞したり、レース中にゴーストとして登場させ、過去の自分と戦うこともできる。現実を拡張した体験が得られるのである。
後述するが、レースゲーム自体がeスポーツとしてすでに成立している。スポーツとして認められるほど、技能の熟練やその遂行が結果に反映される競技になっている。リアルのモータースポーツでは、いかにイコールコンディションを謳ってもチーム間、車体間の差異は生じるが、それを完璧なイコールにすることもできる。リアルによく似た、リアルとは別の世界がここにも形作られている。
ここではたまたま廃墟やジェットコースター、車の運転を取り上げたが、ようはリアルよりも居心地がよかったり、リアルよりも自分の身体や精神が自在になる場所があるということだ。リアルで背が低くても、容姿が気に入らなくても、少数派であることに苦しんでいても、メタバースではそれがリセットされる。
マイナスのものをニュートラルにする発想自体がもう古いかもしれない。リアルでうまくやれていても、メタバースにより可能性や楽しさを見いだして移住する人もいる。
「自分が活躍したり、寛いだりする場所は、必ずしもリアルでなくていい」と言えるほどには、メタバースは現実になっているのである。
フェイスブックやツイッターと競合
メタバースの市場は、その技術的な発展や利用者のメタバースへの慣れを背景に、すでに一定規模に達し、今後も大きくなり続けるだろう。
「慣れ」と書いたが、どんな技術にも習熟は必要だ。たとえば、ソシャゲには似たようなゲームが多い。絵だけ置き換えたのではないか、と疑わせるものが市場に溢れている。これはよく言及される、「開発コストを減らせる」「絵自体に需要があるのでシステムは同じでいい」以外にも、利用者が慣れていて試してくれることが理由である。
システムに習熟するのは、そのくらい難しいのだ。よくウェブコマースの市場は流動的であると言われる。リアルの店舗だと、ある店舗がいやだなあと思っても、地理的な要因などでなかなか別の店舗を選択できないことがある。でも、ネットなら簡単に別のショップに行けるというわけだ。
しかし、それは言うほど簡単ではないと思う。Amazonでの購入に慣れた人が、楽天で商品を探したり、クレジットカードを登録したり、ポイントシステムを理解するのは、それなりの難事業である。
ブラウザのエッジ(マイクロソフトが開発したウェブブラウザ)が他のアプリを巻き込んで落ち、大迷惑を被ったので、クロームにかえてやろうというのもそうだ。無料なんだから試してみればいいじゃないと言われても、戸惑ったり、失敗したりする人も多い。何よりみんな、そんなに暇ではない。
少なくとも、毎日ころころ変えることは現実的ではない。ウェブの世界は、言うほど流動的ではないのだ。
だから、メタバースの萌芽として2000年代にセカンドライフが鳴り物入りで登場したときも、慣れの問題が影を落としたと思う。セカンドライフを楽しむためには、大半の利用者がすでに習熟を完了していたウェブやケータイ、コンシューマゲームのインタフェースとは、まったく異なる操作を覚えなければならなかった。
そうした操作に既に慣れていたか、習熟コストに糸目をつけない新しもの好きのブームで終わってしまったのである。
現代のメタバース(たとえばフォートナイト)は、インタフェースも洗練され、何より利用者の側も、様々なアクティビティを通して画面の読み取りかたや、入力デバイスの操作リテラシを上げている。
社会全体として、メタバース的なものを容れる準備が進んでいるのである。今回の潮流が、メタバースを社会のインフラにまで押し上げるような「最後の大波」になるのか、その一つ手前の波で終わってしまうかはまだ予断を許さないが、インフラになってもおかしくない水準ですでに利用者はメタバースを使いこなすことができる。あとは生活必需品として溶け込むかどうかである。
メタバースは、その市場規模や利用者数において、大手のSNSが意識せざるを得なくなるほど勢力を拡大させた。「リアルと同じ手触り」「しかし、リアルとは違う、居心地のよい空間」、「自分にとって都合のいい時間」を演出して利用者を囲い込むモデルは、SNSと直接競合する。今後、利用者の奪い合いは激化するだろう。
SNSは、既に獲得した利用者数と、端末を選ばずアクセスできる機器透過性に優れている。それに対してメタバースは、より完成されたフィルターバブルを構成して、快適な時空を提供する能力で圧倒している。
どちらが選ばれるかは、まだわからない。4章で詳述するSNS各社は、メタバースの獲得を目指して自社サービスの拡張やVRへの進出を企てており、フォートナイトをはじめとするゲームを軸に据えた勢力は、SNS的なコミュニケーション基盤の確立を急いでいる。
もともとの立脚点がSNSにある企業は、すでにリアルのビジネスやコミュニケーションに深く関わっていることもあってややリアルなデジタルツイン(疑似現実)志向、反対にゲームが出発点だった企業はリアルと距離をおき、利用者にとって都合のよい部分を抽出した、本書が定義するメタバースを志向する傾向があるが、ビジネス領域を大きく重ねていることは間違いがない。
こうしたサービスはアクティブな利用者の数が、サービスの価値と利便性に直結する。ここ数年の利用者獲得競争が、次のインフラであるメタバースの覇者を決めるだろう。勝者が1つに定まらなくても、一握りの企業がこのインフラを寡占するのは確定的である。
メタバースがインフラ化すると、人々がそこで過ごす時間は増える。今だって、私たちはSNSに多くの時間を投じているが、もっと長い時間を過ごすようになる。完成されたメタバースは、「もう一つの世界」なのであるから、そこで授業も受けられ、業務もこなせ、遊びも(ゲームはもとからある)、読書も音楽・映画の鑑賞も、仮想のペットに癒やされることも、友だちと話すことも、その中で完結する。
その1つ1つの体験が、リアルよりも少し快適で、少し都合がいいのだ。授業はインタラクティブな楽しい教材で、何度間違えても怒らないアバターが相手をしてくれ、仕事のプレゼンは仮想現実ならではの壮大なページェントとなり、もとの発想のしょぼさを覆い隠してくれるかもしれない。
読書の挿絵は立体に投影され、文字を目で追うのに疲れればシステムが読み聞かせてくれる。コミックのキャラクタは動き、話しかけてくる。映画のシーンに自分で参加することもできる。アーティストと肩を組んでデュエットすることも可能だ。
「リアルの模倣ならリアルでよい」とする声はあるが、メタバースの目的地は「リアルを超えてもう少し居心地のいい場所」にある。まだ遠い目標だが、ここ数年で各企業は「さほど長くない期間で実現可能」と踏んだのだ。だから、血で血を洗う領土紛争をしている。メタバースの世界で覇権を握った者は、少なくとも四半世紀は小国家のGDP並みの売上を得られるだろうからだ。
メタバースが実現したとき、人々はたとえばフォートナイトのなかで「集まる」ことになるだろう。これは今に始まった言い方ではない。MMORPG(大規模同時参加RPG)では、仲間が集まるとき、リアルではなくゲーム空間内に集合するのは日常的に行われていたことだ。そこでテキストチャットやボイスチャットを使っておしゃべりするのである。
ゲームに興味のない人も、コロナ禍でこの感覚はふつうのものになったと思う。2020年において、「集まる」といえばそれはZoomでミーティングを行うことだった。少なくとも、「リアルで? リモートで?」と確かめるくらいには一般化した。
MMORPGのテキストチャットやボイスチャットはそれほど高機能とは言えず、Zoomにもお金のやり取りを行うような機能はなかった。映画鑑賞くらいは複数人でできたが、画質は悪く、友だちの顔も対面の構図だった。メタバースであれば、腕を組んで同じ方向を向いて映画やパフォーマンスを見ることができる。
やがてコロナ禍は去り、集まることのコストもコロナ以前の水準まで低下するかもしれない。しかし、コロナ禍への対応で生活様式が変わったいま、仮想現実で集まるニーズは残り続けるだろう。コロナが収束しても、次の感染症に備えねばならず、環境破壊も憂慮されている現状ではフィルターバブルの問題を抜きにしても、メタバースと社会の要請の親和性は高いのである。
メタバースを構築できるプレイヤは限られている。素人が今から参入して、覇権を勝ち取れるものではない。私たちにそのチャンスはない。でも、メタバースに、SNSよりも多くの可処分時間が投じられるなら、そこには広大な無辜の市場が広がることになる。
先ほど述べた双方向教材も、プレゼンのギミックも、参加できる映画も、これから作るものなのだ。1つのテックジャイアントがすべてを作れるものではなく、そこには作り手としての私たちの参加が求められている。
今すぐにではない、簡単にでもない。しかし確実に、私たちの生活はメタバースへと軸足を移していくことになる。そのとき、ビジネスチャンスは無数にある。(続く)
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