【第45回】いかに「原爆の記憶」を伝えていくべきか?
「蝋人形論争」が問いかける原爆資料館の使命
1945年8月6日午前8時15分、アメリカ空軍の爆弾投下機「エノラ・ゲイ」が広島市中心部を目標に原子爆弾を投下した。爆心地周辺の温度は摂氏3,000~4,000度にまで達し、「熱線」の直射を受けた人々は、瞬時に消滅した。
原爆は上空約600メートルで爆発し、高圧の衝撃波による「爆風」を発生させた。その圧力は爆心地から500メートル地点で1平方メートル当たり約11トンに達する。その威力で爆心地から27キロメートル離れた建物の窓ガラスが割れるほどだった。建物は吹き飛ばされ、その下敷きになった人々は圧死した。火災による大火傷やガラスの破片で外傷を負った人々は数知れない。
さらに、原爆が通常兵器と本質的に異なるのは、核分裂による「放射線」が人体に深刻な被害を及ぼすことだ。爆発直後から地上の土や建物の破片が大量の放射線を放出し、チリやススが黒煙となって巻き上げられた後、空気中の水分と結合して「黒い雨」を降らせた。放射性物質の「恐怖の雨」である。
被爆から年月が経ってから、放射線に起因すると考えられる悪性腫瘍や原爆白内障などの「後障害」が増加した。たとえば、白血病は被爆から2~3年後に発生が急激に増加し、7~8年後にピークに達した。その影響は胎児にも及び、被爆による染色体異常などの遺伝的影響の調査は、今も続けられている。
本書の著者・志賀賢治氏は、1952年生まれ。名古屋大学法学部卒業後、広島市役所に勤務し定年退職。2013年4月~2019年3月に広島平和記念資料館館長を務めた。現在は広島大学原爆放射線医科学研究所客員教授。
さて、原爆投下直後から被爆の痕跡を留める石や瓦礫などを収集したのが、広島文理科大学で地質学を教えていた長岡省吾氏である。彼は、その後も被爆に関する写真・フィルム・新聞・書籍や犠牲者の遺品など10万点以上を収集し、それらを基に1955年に開設された原爆資料館の初代館長となった。
1973年には「被爆蝋人形」が展示された。被爆1時間後に逃げ惑う2人の婦人と幼児を想定して制作された人形である。婦人たちの上着は焼け焦げ、露出した乳房と両手の皮膚が火傷で剥けて垂れ下がっている。幼児は全身火傷で皮膚が露出し、頭の半分は毛髪がなく、全員が「幽鬼」の印象を与えた。
この蝋人形設置を推進したのは、当時の広島市長・山田節男氏である。原爆の凄惨な光景を一目でわからせるためには「真に迫ったものを見せるのが手っ取り早い」というのが彼の主張だった。それに対して、初代館長の長岡氏は、あくまで実際の被爆資料のみを展示すべきであり、「現物では物足りないから模造で強く――というのははき違えだ」と人工的な脚色に反対した。
本書で最も驚かされたのは、この「蝋人形論争」が、本質的には今も続いていることだ。原爆資料館の使命は何か、何をどのように展示すればよいのか? 被爆75年目の2020年に実施された過去最大規模の更新では、展示資料が1,000点に増やされ、映像と3D模型を駆使したビジュアル化が図られたという。「蝋人形論争」の帰結がいかに反映されているのか、ぜひ拝見したい!
本書のハイライト
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著者プロフィール
高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。