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第11回 『山月記』は日本の高校生をどうしたいのか? 石原千秋の国語教科書論|三宅香帆

日本の国語教育=道徳教育?

2022年末、なんだか今年は「国語」に関する話題が盛り上がったな、と感じるのは『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太著、文藝春秋)の流行ゆえではないだろうか。「ごんぎつねが読めない子どもたち」といったエピソードがニュースやネットでたびたび見られた。ちなみに「ごんぎつねが読めない子どもたちの話」は『ルポ 誰が国語力を殺すのか』のまえがきに登場する話題である。

とはいえ子どもたちの国語力に関する本が話題になるのは、今年に始まったことではない。若者の活字離れといった言葉も昔からよく聞く叫びである。だが一方で、では肝心の国語を教える授業の内容はこれでいいのか? 国語力を養うはずの国語の教科書に問題はないのか? という点はあまり問われることがない。

今回紹介するのは、絶版になってしまってはいるが、「そもそも国語の教科書に載っている作品は今のままで適切なのか」を問うた本である。早稲田大学で日本近代文学を研究する石原千秋の書いた『国語教科書の中の「日本」』である。

彼は本書の前にも『国語教科書の思想』(ちくま新書)という本を刊行している。これは刊行当時話題になっていたPISA(OECD生徒の学習到達度調査)の「読解力」試験への批判的な言及、そして光村図書・三省堂書店の国語教科書に掲載された題材の批評をおこなう。その結果として『国語教科書の思想』は「国語の教科書がいかに道徳教育のための題材を選んでいるか」を指摘するに至る。そしてこの本に続いて、更に詳しく国語教科書に隠された思想を分析したのが、今回紹介する『国語教科書の中の「日本」』となっている。「国語の教科書がどのような道徳倫理のもとに作品を選んでいるか」をより詳細に明らかにするのである。

今回国語教科書を改めて分析してみて、国語教科書こそが内面の共同体を創る装置だと確信した。前著では「国語教育=道徳教育」だと強調したが、道徳は内面に共有されなければ道徳として機能しないからである。そして、道徳は国民性を反映している以上、国語教育の道徳は「ニッポンの道徳」なのである。その意味で、『国語教科書の中の「日本」』)(「ニホン」と読んで下さい)というタイトルはまさしく前著を引き継ぐものである。

(『国語教科書の中の「日本」』、p.252)

ここでいう「前著」は『国語教科書の思想』のことである。本書で石原千秋は、国語の教科書こそが、日本人の「内面の共同体」をつくっているのだと指摘する。

たしかに石原の指摘を眺めてみると、教科書に掲載されている物語のテーマは、いくつかのイデオロギーに分類できてしまう。大人になってからそのラインナップを見ると、さまざまな価値観に基づく物語が載っているというよりも同じような主張の物語だらけ、という印象も受けてしまうのだ。

「羅生門」のイデオロギー

とはいえ、どんな小説や評論にしろ、イデオロギーからは逃れられない。どんな文章にしろ、どんな教育にしろ、何かしら思想を子どもたちに伝えるものにはなってしまうのではないか? 私たちは、イデオロギー抜きに国語を教えることなんて、できるのだろうか? そんな問いについて、作者は以下のように答える。

[…]私はイデオロギー教育が悪いとは考えていない。そもそも、どんな教育もイデオロギーから自由ではいられない。ただ、国語で行われる「見えない・・・・イデオロギー教育」が罪深いと言っているのだ。なぜなら、現在の「見えない・・・・道徳教育」は為政者や権力を持つ者に利用されやすい側面を持っているからだと論じたのである。

(『国語教科書の中の「日本」』、pp.75-76)

たしかに本書を読むと感じるのが、「私たちがいかに国語の教科書の思想に影響を受けているか」ということだ。

たとえば、『羅生門』『山月記』や『こころ』といった小説のあらすじを知る人は多い。文豪と呼ばれる作家群のなかで、他の小説は知らずとも、これらの小説はぼんやり知っている人は案外多いのではないか。それはほかでもなく国語の教科書に載っているからだ。どの作品も国語教科書界のビッグネームである。

だが改めて考えてみると、『羅生門』も『山月記』も『こころ』も、どの作品もテーマは「ワガママに生きてはいけない」である。自分の欲求のみに付き従い、他人のことを慮らずに生きると、ひどい目にあう。ちゃんと自分ばかりを大切にせず、自意識に縛られすぎず、他人のことを考えて生きよう。単体でそれぞれ読むと気にならないが、三作品を並べてみるとそんなメッセージが浮かび上がる。

本書によれば『羅生門』も『山月記』も『こころ』も「国語の教科書の定番教材」らしい。大人になってあらためて眺めてみると、「これは考えようによっては十代の主体性を奪うラインナップでは……!?」と思わなくもない。いや、もちろん私だって他人のことをまったく考えずに生きていいとは思っていない。しかし、それにしたって十代なんて他人に迷惑をかけたり、自分のやりたいことをまずはやってみたりするのが重要な時期なのに、『こころ』なんて「他人の好きな人に先に告白しちゃった罪悪感から自殺する」話を教育として読ませるのって、どうなんだろうな……と感じてしまう自分もいる。『こころ』が名作なのは大前提として。国語の教科書通り、私も含めて日本の大人たちは「他人の迷惑も含めて行動せよ」という規範を内面化している人はかなり多いだろう。国語の教科書の功罪というのは、たしかに存在するのかもしれない。

ちなみになぜ『羅生門』や『こころ』がそんなに人気かといえば、本書いわく「『羅生門』を外した国語の教科書が売れない」という言説はかなり強固らしい。だが売れたらそれでいいのか? 本当に教科書が載せるのがその作品ラインナップでいいのか? というツッコミを入れる本書のような存在は、意外にも重要なのかもしれない。

これからの国語教育

冒頭にも挙げたように、「国語力」の低下が叫ばれる現在。国語の教科書は一体子どもたちの国語力にどのような貢献ができるのか。それは道徳のイデオロギー教育にならない方法で、はたして可能になるのだろうか。本書を読んでいると、否が応でもそんな疑問点が湧いてくる。そのような読者の不安にも、本書はしっかりと答えている。

そこで、大学の文学理論の講義では、「チャート化してもなんでもいいから、さまざまな理論を身につけて、自分の思考が意味を持ち、説得力を持つ土俵=パラダイムをたくさん手に入れるようにしなさい」と言うことにしている。その意味で、国語教育において「テクスト論」は有効だろう。「テクスト論」はひとつの方法ではなくて、いくつかの方法を組み合わせてもかまわないというある種の自由な思考を肯定する思想だからである。これを中学校ぐらいから少しずつはじめていけば、国語は「切り捨てる科目」にならず、子供たちを傷つけたりすることも少なくなるだろう。

(『国語教科書の中の「日本」』、pp.227-228)

テクスト論とは、作者である石原千秋も採用している、小説を読む際にほかの情報を一切断って本文=テクストから読み取れるものを読み取る手法のことだ。作者も「さまざまな理論を身につけて」と述べているが、これはテクスト論で批評を行う際にはたとえば「フェミニズム批評」でテクストを読むとすると、フェミニズムの考え方をもって小説を読んでみる読み方があるからだ。つまり無防備にイデオロギーを摂取するのではなく、意図的にそのイデオロギーを見抜き、まずは何かしらのパラダイムをいったん当てはめてみてテクストを読む、そんな体験が国語の授業にも必要なのではないか、と作者は言うのである。

たしかに国語の教科書で、「読解」をじゅうぶん学べたかと聞かれると、なかなか自信が持てない人は多いのではないか。あんなにも教科書を読んで、試験問題を解いていたのに。計算の仕方や英文法を習得したと胸を張って言うことはできても、読解をしっかり学んだと誇ることはなかなか難しい。しかしその自信のなさは、国語の教科書に原因があるのかもしれない、と石原は言う。テクスト論とまでいかなくとも、もう少しさまざまな読解あるいは作文の書き方を、体系的に学ぶ方法はあるのかもしれない。ぼんやりとした国語教育に対して、本書はそんな希望の光を照らしてくれる。

読解力についてさまざま言説が叫ばれる昨今。国語の時間があまり楽しくなかった、国語の勉強内容に疑問を持っている、そんなあなたにこそ読んでほしい本なのである。


著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)ほか多数。最新刊は、『妄想古文』(河出書房新社)。

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