自分の治らない欠点の解決―僕という心理実験16 妹尾武治
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第2章 日本社会と決定論⑧―多様性と『こぶとり爺さん』
決定論で癒せるのは、過去の行動選択への後悔だけではない。自分の治らない欠点(遅刻癖や、物忘れ、過度のおっちょこちょいなど)に新しい解決のためのアプローチを提案してくれる。
『五体不満足』の著者でインフルエンサーの乙武洋匡は、自身の運命に争うでもなく、悲観するでもなく、ただただそれを受け入れてありのままに生きている。
五体不満足を「欠点」と表現してしまうのは差別的であるが、乙武本人が「不満足」と表現している以上、やはり「欠いている」のだと思う。
彼の人生に対する態度は、決定論的であると思う。運命に抗うわけではなく、悲観するわけでもない。ただ欠いた自分を「そういうもの」、決まっていたこととして受け入れる。その上で、自分が楽しいと感じる生き方を一生懸命に実行する。(彼の重複不倫の話は排除せず、しっかり考えねばならないことだが、発散を避けるため今は控える。)
意地悪なこぶ爺さんは、こぶを醜いと思い自分の運命を呪った。そのためか、コブを増やされた。優しいこぶ爺さんは、こぶをフラットに受け入れて、必然としてそれと共生した。鬼が優しいこぶ爺さんからこぶを取っても取らなくても、このおじいさんは楽しく生きられたはずだ。
ところで、千原ジュニアはこの『こぶとり爺さん』がお話として破綻していることを指摘している。鬼は優しい爺さんを気に入って、また来て欲しいからとこぶを奪って「預かる」。にもかかわらず、意地悪なこぶ爺さんには全然楽しませてくれなかったからと、罰としてその預かったこぶをくっつけてしまうのだ。ジュニアいわく。「こぶの価値がブレブレやん!」
「こぶ」つまり「ハンデや障害」はそもそも明確に悪いものでも良いものでもなく、考え方や生き方次第で、それを良いものに昇華できる。鬼のようなブレブレの価値基準こそが人間として正しい態度だということを含意したストーリーなのではないか、と私は(ジュニアもせいじも、そして誰しもが)思っている。大昔から本当のすべらない話は、語り続けられている。
人間は大なり小なりの「こぶ」を持って生きている。英語や数学が壊滅的に出来ない、運動神経が全く無い、音痴だ、実家が貧しい、親に不備がある、昔グレていた、などなど。そのこぶを悲観して生き続けていても、幸せにはなれない。
だったら、そのこぶは自分にとっての必然であり運命であり、生まれる前から、いや宇宙が始まった瞬間から私に突きつけられていた避けられない何かなのだと思ってみてはどうだろう?
加えて、人間には“欠けたもの”を補う力がある。車椅子、杖、向精神薬、義足、ペースメーカー、眼鏡、補聴器。物理的・身体的に欠けた何かがあったとしても、十分にそれを補う方法を私たちは持っている。あとは、本人の態度次第だろう。「心は欠けない。」
フラットに自分の不幸やハンデ(こぶ)を消化出来た時、あなたの人生はバッドエンドにはならない。決められた幸せな未来が待っているだけだ。あなたはそれを信じて、毎日生きれば良い。
もちろんそう信じ切るのは難しい。私だって毎日の幸・不幸の起伏に一喜一憂している。未来に幸せがある。そんなことを信じられる余裕は日々の生活には無いのかもしれない。しかし、どんなに疑っても自分で人生をやめなければ、バッドエンドは来ない。
業田良家著の漫画『自虐の詩』では傍目から見れば、不幸ばかりの主人公“幸江”が「幸や不幸はもういい。どちらにも等しく価値がある。人生には明らかに意味がある。」というセリフで人生を肯定し、物語がとじられる。もし私の言葉があなたに響かないならば、この連載の代わりに『自虐の詩』を読んでみて欲しい。私は幸江と同じ思いだ。過剰な教育は、幸や不幸ではもはや語れない何かで、とにかく価値のあることだった。
「こぶ」があることの逆説的なメリット
発達障害のような「人との違い」に名前が付けられているケースがある。つまり「こぶ」が社会から認定を受けている状態だ。これに安心する人は多い。私もアスペルガーであると自己認識することが、かなりの安堵を生んでくれるという自覚がある。「名前」は自己責任論から決定論への認識のシフトを起こしやすくしてくれる。
一方で、例えば子供の頃から人の中で自然と浮いてしまう存在で、友達が出来ず、何を考えているのかよく分からないと言われる性質の持ち主がいるとする。かつ、この人にはこれと言って、特に人よりも抜きん出ている長所(例えば勉強できるとか、芸術の才能があるとか)という部分もなく、明確に劣っている部分もない。そうなると、要はただの「平凡なのに変わった人」と周りから認識され、自らもそれを認めざるを得ないという状況が生まれる。
それは、自然と「自分の人格を責める」という方向に気持ちを走らせてしまうことになる。「自分が上手く生きられないのは自己責任だ」という社会(他者)から、そして自分自身からも追い込まれていく。
だから明確なこぶを与えられた人以上に、こぶの認定を与えられず違和感を抱えて社会の構成員を強いられ続けている人の方が、もっと辛いのかもしれない。
そして実は完全にマジョリティに属しているという自意識がある人もまた辛いはずだ。本当はこぶが無い人なんていないのに、他者と比べて自分の境遇は平均的であり極端な経験や状況(こぶ)が無い。マジョリティ側への参加条件とは、自分にはこぶが無いことを自他ともに見せ続けることである。つまり、こぶがあったとしても、それを隠しそのことの辛さを他者や運命に転嫁しない強さがあると見せ続けることだ。
その点で彼らは立派だし、自分以外の何かに責任転嫁しているように見える人を、弱者だと責める理由もよくわかる。
それでも、本当は街に出たくない人がいる。祖母にお別れが言えなかったことを悔いている人もいる。
子供を失った人、産むことを諦めた人、配偶者が逃げていった人、父がいなかったかつての子供、母がいなかったかつての子供、ガンの人、透析をしている人、精神疾患を抱えている人、高校に通えなかった人、大学で友達がいなかった人、大学に行くお金がなかった人。
寂しい人ばかり。みんな黙って、隠して、自分は平気だと、悲しい顔さえも見せずに、笑顔で胸を張って、仕事をして、母をして、妻をして、父をして。どこで泣けばいいんだろう。
自分はこんなにも泣き顔を隠しているから、安易に泣いているように見える人への怒りが込み上げる。
内側を無視するように言われて育った彼ら(とその模倣を義務付けられた彼女たち)が、会社や政治を操るようになった時、何が起こるだろう? 彼らは本当に加害者か?
『源氏物語』の光源氏のように、「すぐ泣く、しもぶくれの男性」がモテるような社会になれば、僕にもワンチャン来る(イキっていた“かーくん”も、確かにとてもカッコ良かったが)。これは多分、岡本太郎が縄文土器に見ていた夢と同じだ。生きる上で必要だった過去の罪を背負えば、大人にも“しゃかりきコロンブス”は見える。
(続く)
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