東大理Ⅲを蹴って京大へ? 天才たちは、なぜ「西」を目指すのか|『京大合格高校盛衰史』
京都伝統校の凋落①(1991~1993年)
【1991年】
1990年代前半は大学受験もバブル期を迎えた。大学、短大志望者は119万9000人、入学者は77万1000人、どの大学にも合格できなかった受験生は42万8000人となる(旺文社調べ)。団塊ジュニアが大学を受験。バブル経済絶頂期で、1人で何校も受験という状況が生まれている。優秀な受験生は競争の激化を見越してさまざまな大学を受ける。それによって難易度が低かった大学も高くなって、入りにくくなる現象がおこった。週刊誌はこう伝えた。「日東駒専は偏差値で旧帝大、北大・東北大・九大に並んだ」(「週刊現代」90年3月10日号)。日東駒専は日本大、東洋大、駒澤大、専修大を指す。
京都大がこれら「旧帝大」と同列に見られることはなかったが、私立の難関校とは分が悪い。代々木ゼミナールの調査として、早稲田大政経学部と京都大法学部の併願で京都大不合格、早稲田大合格が34人、その逆は22人だった。早稲田大には東京大のすべり止め受験組が多いため、京都大はそこからはじかれた形だ。京都大と関関同立で京都大不合格、「関関同立」(関西大、関西学院大、同志社大、立命館大)合格というケースもある。ごくまれに「産近甲龍」(京都産業大、近畿大、甲南大、龍谷大)不合格、京都大合格というケースもあった。難関国立大学の受験生が、本来すべり止めの対象としなかった私立を受けたからだ。志願者増→不安→受験校増加がもたらした現象である。これらは「金あまり」の語に象徴されるバブルの時代が生み出したと言えよう。
前年にTBS系ドラマ『予備校ブギ』が放映される。予備校生を緒形直人、的場浩司、織田裕二、講師を田中美佐子が演じた。同じころ、漫画家の原秀則が「少年ビッグコミック」などに予備校を舞台にした『冬物語』を連載していた。「金ピカ先生」と言われた英語の佐藤忠志氏など人気講師がメディアで脚光を浴びている。暗いイメージを抱かれていた予備校がはなやかな場として注目され市民権を得ていた。大手予備校にとっても、バブル絶頂期だった。
【1992年】
工学部が前期947人、後期113人と、前期偏重型入試に変更した。東京大など難関大では前後期の定員比率が9対1または8対2となっている。後期の門戸を広げていた京都大は、これらの大学のすべり止めになってしまう。大学としては本意ではない。京都大を第一志望とする受験生を受け入れたい、という思いがあった。また、こんな事情もあった。大学新聞が伝える。
得点分布の内容は省かれているが、ネガティブに捉えているところからみると、後期入学者の成績が良くない、と理解できる。
上位校は私立が占めるようになった。なかでもトップ争いでは洛南、洛星、甲陽学院、灘、東大寺学園など京都、兵庫、奈良の伝統校がしのぎを削っている。ここに大阪の私立が入ろうとしていた。大阪星光学院、清風南海、高槻などだ。大阪星光学院は1990年28人→91年47人→92年59人と右肩上がりを示した。
女子入学者が初めて400人を超えた。女子校の上位は神戸女学院13人、四天王寺8人、ノートルダム清心6人、桜蔭3人となっている。
【1993年】
総合人間学部が設置された。定員は130人(前期110人、後期20人)。センター試験で550点以上が合格した。同学部合格者の出身高校ランキングは、①奈良4人、智辯学園和歌山4人、③旭丘3人、洛星3人、洛南3人、天王寺3人となっている。
後期試験で理学部合格の男子(高知・土佐塾)は、前期試験で東京大理三に合格したが、東京大には入学手続きをとらなかった。こう話している。
彼は中学受験で灘、愛光に受かったが土佐塾へ進む。高校2年、3年の時、数学オリンピックに出場。3年で銀賞を獲得した。これが機になったようだ。「スウェーデンの大会で一番簡単な問題をミスした時は悔しかった。僕にとって、数学オリンピックでの体験は、将来を考える決め手のひとつになっていると思います」(「螢雪時代」93年7月号)。
薬学部合格の男子(京都・北嵯峨)はこんな話をしている。
1990年代になっても京都で公立高校離れが進むなか、生徒思いで熱心な教員がいるのは救われる。