美学研究者が、フェミニズムを使ってアートを読み解いてみた|村上由鶴
アートとフェミニズムは
よく見えない
アートとフェミニズム。どちらか一方には興味があり、よく知っている、という人もいるでしょうし、この2つの単語を見ただけでどんな本なのかピンと来る人もいるでしょう。
でも、おそらく世の中でいちばん多いのは「どっちもよくわからない」人ではないかと思います。
とはいえ、アートもフェミニズムも完全に未知の存在というわけでもないはずです。「なんとなくこういうものだろう」という直感や、個人的な経験から、なんらかの印象がぼんやり立ち上がってくるのではないでしょうか。
アートとは美しいものだ。フェミニズムとは女性に優しくすることだ。アーティストはたいてい変人だ。フェミニストはいつも怒ってばかりいる女たちだ。とにかくどちらも難しそう。感情的で怖い。奥が深そうだけど、同時に窮屈そうで、「界隈」の「お仲間」だけが熱を上げているように見える……。これらは、アートやフェミニズムに関する「印象」であり、よくある間違いが含まれていて、真実ではありません。
と同時に、必ずしも、すべて間違っているとも言い切れません。
例えば、「現代アート」という言葉は意味不明なものの代名詞となっていますし、フェミニズムは、良くも悪くも「⼀⼈⼀派」と⾔われるほどに多様化し、フェミニストを⾃称する⼈の間でも常に論争が絶えません。
それどころか、いま、フェミニズムに対してはバックラッシュと呼ばれる強い反発が盛り上がってきています。アートも、広く社会に受け入れられているように見えますが、表現に対する規制や公金を使うことへのバッシングなども、特に2019年のあいちトリエンナーレ以降に目立つようになりました。これらは、まさにアートとフェミニズムの理解をめぐる断絶を示しています。
つまりアートとフェミニズムは少なくない人びとから、よく見えていないのです。「よく見えていない」とは、見ていて良い気がしない、というのもありますが、どちらかと言うと、そこにあることはわかっているのだけど、見通しが悪くてその実態がよく見えないということです。
いわば、アートとフェミニズムは、その様態がつかみにくく(それによってときどき嫌われている)⼊⾨したくてもしにくい「みんなのものではないもの」なのです。
自分や仲間たちだけの世界に閉じこもり、仲間ではない人やほかのトピックに目を向けない状態になってしまうことを「たこつぼ化」と言いますが、アートもフェミニズムも、まさに「奥が深くて窮屈そう」な、たこつぼ的なものと見られています。バッシングやバックラッシュ、そして内部でのハラスメントも、つぼの中と外の世界との関係が上手に構築できていない状況をあらわしていると考えることができます。
アートとフェミニズムが
共有しているもの
さて、そうすると現状、本書のタイトルである「アートとフェミニズムは誰のもの?」という問いへの答えは、アートもフェミニズムも、「界隈の人たちだけのもの」ということになってしまいます。
でも、実は、アートとフェミニズムは、どちらも本当は「みんなのもの」になろうとするエネルギーを持っています。「みんなのものになろうとするエネルギー」とは、既存の権威を疑ったり解体したり、垣根を取り払ったりする方向に進んだり広がったりするパワーです。界隈の人たちだけのものにとどまらない、はみ出しの力とも言えます。アートとフェミニズムは、もちろん別々のものですが、ここには共有しているヴィジョンがあります。
人類最古の絵画とされる洞窟絵画を含めれば4万年以上の歴史があるアートは、はじめはおそらく「お絵かき」や「ものづくり」といったヒトの素朴な欲求や必要からスタートしたと考えられています。が、その後、職業として確立してからは教会や貴族など、時の権力者のためのものとされた時代が長く続き、その後、権力から離れるようにして民衆へと広がっていきました(ですから「宮廷画家」という称号は、現代のアートの世界では蔑称として使われます)。
アーティストたちは、前の時代に讃えられ権威化した手法やアイデアを刷新する表現を発明し、またその表現を古く見せるような別の新たな表現を発明することで美術史を積み重ねてきました。作品を作るアーティストとして歴史に残っているのは白人男性がほとんどですが、徐々に、有色人種や女性、障害のある人がアーティストになること、そして成功することの障壁も取り除かれようとしています。主義・主張や流派などの対立があっても、「なるべく多くの人が参加できたほうがいいよね」「なるべくいろいろな人が参加できたほうがいいよね」、つまり「アートはみんなのものであったほうがいいよね」という考え方が、「前提」かつ「目標」として広く共有されてきたのです。このような変化の原動力こそが、アートが持っている「みんなのもの」になろうとするエネルギーです。
運動としてのフェミニズムの歴史は、だいたい十八世紀の後半、女性の政治参加を求めて始まりました。アートの歴史に比べれば最近です。はじめの頃には、欧米の高学歴の白人女性だけの出世や社会的地位の向上を目指していたものだった時期がありましたが、いまでは有色人種の女性にも、障害のある人にも、子どもにも、そして男性にも開かれています。学問として成立してからは、フェミニズム歴史学とかフェミニズム地理学とか、あるいは映画とフェミニズム、ファッションとフェミニズム……といったように、フェミニズム単体で独立して存在するだけではなく、さまざまなトピックに結びついて広く発展しています。
このように、本来的には他者とのつながりや世界への広がりを持ち、自浄作用を働かせたり、警告を発したり、時には結びついた別の分野の点検のために使われてきたのがアートとフェミニズムです。ですから、使い方によっては、というか本来的には、「界隈」や「お仲間」のたこつぼ状態を脱するヒントをくれるものなのです。アートとフェミニズムは、いまは「みんなのもの」ではないのだけれども、「みんなのもの」になろうとするエネルギーをいまも持っています。
そこで、本書では、アートとフェミニズムが誰のものなのかを点検し、それを「みんなのもの」に軌道修正するために、フェミニズムを使ってアートを読み解いていきます。
まずは、たこつぼ化しているアートとフェミニズムの中の様子をお伝えできればと思います。第1章ではアートというやつが、なぜ「わかりにくい」のかという問いから始めます。どうして良いとされるのか。なぜこんなに値段が高いのか。そんなことを考えてみます。次に第2章では、「フェミニズム」について知っていきましょう。ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの」という考え方を基盤に、アートを読み解くために使えるフェミニズムの基本的な知識をおさえます。第3章ではフェミニズムを使ってアートを読み解く方法を、そして、第4章ではアートの方法を使ってフェミニズムを実践した作品などをご紹介します。