誰が、なぜ、どのように「小学校受験」を選択しているのか…?? 教育学者が当事者の声を含めリアルに報告|望月由起
はじめに
子どものために「よい教育環境」といわれる場があれば、多くの親はそれを我が子にも与えたいと願うだろう。現代の日本社会では、学歴社会や受験競争の弊害がしばしば指摘される一方で、子どもを育てる当事者目線でみれば、我が子の将来、学力、受験、通塾などは依然として大きな関心事であり、教育費の負担のみならず、生活全般に影響を及ぼしている家庭も少なくない。
近代以降の日本社会は、「業績主義(能力や努力の結果に基づいて、社会的地位や処遇を決定すべきという考え方)」と「職業選択の自由」を備えた社会といわれている。こうした社会において、子どもたちは「(生まれた時には)何者でもないが、(将来的には)何者にでもなりうる者」であり、多くの子どもたちは「学校」という場を通じて「何者かになっていく」と考えられてきた。
しかし市場経済の力が強まり、多元的な社会へと発展していくにつれて、「子どもの進路選択の始点は、親の社会的地位である」といった指摘が目立ちはじめた。さらに2000年代以降になると、親の経済力や教育願望が子どもの進路選択や教育達成に結び付くような「ペアレントクラシー社会」として日本社会を捉えるようになり、それがさらなる階層化、格差社会化へとつながることが懸念されている。
「親ガチャ」という言葉、皆さんは耳にしたことがあるだろうか。若者の間で流行語となり、2021年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選ばれ、大辞泉が選ぶ新語大賞の大賞も受賞した用語である。硬貨を入れて「ガチャガチャ」とハンドルを回すと、カプセルに入った品物をランダムに得ることができる自動販売機の通称に由来する言葉である。
この自動販売機では、自分が望む品物をピンポイントで「選んで」購入するのではなく、どのような品物を手にするかは購入者自身でも「選ぶことができない」。
つまり「親ガチャ」とは、生まれた時の環境や親により自身の人生が決まるといった人生観(=自身の進路の方向性やその可能性が親によって左右されるような社会において、親を「選ぶことができない」存在とみなす考え)をもち、その「アタリ」「ハズレ」を自嘲的に表現する際に用いられているのだろう。
1990年代より、新自由主義的な政策が日本においても広がりをみせている。これは、個人の選択と市場原理を重視する政治スタンスである。新自由主義社会では、多様な選択肢が存在し、選択の自由が拡大する一方で、その選択には自己責任が伴うことになる。
これは、教育においても例外ではない。1990年代後半より本格化した規制緩和を背景に、学校選択制を導入した地域では、それまで制約されていた公立小学校や公立中学校の選択を可能とした。
2000年代以降の教育現場には競争原理や成果主義が広がり、無条件ではないにせよ、教育や学校に関する選択の自由が拡大するとともに、その選択には家庭の責任が伴う状況にある。
こうした状況の中で、我が子が関わる教育や学校への関心や願望を強め、その成果に目を光らせる親も増えている。
教育社会学者の志水宏吉によれば、臨時教育審議会の答申はその後の教育政策や学校・保護者関係に大きな影響を及ぼし、「親と学校が肩を組んで子どもを引っ張り上げる形から、親と子どものペアが学校を品定めする形へ」と変化したという(『ペアレントクラシー――「親格差時代」の衝撃』朝日新聞出版)。
また教育社会学者の耳塚寛明は「小学校学力格差に挑む―だれが学力を獲得するのか―」と題した論文にて、親の富(学校外教育費支出、世帯所得)と願望(学歴期待)が子どもの学力を規定しているという意味で、日本社会もまたペアレントクラシーへの道を歩んでいると推測している。
実際に、我が子が通う中学校を「選択する」という意識をもち、中学受験に挑む家庭も地域によっては珍しくないが、近年、首都圏や関西圏といった大都市圏を中心に、我が子が通う小学校を「選択する」という意識をもつ家庭も、一部の伝統的な富裕層の家庭に限らずにみられるようになった。
通学する小学校を「選択する」際には、希望すれば入学できる学校(募集人数枠を超えた場合には「抽選」を行う場合も含めて)もあれば、考査や面接などの選考を課す(「受験(*1)」が必要な)学校もある。後者の場合には、その学校の選考に合格するための準備も必要となる。
準備をしてまで小学校を「受験する」家庭とは、どのような家庭なのだろうか。どのような理由で、どのように「受験する」のだろうか。受験をしない家庭とは、子育てに関する行動や感情、教育観・進路観・社会観などはどのように違うのだろうか。
その学校の選考に合格し、子どもたちが「通学する」小学校には、どのような教育環境があり、そこでどのような活動をしているのだろうか。親や子どもたち自身は、そこに実際に身を置き、どのような思いを抱いているのだろうか。
教育学者の広田照幸は「教育する家族」という概念を示し、高度経済成長期の共同体の解体と家業継承の終焉により、家族にとっての教育の意味は決定的に変わり、子どもの教育に関する最終的な責任を家族が引き受けるようになった(引き受けざるをえなくなった)と指摘している(『日本人のしつけは衰退したか──「教育する家族」のゆくえ』講談社)。
前出の志水宏吉は、大都市圏や地方の主要都市に主に居住し、子どもにとって最適と思われる教育を選び取ろうとする、いわゆる「教育に熱心」な人々を「教育を選ぶ人(*2)」と称している(『二極化する学校──公立校の「格差」に向き合う』亜紀書房)。
本書では、「教育する家族」が我が子の「教育を選ぶ」様相について、小学校を「選択する」「受験する」「通学する」ことを通して、親の願い、特に、求める教育環境に目を向けながら、リアリティをもって描くことを試みる。
まず第1章では、本書に関わりが深い学校の社会的機能を紹介した上で、受験が低年齢化している現状について示し、それに対する懸念や不安への指摘を取り上げながら、小学校受験へのまなざしを社会全体としてもつことの重要性を述べる。第2章以降への導入といえるものであり、本書の本題に入る上での序章でもある。
第2章では、国立・私立・公立小学校を「選択する」ことに着目する。ディスクロージャー(情報開示)という概念が乏しく、個々の小学校の正確な情報は限られているため、各小学校の学校案内や公式ホームページだけでなく、学校基本調査、文部(科学)統計要覧、学校総覧なども分析対象としながら、「選択する」ことの背景について考えてみたい。
第3章から第5章では、小学校を「受験する」ことに着目する。本書では、「受験する」ことだけでなく、その後に小学校に「通学する」ことにも目を向けていくため、ここでは2010年前後に小学校受験に臨んだ家庭に対する調査を取り上げる。当時の小学校受験について実証的に示す調査結果であり、最新の調査結果(*3)との比較をする上でも、本書にて取り上げる意味は大きいと考えている。
第6章および第7章では、小学校に「通学する」ことに着目する。小学校受験を経て入学した国立・私立小学校の学校内外の教育環境などについて、親や子どもたち自身のリアルな声を通して考えてみたい。
本書の真意は、小学校受験に臨む家庭を頭ごなしに批判したり、面白おかしく揶揄することではなく、また、いたずらに称賛したり推奨することでもない。現代の日本社会において、小学校を「受験する」ことについて、「選択する」「通学する」ことも含めて実証的にリアリティをもって捉えることにより、イメージに依拠した固定観念に基づく議論を少しでも回避することが、本書の真意である。
なお本書は、小学校受験を検討している方、実際に受験に取り組んでいる方、かつて受験に取り組んだ方なども読者として想定しているため、できるだけ学術的な文言を用いずに、調査結果も比較的容易に理解できるように示したつもりである。
そのため、研究者や有識者からみれば少々物足りないと感じるかもしれないがご容赦願いたい。多様な読者の方々に、多様なスタンスで、本書で取り上げた問題について、ともに考えていただければ幸いである。
・・・・・・・・・・・・・・・
小学校受験
――現代日本の「教育する家族」
目 次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、光文社新書『小学校受験――現代日本の「教育する家族」』(望月由起著)より一部を抜粋して公開しました。
光文社新書『小学校受験――現代日本の「教育する家族」』(望月由起著)は、全国の書店、オンライン書店にて好評発売中です。電子版もあります。
・・・・・・・・・・