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12章 コンテンツ論/山口周著『グーグルに勝つ広告モデル』全文公開【その11】

12章 コンテンツ論

ここまでメディアビジネスの本質的な構造と、各マスメディアに向けた今後の変革方向性を検討してきました。

メディアが新しいプラットフォームに生まれ変わることになると、そこに乗ってくるコンテンツにも新しい要求が突きつけられます。この章では、コンテンツに関する検討を行いたいと思います。

*クリエイターに価値の対価が支払われない国

マスメディアの変革に適合する新しいクリエイターへの要求が高まるなか、大きな懸念として、クリエイターの低待遇の問題があります。これはマスメディアに限らず日本のコンテンツ産業全体が抱えている問題で、クリエイターに対する労働分配率が低すぎるのです。

関西テレビ放送による「発掘! あるある大事典Ⅱ」の捏造事件では、番組スポンサー料が関係者にどのように配分されたかの詳細なレポートが公表されています。

それによると、番組一回あたりのスポンサー料である1億円は、次のように分配されています。

電通 1500万円

関テレ電波料 500万円

地方局電波料 5000万円

関テレ制作費 2340万円

制作会社 860万円

ご覧のとおり、番組一回あたりのスポンサー料である1億円のうち、実際の制作を行った下請け会社に分配された金額は、1割にも満たないのです。

ちなみに電波料というと、電波を送るためにかかる原価のように聞こえるかもしれませんが、総務省が徴収している電波料は、すべてのテレビ局を合わせても年間で40億円程度でしかなく、地方局では10万円以下ですから、ほとんど原価はかかっていないといって差し支えないでしょう。

ここで最大の分配比率を享受している地方局は、流す番組に加えて電波利用料としてのお金までキー局からもらえるという、世界で一番美味しい商売をやっているのですが、対照的に実際にコンテンツを作っている制作会社は、ひどい労働条件のなか、分配率も低い構造で何とかやっているという構図が、この数字から見えてきます。

実はこれは、テレビに限らず日本のコンテンツ産業全般にいえる問題なのです。

例えば、かつて映画の興行収入はざっくりいえば半分を映画館が取り、残りを配給会社と制作会社が分けるという形態になっていて、クリエイターへの分配率は2~3割でした。出版ではさらにひどくて、著者への印税は1割でしかありません。

クリエイティブはそもそもリスキーな仕事です。消耗も激しいですし、食えるようになるかどうかわからない。食えるようになったとしてもそれが安定するかどうかわからない。

そういうリスキーな生業であるのに、アップサイドのチャンスがほとんどない、となると、優秀な頭脳をこの仕事に吸引するのは難しい相談です。

確かに、テレビ局や出版社等の仲介者は、設備投資やマーケティング費用を負担したり、在庫リスクを抱えたりするので、この数字をもって分配率が高すぎるという非難をすることはフェアではないかもしれません。

ただ問題は、インターネットの普及によってコンテンツ流通のボトルネックが解消されると、よりハイリスク・ハイリターンを求めるクリエイターが、アップサイドリスクが期待できないマスメディアから流出していく恐れがあるということです。

そして、どの業界でもそうだと思いますが、往々にしてハイリスク・ハイリターンを厭わない人材ほど、優秀であることが多いのです。

このように考えていくと、今のテレビ業界は、積極的にインターネットメディアに代表される新しいプラットフォームにクリエイティブ能力を提供するという逆転の発想をすべきなのかもしれません。

勃興してくるインターネットメディアが既存のマスメディア業界のバリューチェーンからクリエイティブ能力を調達できないとなると、彼らは自家調達を考えざるを得ない状況になるわけですが、その状況は間違いなく彼らの中長期的な競争力を向上させることになるからです。

これは、テレビの黎明期に映画業界がテレビに対して映画や所属俳優の供給を断るカルテルを結んだことで、かえってテレビ業界のコンテンツ制作能力を鍛えてしまったのと同じことです。

*グーグルの影響

このような文脈で考えていくと、もう一つ、今後影響を検討しておく必要があると思うのが、グーグルについてです。

筆者は、グーグルの目論む「情報を整理しつくす」ということが成 就した場合、新しいコンテンツへの需要が激減してしまう可能性がある、と考えています。

すでに述べたように、日々生産されるコンテンツのほとんどは、多くの人に未接触のままお蔵入りになります。そして、人類がすでに持っているコンテンツのストックは膨大で、個人が一生かけて消費できる量をはるかに凌駕しています。極端な言い方ですが、単純に量の問題だけを考えれば、すでにコンテンツは飽和状態にあるので、新しいコンテンツは必要ないともいえます。

そういった状況が現実に起こっているのが、アートの世界でしょう。例えば、現代音楽はごく少数のマニア以外にはほとんど聴かれていませんが、これはクラシック音楽にすでに膨大なコンテンツのストックがあるからです。

新しいコンテンツが生産されるのは、現代のメディアプラットフォームの仕組みがそれを求めるからであって、もしグーグルが過去のコンテンツストックから、常に最適なものを人々に提供できるようになれば、新しいコンテンツに対する需要は激減してしまう可能性があります。

遅かれ早かれ、または程度問題はあれ、過去のコンテンツのストックに対するアクセスが改善していくことが高い蓋然性として予測されるのであれば、人々のコンテンツに対する嗜好やクリエイターに求められる資質も変質していくのかもしれません。

その方向は、大きく二点あると考えています。

*万人ウケするコンテンツより少数に刺さるコンテンツを

最初に指摘したいのが、端的にいえば、10人が接触して8人が「まあいいんじゃないか」というコンテンツが求められていた従来から、10人のうち2人が「最高だ」と絶賛するけど、8人は「クソだ」とこき下ろすコンテンツが、今後は求められる、ということです。

チャンネル数が限られているテレビから、間口が無限に拡大できるネットにコンテンツの流通経路がシフトすれば、万人ウケするコンテンツは尖ったコンテンツに総当たり戦で全部負けるから、ということです。

東京大学のMOT(技術経営)教育を担当されている宮田秀明先生は、アメリカズカップの日本艇のテクニカルディレクターを務められましたが、彼の話で非常に興味深かったのが「思い切り振った設計の艇でないと世界一は狙えない」というものでした。

アメリカズカップが行われる場所の風向き、風速、波高、海流といった気象要件は日々変化していきます。艇の設計では、これらの条件の変化に対して「どの条件でもそこそこ速い」艇を作るという誘引が常に働きますが、そういう設計思想でできた艇は、ある程度のところまでは勝ち進んでも、ある気象条件に極端に最適化した設計の艇に、いずれ敗れることになります。

この例になぞらえていえば「どんな気象条件でもそこそこ速い」設計のコンテンツの代表は、テレビ番組でしょう。よく「テレビ番組が低俗だ」「視聴率至上主義だ」といった非難をする方がいますが、テレビ局のスタッフも好きで低俗な番組を作っているわけではありません。

問題は、彼らの作るコンテンツを評価する軸が「見た人の数=視聴率」しかないということなのです。とにかく見た人の数を増やさなければならないから「誰もが好むもの」に収斂してしまう。そして、その競争を皆が同じようにする結果、統計的にいえば「好みの中央値」に近いところでひしめき合ってしまう、という構図です。

余談ですが、これはマーケティングの世界で起きていることとまったく同じで、もしかしたら日本人というのは、戦略的に中央値から外したところに自分のポジションを置く、というのが苦手なのかもしれません。

*市場の文脈の中で生まれる、新しいコンテンツのあり方

もう一つ指摘しておきたいのが、従来のテレビ番組やDVDといったプラットフォームに乗るコンテンツが新しい枠組みに乗るのではなく、むしろその逆が起こるのではないか、という点です。

『硝子の塔』という映画があります。シャロン・ストーン演じるキャリアウーマンが高層マンションに引っ越してきます。一見、ただの高級マンションなのですが、実は居室内のバスルームやベッドルーム等、ありとあらゆる場所に隠しカメラが仕掛けられていて、マンションの若きオーナーが、無数のモニターが並ぶ部屋で次々にカメラを切り替えながら自分のマンションに居住する住民たちの日々の暮らしを盗み見て楽しんでいる、というストーリーです。

倫理的には、いささか問題のあるストーリーですが、このマンションオーナーにとっては、他のどんなコンテンツよりもこのモニター映像は刺激的だったろうと思われます。

この映画を見ると「コンテンツ」というのが、必ずしもクリエイターの手によって生み出される必要はない、ということがわかります。

新しいメディアプラットフォームが生まれると、そこには新しいコンテンツのあり様が生まれるはずです。

例えば、地図というのは誰もキラーコンテンツになるとは思っていませんでしたが、現在ネット上で強力な誘引力を持っています。

そうやって自由に考えてみると、様々なコンテンツのあり様が想定されます。

例えば、住所を入力すると現地の様子や真上の空模様が見られるというようなサービス、レストラン名を入力すると店内の混み具合が見られるといったサービスも、強力なコンテンツになりうるでしょう。

番組枠がなくなることで編集という作業もなくなりますから、ナショナルジオグラフィックが作成している探検やフィールドワークのドキュメントなどは、ひたすら取材陣に同行して、日々の営為をリアルタイムで流していく、というようなコンテンツになるのかもしれません。

非常に投げやりな言い方に聞こえるかもしれませんが、今後メディアプラットフォームが進化していったとき、そこに乗る新しいコンテンツのあり方は、結局そのときになってみないとわからないと思います。

1990年代の半ば、インターネットというプラットフォームが進化・普及した黎明期に、識者が予測していたようなコンテンツやサービスは、結局ほとんど生き残っていません。

一方、今隆盛している動画サイトに代表されるようなコンテンツのあり様は、市場の文脈の中で生み出されたものです。カギになるのは、市場の文脈を刺激するようなプラットフォームを作れるかどうかなのです。市場の文脈が刺激されれば、そこに乗るコンテンツは自然発生的に生まれてくるはずです。

これは実はインターネットに限ったことではなく、メディアの歴史をひもといてみれば「プラットフォームが先に作られて、市場の文脈の中でコンテンツが生まれる」という流れであることがわかります。

例えば、蓄音機を発明した(最近では事実かどうか怪しいといわれていますが)エジソンは、蓄音機の主な用途として遺言の記録を想定していただけで、音楽を聴くという利用法は想定していませんでした。レコードというプラットフォームができ上がったあとに、市場の文脈の中でそこに音楽を乗せて流通させるというコンテンツのアイデアが生まれたのです。

テレビ放送が始まった当初、ニュースを流す際にどういう映像にしたらよいか見当がつかず、ラジオで原稿を読み上げるアナウンサーをそのまま映像で撮って流した、というエピソードも、コンテンツが先にあってそれをメディアプラットフォームに乗せるのではなく、新しいメディアプラットフォームが新しいコンテンツのあり様を形成していくのだということを、よく理解させてくれます。

そうなってくると、クリエイターという言葉の定義も変更を迫られることになるのかもしれません。

今現在、我々が持つクリエイターのイメージは、印刷物やテレビCMや番組といった、ある規定の枠組みの中で、ルールにしたがってコンテンツを作る職人、というものです。

しかし今後は、メディアの枠組みそのものを作っていく、そしてその枠組みが市場の文脈の中でどのような利用のされ方をするか素早くセンスして、枠組みとコンテンツの両方を進化させていく、といった能力が、クリエイターには求められるようになるのではないでしょうか。

*戦略能力としてのタイミングの読み

そう考えていくと、技術とコンテンツの組み合わせをどういうタイミングでリリースしていくのか、というのが、非常に重要な論点になってきます。

旧世界の戦略論では、一度失敗したビジネスに関してはその原因を分析して同じ轍を踏まないようにする、というのが対応策でした。しかし、ムーアの法則(半導体の集積度が18カ月で倍になるという経験則)が成立する現在では、事業の成否を分ける要素として、タイミングの重要性が高まってきます。

つまり、失敗の理由は「早すぎた」か「遅すぎた」かのどちらかで、早すぎた場合は次にいつ出すか、が問題になる、ということです。

YouTubeを見ていると、画面下にバーが現れて、データのダウンロード量とコンテンツ視聴量が表示されます。通信状況が良くないと、その両者のスピードはドッコイドッコイになって、場合によっては視聴スピードがダウンロードスピードを追い越して、画面が止まってしまいます。

筆者には、この両者の表示が、コンテンツを求める消費者の欲求がどんどん先鋭化していくスピードと、それを実現する技術・インフラの開発がどんどん進んでいくスピードが、丁々発止しているメタファーに見えます。

YouTubeの事業モデルはそれほど複雑なものではありませんが、多くの人間がこれを楽しむためには次の必要条件が満たされる必要があります。

①扱いやすくて価格も手ごろなハンディカムなどの撮影機材が普及すること。

②それらの映像を取り込むためのPCが普及していること。

③映像をPCに取り込めるプロトコル・圧縮技術・変換技術が普及すること。

④変換された映像をアップロードするのに十分な速度の回線が普及すること。

⑤アップロードされた映像を視聴するのに十分な速度の回線が普及すること。

⑥アップロードされた映像を視聴するためのデバイスが普及すること。

素人が映像を撮ってそれをサーバーにアップし、そのアップされた画像を今度は多くの人が見る。このプロセスのステップごとに越えなければならないハードルがあり、何とかその一個一個がクリアできそうだという段階になって、はじめて成立する事業だということです。

問題になるのは、このステップごとのハードルクリアが、いつ足並みをそろえるか、というタイミングです。

似たようなビジネスモデルを考えていた人は過去にもたくさんいただろうけれども、彼らのビジネスが大きな規模にならなかったのは、前記のステップごとの条件がそろわなかったから(か、さらに加えて経営がまずかったから)と考えられます。

これらのうちの一つでも欠けてしまうと、デファクトを取るためのマジョリティは獲得できません。一方ずっと待っていると誰かにデファクトを持っていかれてしまいます。

したがって、何らかの新しいサービスを提供しようと考えているプレイヤーは、ビジネスモデルを成立させるための諸条件を洗い出した上で、何がボトルネックになって現状ではテイクオフしていないのか、そのボトルネックはいつごろ解消できそうなのか、を見きわめて、ボトルネックが解消し次第ファーストエントリーを取ることが重要です。

これは20世紀型経営戦略の考え方と、非常に異なるポイントです。

*ファーストエントリーである必要はない

20世紀型経営戦略の世界で勝ちを取りにいくときの基本戦略は、「ファーストエントリー」を狙え、というものです。

このコンセプトの説得力を増すためによく使われるのが「最初に大西洋無着陸横断を実現したのはリンドバーグだが二番目に横断した人は誰も知らない」という話です。

ちなみにこれは説明そのものが間違っていて、最初に大西洋無着陸横断飛行をしたのはジョン・オルコットとアーサー・ブラウンなのですが……。

それはさておき、市場の一番乗りがきわめて有利とされる20世紀型経営戦略の考え方では説明できない事象が、非常に多く出てきているのです。

例えばグーグルは、検索エンジンとしては後発です。彼らの急成長の礎となっている検索ワード広告サービスについても、彼らが考案したのではなく先行者がいました。しかし彼らは大成功した。

これは、これまでの経営戦略の基本ルールではなかなか説明が難しい。つまるところ技術の成熟度合いの見切りと、それらの組み合わせによるサービス化のタイミングが非常に良かった、ということで、要は戦略の問題になると思います。

実際、グーグルの創業者のセルゲイ・ブリンは、ことあるごとにグーグル成功の理由を「運がよかったから」と説明しています。これはさすがに謙遜しすぎだと思いますが、技術力よりもリリースタイミングの見切りこそ、21世紀の経営戦略の要諦であることを示唆する、深い説明だと筆者は思います。

潜在的に大きな需要がありながら、誰もサービス化・商品化していなかったものが、あるきっかけで爆発的に普及したというケースでは、このような見きわめをうまくやっていることがよく見られます。

例えばウォークマンは、録音機能がなかったため、すでにテープレコーダーを持っている人にしか買ってもらえない、という制約を持っていました。したがって、テープレコーダーの普及率が低い状況で発売していたら、まったく売れない商品だったわけです。

ウォークマンの発売時に行った受容性調査では、成功を示唆する結果は得られなかった、ということですが、すでにテープレコーダーを保有している人に顧客が限定されるのであれば、当然でしょう。

一方、テープレコーダーの普及率が高まってしばらくすれば「家で録音したテープを屋外で聴きたい」という市場の欲求が起こることは、これまた当然ながら各メーカーが気づいたことでしょう。

これはiPodが、顧客として「PCを保有している」ことと「インターネット接続環境にある」ことを条件としているのと同じコトで、まさに「タイミングの見切り」が命なわけです。

最終回13章に続きます)



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