見出し画像

第四章 バファローズ継承――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則

12月15日刊行の新刊『オリックスはなぜ優勝できたのか』第四章の冒頭を公開します。以下、本書の概要です(光文社三宅)。
ーーー
下馬評を大きく覆し、2年連続最下位からのペナント制覇は、いかに成し遂げられたのか? 逆に、なぜかくも長き暗黒時代が続いたのか? 黄金期も低迷期も見てきた元番記者が豊富な取材で綴る。

1994年の仰木彬監督就任まで遡り、イチロー、がんばろうKOBE、96年日本一、契約金0円選手、球界再編騒動、球団合併、仰木監督の死、暗黒期、2014年の2厘差の2位、スカウト革命、キャンプ地移転、育成強化、そして21年の優勝までを圧倒的な筆致で描く。

主な取材対象者は、梨田昌孝、岡田彰布、藤井康雄、森脇浩司、山﨑武司、
北川博敏、後藤光尊、近藤一樹、坂口智隆、伏見寅威、瀬戸山隆三、加藤康幸、牧田勝吾、水谷哲也(横浜隼人高監督)、望月俊治(駿河総合高監督)、根鈴雄次など。

12月15日発売! 現在予約受付中です。

以下、すべての抜粋記事を読めるマガジンです。

「もう、全員でライブドアに行こうよ」

第四章 バファローズ継承

2004年(平成16年)。
プロ野球界に「球界再編」という〝大嵐〟が吹き荒れた年だった。
その起点は、「近鉄球団 オリックスに譲渡交渉」という、日本経済新聞が6月13日付の1面で報じたビッグニュースだった。
〝日経発〟というのが、この問題の肝要なポイントになる。
当時、私はサンケイスポーツでオリックスの番記者を務めていたのだが、実は「合併」という噂を耳にしたのは、開幕直後の頃だった。
超ド級の1面ネタに、手を掛けてはいたのだ。ただ、新聞記者として「聞いてはいた、でも書けなかった」というのは、自慢にも何にもならない。
むしろ自分の取材力のなさ、ネットワークの貧弱さが露呈する、負の歴史でもある。
時が経ち、こんな裏舞台での話を教えてくれたのは、かつての近鉄球団の関係者だった。
近鉄は、2000年(平成12年)3月期の連結決算で、初の連結最終赤字に転落。2003年(平成15年)3月期には、53年ぶりに近鉄単体でも最終赤字に転落。その中でも「レジャー部門」の業績が悪化していたという。
本業の電鉄ではなく、球団をはじめ遊園地、ホテルといった、いわば本業外の部門だ。
これを、どう改善していくのか。
鉄道部門へ経営資源を集中していくために、それ以外の事業を再編、休止、売却していく決断を迫られていた。球団も年間40億円といわれる赤字を出し続けていた不採算部門の一つである。「近鉄バファローズ」という半世紀以上の間、多くのファンを魅了してきたグループのシンボルとはいっても、ビジネスの観点から見れば例外ではない。
オリックスとの合併は、6月の株主総会前、関西の経済界の重鎮たちが集まるパーティーの席で、その情報が広がったのだという。
実際、この「合併」が明らかになった直後、近鉄の株価が上昇している。球団という不採算部門を切り離した近鉄の経営サイドの決断が〝正解〟と受け取られた証明でもあった。
ファンの気持ちはどうなる、といった感情論などは、そこに介在する余地はない。
ビジネスの観点で球団経営を判断し、シビアに決断していく。プロ野球が「興行」から「スポーツビジネス」へと転換を図っていくことが迫られていた時代背景もあった。
オリックスと近鉄の球団合併は、すなわち、経済分野のマターだったのだ。

一方で、ファンも選手も合併への「反対論」を唱え続けた。
そうした世論の力を、無視できなかった部分はあるだろう。オーナー側、つまり経営者サイドが目論んでいた「2リーグ・12球団」から「1リーグ・
10球団」への縮小、つまり〝もう一つの球団合併〟は成立せず、最終的に
12球団制が維持されることになった。
本社が経営難に陥っていたダイエーは、ソフトバンクに買収され、東北楽天ゴールデンイーグルスが新規参入し、仙台に本拠地を置いた。
それでも、オリックスと近鉄の合併は、計画通りに実現された。
オリックスは、大阪というビッグマーケットを本拠地とすることで、その商圏を拡大できるという、これもシビアな計算のもとに動いていた。
当時、阪神尼崎駅から大阪難波までが繋がり、そこから近鉄難波線・奈良線へと続いていく計画も進んでいた。近鉄のファンは東大阪地区、さらには奈良といった近鉄沿線に多く、かつての阪急ファンや、ブルーウェーブ時代のオリックスファンは、神戸や西宮の方に多い。
そうしたファンたちが、電車一本で京セラドーム大阪へアクセスできるようになれば、観客動員にも大きな効果が期待できる。その「阪神なんば線」も、2009年(平成21年)に開通している。
オリックスにとって、さらなる経済的な発展を見越しての合併だったのだ。
話が「経済」と「感情」の間を、行ったり来たりしているのは、書きながらも分かっている。ここからは、さらに「情」の方に重点を置くことになる。
新たなる「オリックス・バファローズ」という球団が発足し、古きしがらみや複雑な感情を乗り越えるまでには、多くの葛藤があったことを記していきたい。
オリックスと近鉄。チームカラーが、あまりにも違い過ぎた2球団の合併に、多くの選手たちが、長く翻弄され続けることになる。

*      *

2001年(平成13年)。
9月11日に、米国で同時多発テロが発生。ニューヨークのワールドトレードセンター・ツインタワーに航空機が突っ込んでいく衝撃的なシーンは「あれから20年」という節目を迎えた2021年にも、ニュース番組で何度となく再現された。
その年、近鉄は12年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。
北川博敏(現阪神1軍打撃コーチ)は、阪神から移籍してきた初年度だった。
「タイガースという球団は、もう僕のことをいらないんだな、と。確かに寂しさというのは当然ありました。ただ、ホントに真っ白で、新しいチームでスタートができると思ったんで、過去を捨てて、というか、今からスタートなんだ、くらいの気持ちで始めました、近鉄で」
当時の近鉄監督・梨田昌孝が、2軍監督時代に「いつも笑顔。ああいう選手がウチに欲しい」と見初め、フロントに掛け合って、3対3の大型トレードをまとめるのだが、そのメンバーの中に北川を入れ、獲得したという経緯があった。
その風貌から「アンパンマン」の愛称で親しまれた陽気なキャラクターと、勝負強いバッティングを、梨田はこよなく重宝した。
「めちゃめちゃ濃厚でしたね。ほぼ1軍にずっといましたし、そういうシーズンも初めてだったんです。ホントにプロ野球の楽しさを味わえたというか、ホンマ、やったな、という風に感じられたのが、近鉄に行ってからだったんです。プロ野球人としての北川博敏を作ってくれた球団でした」
1994年(平成6年)ドラフト2位指名で、日大から阪神に入団。大型捕手としての期待が高かったが、6年間で1軍でのヒットはわずか19本、本塁打も0本だった。
その伸び悩んでいた28歳が、「いてまえ打線」と呼ばれた近鉄の豪快な、おおらかな空気の中で、いよいよ覚醒しようとしていた。
9月26日、本拠地・大阪ドーム(当時)でのオリックス戦。勝てば優勝決定という大一番で、北川は3点を追う9回に「代打満塁逆転サヨナラ優勝決定弾」を放った。
3点差を満塁弾でひっくり返す。プロ野球の世界では〝お釣りなし〟と呼ばれる。これで優勝を決めるという、まさしく奇跡の一発を放った。
北川は、ミラクルバファローズを象徴する〝顔〟になった。
「僕、阪神6年、近鉄4年、オリックス8年だったんです、現役は。だから、現役生活で考えたら、近鉄が一番短いんですよね。でも、行った年にあのホームランを打って優勝して、やっぱりこう、何と言うのかな、思い出というのが一番ある球団ですよね」
オリックスとの合併が持ち上がった2004年は、まさしくプロとしての充実期を迎えていた時だった。
「複雑でしたよね。まして、なくなる球団の方だったんで……。試合はする、勝ち負けは当然ある。その中で、お客さんも見に来てくれるけど……」
北川は、お立ち台でのヒーローインタビューで一度、こらえ切れずに泣いてしまったことを、鮮明に覚えているという。
「最後に『ファンの方々に一言』って言われて、言葉が出てこなかったんです。『頑張ります。応援よろしくお願いします』って、なんか、なくなってしまう球団のファンの人たちに向かって、そんなことを言ってもいいのかな、って思ったんです」
自分たちの力が及ばないところで、自分たちの運命が決められていく虚しさがあった。
「プロ野球って、当然会社が成り立ってのものですけど、野球をやっている以上は、クラブチームではないですけど、仲間と一緒に優勝を目指すっていうのがありますよね。だからホントに寂しいというか、すごい変な気持ちで毎日試合をしていましたね」
だから、近鉄のロッカー内では、冗談とも本気ともつかないような、こんな〝奇想天外なプラン〟まで話し合われていたという。
ライブドアの社長(当時)・堀江貴文が、近鉄救済に名乗りを上げ、球団買収を打(ぶ)ち上げていた。
「もう、全員でライブドアに行こうよ。全員でオリックスに行くのを拒否して、全員で行こうや、みたいなことは言ってましたよね。このメンバーで、野球やろうや、って」
それでも、時の流れは非情だ。
感情というものも置き去りにされ、ビジネスの論理で、着々と事は動いていく。
9月24日。大阪ドームでの本拠地最終戦。試合前に、球団オーナーと社長が、選手たちのもとへ激励に訪れた。
しかし、誰も話そうともしない。あまりにも重たいその空気に、挨拶を終えた本社首脳たちも、いたたまれなくなったのだろう。そそくさとその場を後にした。
ユニホーム姿の選手たちは、誰一人として、立ち上がろうともしなかった。
「空気はひどかったですね。冷めているというか、結局、悪い言い方になりますけど、お前らのせいで、なんで俺たちがバラバラにならなきゃいけないんだ、みたいな」
梨田が「お前らの背負う背番号は、近鉄の永久欠番や」と語りかけたのは、まさにその直後のことだった。重い雰囲気を、何とかして振り払おうとした指揮官の言葉だったが、北川は「よけい寂しくなりましたね」と振り返った。
「梨田さんがああおっしゃった時に、ホントになくなるんや……と」
涙をこらえたそのミーティングに、21歳の近藤一樹もいた。(続く)



光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!