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「会話」の魅力と企みについて、あの人気作品を題材に考える|三木那由他

 発売前から話題沸騰、三木那由他先生の『会話を哲学する』がいよいよ本日全国の書店さんに並んでいます。
 本書は、帯にあしらわれた『うる星やつら』をはじめとして、『ONE PIECE』や『鋼の錬金術師』といったおなじみの漫画から、クリスティー『オリエント急行の殺人』、逢坂冬馬さんのベストセラー『同志少女よ、敵を撃て』などなど、27もの人気の小説、映画、ゲームに登場する「会話」について、一体どのような企みから発せられているのか、丁寧に掘り下げていきます。
 発売を機に、以下に「はじめに」を公開します。日々たくさんの言葉を浴びるように目にする現代社会において、本書を通じて会話という営みが持つ深い魅力、時に人を傷つけるほどの危うさを秘めた力の一端に触れていただければ幸いです。

はじめに

 会話とはどういった営みなのでしょうか? ひとは会話をすることでいったい何をしているのでしょうか? 私は卒業論文でそうしたテーマに関わる哲学者を論じて以来、大学院でも、その後の研究でも、ずっとこの問題に取り組んできました。

 そんななかで少しずつわかってきたのは、「会話というのは、実は一枚岩の営みではなく、そのなかにいくつもの異なる営みが含まれている集合体なのではないか」ということでした。いったいいくつの営みが含まれていて、それらがどう関係しているのか、まだはっきりとしたことはわかりません。でも、少なくともそれには「コミュニケーション」と「マニピュレーション」というものがあるのではないか、と考えています。詳しくは第一章で述べますが、コミュニケーションは発言を通じて話し手と聞き手のあいだで約束事を構築していくような営みで、マニピュレーションは発言を通じて話し手が聞き手の心理や行動を操ろうとする営みです。

 本来の私の研究では、こうしたテーマを哲学の問題として取り扱っています。分析哲学と呼ばれる分野の道具立てや議論の立てかたを使って、ときに思考実験などをしながら、どうにかコミュニケーションという概念の内実を探ったりしています。分析哲学というのは、現代だと主に英語圏で広まっている哲学の流派で、はっきり「こういうもの」と述べるのはそれ自体が一分野になっているくらいに難しいのですが、ざっくりとまとめるなら論理学や数学、自然科学に敬意を払いながら哲学に取り組もうという考えかた、くらいに思ってもらうといいかと思います。私も自分の議論をするうえで、言語学や心理学の話をいろいろと持ち出したりしています。

 ただ、この本では私の研究をテクニカルなかたちで紹介するということはしません。むしろ、この研究によって私が得た視点から、さまざまな会話がどのように見えているのかといったことを語っていきたいと思っています。

 会話やコミュニケーションに関して論じる哲学者は、意外なことにあまりフィクションの例は取り上げず、自分たちの議論にちょうどいいオリジナルの例を挙げて議論をする傾向が強いように見えます(少なくとも分析哲学では)。でも、それってどうなんだろうと前から思っていました。

 気になるのは、哲学者たちが想定する会話やコミュニケーションが、妙に偏って見えるということです。映画や演劇を見たり、漫画や小説を読んだりしたら、あなたたちの会話観では対処できなそうなやり取りはいっぱいあるのではないか、それなのになぜ自分たちのお気に入りの例で満足して、そうしたやり取りを真面目に取り上げようとしないのか。そう感じていました。もちろん、私の見ている哲学者の範囲が狭すぎるのかもしれませんが。

 本書では、興味深い会話の例が見られるフィクション作品を次々と取り上げ、そのなかでどういったやり取りがなされているのか、登場人物たちは何をしているのか、といったことをコミュニケーションとマニピュレーションという観点から説明していきます。それを通じて、会話という営みの複雑さと面白さを描き出せたら、と思っています。

 第一章では、コミュニケーションとマニピュレーションという概念について説明しています。全体の下準備となる章です。いずれの概念も私自身で定義したかたちで用いるので、以降の章の話がよくわからなくなったら、ここに戻ってもらうといいかもしれません。

 第二章から第五章では、コミュニケーションを主に扱います。そのうち最初の三つの章では、よくあるコミュニケーション観ではうまく捉えられない奇妙なやり取りをたくさんのフィクション作品から紹介し、そこでいったい何が起きているのかを私の立場から解説しています。順番に述べると、第二章ではもうわかり切っていることをあえてコミュニケートするという例を扱い、第三章では間違っているとわかっていることをあえてコミュニケートするという例を扱い、第四章ではコミュニケーションにならないとわかっているからこそ、つまり伝わらないとわかっているからこそなされる発話を扱います。

 第五章ではそれまでの章とは違い、コミュニケーションがすれ違った場合に話し手と聞き手のあいだでどういった交渉がなされるのかといったことをフィクションの例を手掛かりに論じ、そのなかでどのように暴力が起こりうるのかを述べています。いま現在の私の関心は特にこの第五章で語っているような事象にあるのですが、それはつまりほかの章で話していることに比べると現在進行形で考えている側面が強いということでもあって、この章の内容はいまの私の考えのスケッチのようなものになっているかと思います。

 第六章と第七章では、会話においてなされつつあるコミュニケーションとは異なる営みとしてマニピュレーションに目を向け、いかにしてそれが会話のなかで展開されるのかを論じています。第六章は本心をコミュニケーションにおいては伝えず、マニピュレーションを介して知らせるという例を取り上げています。第七章では、マニピュレーションを介して話し手が聞き手を自分の望む方向へと誘導する例を論じています。

 すでに述べたように、本書では理論的な話を紹介するのではなく、私の目にさまざまな会話がどのように映っているかを語っていきます。ただ、それだけだと私がやっているような研究のことを知りたいというひとには情報が足りないでしょうから、「おわりに」では理論的なバックグラウンドについても解説することにします。

 この本があなたにとって、「会話」というありふれた現象をこれまでとは違った仕方で見るためのきっかけとなったら幸いです。


※この後、本編では実際の作品の会話を引用しながら分析していきます。取り上げている作品については以下の目次をご参照ください。

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目次

著者略歴

三木那由他(みきなゆた)
1985 年、神奈川県生まれ。大阪大学大学院人文学研究科講師。京都大学大学院文学研究科博士課程指導認定退学。博士(文学)。著書に、『話し手の意味の心理性と公共性 コミュニケーションの哲学へ』『グライス  理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』(ともに勁草書房)。共訳書に、ロバート・ブラン ダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行く のか』上・下巻(勁草書房)。近著に、文芸誌「群像」 の連載をまとめた『言葉の展望台』(講談社)。

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