【追悼】半藤一利さんが語った、『週刊文春』創刊に社員が大反対した理由
光文社新書編集部の樋口です。
1月12日、昭和史研究の第一人者、そして、私たちにとっては編集者の大先輩でもある、作家・半藤一利さんがお亡くなりになりました。90歳でした。
柳澤健さんの新刊『2016年の週刊文春』では、半藤一利さんにも取材をお願いし、その後も原稿の事実確認などで何度もお世話になりました。
取材テーマに合わせていただいたのでしょう、文藝春秋でつくった「はっぴ」を着て(!)取材場所の喫茶店にお越しになり、文藝春秋の歴史から、『週刊文春』創刊時の思い出、田中角栄研究(月刊『文藝春秋』)と『週刊文春』の当時の関係性など、にこやかに、しかしきわめてつぶさにお話しいただきました。
『週刊文春』、月刊『文藝春秋』などの編集長を歴任。のちに文藝春秋専務取締役。『昭和史』(平凡社ライブラリー)、『ノモンハンの夏』(文藝春秋)など昭和史関係のベストセラー多数。数々の歴史的証言を集められたその精力的な執筆活動は、まさに「昭和史探偵」でした。
本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
今回、著者の柳澤健さんのご許可をいただき、その半藤一利さんと『週刊文春』創刊時のエピソードを特別に公開させていただきます。
『週刊新潮』の大成功を見た佐佐木茂索社長が「週刊誌を我が社でも出そうと思っている。君たちの率直な意見を聞きたい」と言って主だった社員を集めたのは、一九五八年秋のことだ。
会議の席では編集局長の池島信平以下、大半の人間が週刊誌の創刊に反対した、と半藤一利は記憶している。
「池島さんは『物理的に無理でしょう』と言いました。当時、文藝春秋の社員は、業務も含めて一〇〇人もいなかった。そんな小さな会社で週刊誌を出せるわけがない。新潮社は『週刊新潮』を出しているじゃないかと言われても、新潮社の雑誌は『新潮』『小説新潮』『芸術新潮』くらい。一方、文藝春秋は月刊『文藝春秋』『オール讀物』『文學界』『漫画讀本』『別冊文藝春秋』とたくさん出していた。もう手いっぱいで、週刊誌を出すのは戦力的に無理です、と池島さんは言うわけです。週刊誌のような野蛮なものを出せば、文藝春秋のいい社風が壊れる、という意見もありましたね。
当時の私は入社六年目でしたが、意見を聞かれた時には『ウチも週刊誌を出すべきだ』と言いました。『週刊新潮』が成功している。新潮にできることが、文藝春秋にできないはずがない。雑誌社である我々が、出版社のあいつらに負けるはずがないじゃないか、と」
佐佐木社長は多くの社員の意見をじっくりと聞いて熟考し、年明け早々に断を下した。
『週刊文春』を創刊する。すべての責任は私が取る。
『週刊文春』という誌名の商標が出願されたのは『週刊新潮』創刊直後の一九五六年二月二二日(登録は翌五七年二月八日)。佐佐木茂索はすでに三年前に週刊誌創刊の可能性を考えて商標登録を済ませておいたのだ。この先見の明。経営者はかくあらねばならない。
そして、ついに佐佐木が自らの構想を実現する時がやってきた。
「役員たちの反対を押し切って『週刊文春』創刊を決めた佐佐木さんは、広告主になってくれそうな人たちを全員料亭に招いて、自分は一番下座に座り、手をついて『よろしくお願いしたい』と頭を下げたそうです。ずいぶん後になってから聞いた話ですけど。佐佐木さんは相当な覚悟だったんです」(半藤一利)
一九五九年が明けて、一月一四日には大きな人事異動があった。
『週刊文春』の創刊編集長には上林吾郎が指名された。
デスクには小林米紀と阿部亥太郎。編集部員は各編集部から引き抜かれた。『オール讀物』は一〇人から八人に。『文學界』は五人から四人に。当時六人いた出版部員は三人が『週刊文春』に異動になった。単行本など当分出さなくていい、ということだ。
「人事異動のあと、じつは社内は大荒れに荒れました。『週刊文春』に引き抜かれたヤツがエリートで、残った方がカスだというような。あり得ない話ですが、なんとなくそんな空気になってしまった」(半藤一利)
まもなく、佐佐木は『週刊文春』の編集部員全員の家族に直筆の手紙を送った。妻帯者には妻に、独身者には父母に宛てた。「ご主人もしくご子息は、これから忙しい仕事の連続となる。社で徹夜することも頻繁にあるはずだが、よろしくお願いする」という内容は、家族を感激させた。
四月に入社予定の新入社員たちも、予定を早めて次々に出社してきた。
創刊当時の『週刊文春』編集部は二五、六人。そこにフリーランスの梶山季之率いる梶山集団の五人が応援にきてくれて、総勢三一、二名で創刊を目指すことになった、と半藤一利は記憶している。
梶山季之は、草柳大蔵と同様に〝マスコミの帝王〟大宅壮一が主宰するノンフィクション・クラブのメンバーだった。
東大法学部卒のエリート草柳大蔵とは異なり、広島高等師範学校卒の梶山季之はいわば雑草。だが、天性のストーリーテラーで、その上、超人的なスピードで原稿を書いた。
「四〇〇字詰めの原稿用紙で一時間に五枚が通常運転。二時間で一五枚もごく普通。すごい時には徹夜して八〇枚から九〇枚を書いたこともありました。
少しあとの話ですが、『黒の試走車』という小説を書く時に、梶山さんは知り合いと一緒に特製の原稿用紙を作った。一万枚を頼んだつもりが、相手が八万枚と聞き間違えて、大量の原稿用紙がオート三輪で家まで運ばれてきた。いい原稿用紙だと一〇〇枚で一センチちょっと。八万枚を積み重ねれば八メートルになる。梶山さん夫婦は呆然となったけど、仕方がないから全部引き取った。ところが九年後、梶山さんは八万枚の原稿用紙をすべて使い切り、また新しく作った(笑)」(高橋呉郎)
『週刊明星』でアンカーを経験し、月刊『文藝春秋』でもいくつかの記事を書いていた腕利きライターが連れてくるフリーランスの記者たち(岩川隆、恩田貢、加藤憲作、有馬将嗣、中田建夫はいずれも精鋭揃い、と編集部員は聞いていたが、実際に記者経験があるのは恩田だけで、他のメンバーは「鉛筆一本、メモ帳一冊持ったことのないような連中」(高橋呉郎)だった。だが、梶山に鍛えられて『週刊文春』の大きな戦力になっていく。
のちにノンフィクション作家に転じた岩川隆は、当時の梶山軍団について次のように書いている。
《私自身、私も含めてこんな連中で大丈夫だろうかと思ったが、梶山さんは、少なくとも私どもが見るかぎり、平然としていた。
〈人間、必死になれば何でもできる〉
と言いたそうであった。文藝春秋新社側も最初にこのスタッフを見たときは、かなり不安を覚えたらしい。私どもが受け入れてもらえたのはひとえに梶山季之という人物と才能にたいする信頼によるものだったろう。
「社員(編集部員)にできないことをやれ。同じことしかできないなら、われわれの存在価値はない」
「少しでも暇があったら人に会え、人の網をつくれ。いつかきっと役に立つ」
「一日に五人、初対面の人に会って取材するかインタビューしろ。雑談でもいい」
「いかにも記者らしい恰好をするな。そんな記者にろくな記者はいない。ペンや万年筆は内ポケットにかくせ」
と、挙げれば限りがないほど、梶山さんから教わったものはたくさんある。》(梶山季之『トップ屋戦士の記録』解説)
『週刊文春』創刊号の発売日は一九五九年四月九日木曜日。皇太子ご成婚(四月一〇日)に合わせたのは佐佐木茂索社長であり、表紙は当然、美智子妃の写真でなければならない。イラストという選択肢は最初からない。『週刊新潮』の谷内六郎に対抗できる絵描きはいなかったからだ。編集部員は必死に美智子妃の写真を探し、幸いにも着物姿の素晴らしい写真が見つかった。
記事もグラビアも皇太子ご成婚一色。『週刊文春』は皇室に寄り添ってスタートしたのだ。
文藝春秋は出版社というよりもむしろ雑誌社であり、単行本の出版をメインとする新潮社とは本質的に異なる。
菊池寛が創刊した『話』は、面白い話を持っている人のところに編集者が出かけていき、話を聞いてまとめるという雑誌だった。戦後の月刊『文藝春秋』や『特集文藝春秋』では、戦時中の事件の内幕を当事者に語ってもらい、編集者が原稿にまとめた〝手記〟が売り物で、対談や座談会も頻繁に行われた。
つまり、文藝春秋の編集者たちは、人の話を聞いて文章化する訓練を受けていた。〝書ける記者〟が最初からいたということだ。半藤一利はその代表だろう。
『週刊文春』で最初に話題になった記事は〈大朝日に君臨する女傑─マスコミ・レディ村山藤子〉(一九五九年五月二九日号)だった。担当は半藤一利と、同期の田中健五の若いふたりである。
「朝日新聞を牛耳っているのは、村山於藤(藤子の本名)という女性だから、それをやろうということになった。田中健五が大阪に行って於藤さんと会い、私が東京で朝日のOBに悪口を山ほど聞いて、そのまま載せた(笑)。裁判で負けて、かなりの額を取られたんじゃなかったかな。『於藤は(婿養子の)村山長挙をスリッパで殴った、俺はこの目で見た』という証言が半分くらい噓だったんです。
『週刊文春』は最初から、金と女と名誉の『週刊新潮』とは違う路線をやろうとした。つまり社会ダネを追ったんです。発売日は同じ木曜日だから、私たちは『週刊新潮』に追いつき追い越そうとした。でも、同じネタを扱っても、向こうの方が明らかに取材が深く、こちらは浅いということが何度もあったから、ノイローゼになるヤツもいました。
すべての記事が均質な新潮とは違って、文春の記事にはバラツキもあったし、あと、連載小説も弱かった。『週刊文春』の創刊当時は石川達三と曾野綾子と五味康祐だったかな。そう言っちゃ悪いけど、当時の週刊誌的には二流です。松本清張さんは週刊誌連載を三本も抱えていたから、とても頼めなかった」(半藤一利)
(柳澤健さん著『2016年の週刊文春』より抜粋)