見出し画像

「あの真っ赤に燃える日々を、もう一度追いかける旅に出よう。」――緒方孝市著『赤の継承 カープ三連覇の軌跡』より

光文社三宅です。広島東洋カープ前監督・緒方孝市さんの『赤の継承 カープ三連覇の軌跡』が発売になりました。私はセ・リーグの別の球団のファンですが、本書は野球本として抜群に面白かった。対戦相手としては憎たらしいほど強くて、監督初年度の2015年を除けば一方的にやられた記憶しかありませんが、その裏にこれほどの緻密さと苦悩があるとは想像していませんでした。野球ファン必読の一冊といっても過言ではありません。野球ファンに限らず、何かを成し遂げようとする人、あらゆる組織のリーダーも必読です。何かしら得るものがあるはずです。カープを25年ぶりの優勝を導き、その後球団史上初の三連覇を成し遂げた緒方前監督ですが、これまで多くを語ってきませんでした。本書で初めて明かされるエピソードも多々あり、「あのときはそうだったのか!」と他球団のファンでも驚くこと請け合いです。あまりにも素晴らしい内容なので、日本中の人に読んでもらいたく、思わず全文公開したくなりますが、出し惜しみして「まえがき」だけ公開します。それだけでも読み応えたっぷりですので、ぜひご一読ください。それで飽き足らなければ書店へGO! ちなみに、発売後すぐに増刷が決まっています。

はじめに◉ただ感謝の気持ちを胸に

忘れられない風景がある。

私は涙を流していた。

試合はちょうど終わったばかり。しばらく頭は真っ白だったが、飛び込んできたスタッフが涙を流しているのを見て、私の中にもこみあげてくるものがあった。

気が付けば何人もの男たちと抱き合って、私は泣いていた。涙はあとからあとから溢れ出して、止まらなかった。それはずっとこらえてきた理性の糸が切れて、ため込んだ感情が爆発したようだった。

断っておくが、それは2016年、広島カープが25年ぶりのリーグ優勝を果たした瞬間ではない。翌2017年の連覇の瞬間でもなければ、2018年、地元・広島でVを決めた3連覇の瞬間でもない。

だが、私が5年間務めた広島カープの監督時代──いや、選手からコーチ、監督に至る33年間のプロ野球人生を振り返っても、もっとも重要な試合をひとつ挙げろと言われればその試合になる。私の野球人生すべてが詰まっているのがその瞬間になる。

白々とした監督室の電灯と、まだざわめきの残るスタジアム。
私はそこから生まれたのだと思う。

私はあの瞬間に生まれたのだということを今、改めて、強く思い出す──。

2019年10月1日、私はマツダスタジアムで会見を行い、カープの監督を辞任することを報告した。

「監督に就任して1年目から1年勝負の中でやっていく決意は変わらず、今シーズンもその想いでやってきました。今シーズンは4連覇、そして悲願の日本一という目標の中で戦ってきましたが、その目標を達することなく、期待に応えることができず、本当にそれは監督としての責任なので申し訳ない気持ちでいっぱいです……」

「最初はわからないことばかりで、いろんな経験を積ませてもらって、こういう言い方が適切かわからないですけど本当に貴重な時間をすごさせていただきました。自分の中では目いっぱい、全力で最後までやり切ったな、と──そういう想いでいます……」

「ここからユニフォームを脱いだ先のことは考えてないし、決めてないのが現状ですが、本当に〝いちOB〟として、選手たちを、カープを見守り、全力で応援していこうと思っています。本当にみなさん、長い間お世話になりました。ありがとうございました……」

そこで話した言葉はどれも嘘偽りのない、真実の言葉だった。多くの方の期待に応えられなかった申し訳なさ、自分の中でやり切ったという感覚、この先のことは何ひとつ決まっていない現実……どれも本当のことで、強がりも謙遜も何もなかった。

私はここで5年間に及ぶカープの監督人生に幕を下ろした。それは高校卒業以来ずっとお世話になってきた、広島カープという球団での日々にピリオドを打った瞬間でもあった。

私はあの日、33年間、袖を通し続けた赤いユニフォームに別れを告げたのだった。

あれから1年近い時間が流れた。

きっと誰もが忘れられない年になるだろう2020年、新型コロナウイルスが猛威を振るい、東京オリンピックが延期となった。広島の街から一時的に球音が消え、それにも増して人が消えた。日本中、世界中の人々が自宅にこもり、屋外から姿を消した。

私はゆっくりした時間をすごしていた。コロナの影響ももちろんあるが、33年ぶりの肩書のない生活をマイペースで送っていた。

よく考えてみれば、これほどまでに何もない日々は33年どころではない。その前の高校時代も、中学時代も、小学校時代も、私はとにかく野球に夢中で、野球漬けの毎日を送っていた。ヒマさえあればボールを握り、バットを振るような毎日をすごしてきた。

しかし私はもう、野球に追われる必要はなかった。夜中に飛び起きて素振りを繰り返したり、目を皿のようにして相手チームの映像を分析したりする必要はなかった。

人生の大半を捧げてきた野球から離れて、自分はどうなってしまうんだろう?

不安を抱えながらスタートした私の新しい日々は思ったよりも快適で、むしろそんな自分をむず痒く感じるほどだった。もっと野球がやりたくなったり、早くグラウンドに戻りたくなったりするのかと思っていたらそんなことはなく、それが意外で、不思議だった。

あっという間に時間がすぎたという感覚だった。

時々、外に出て知り合いに会うと、

「緒方さん、監督を辞めてこれからどうするんですか?」

と聞かれた。そんなとき、

「何も決まってないですよ。フリーターですよ、フリーター」

と返すと、みんな笑った。

それは冗談のように聞こえたかもしれないが、私にとっては冗談でもなんでもなかった。私は別にどこかのテレビ局で野球解説者をやる予定もなければ、どこかのチームで野球を教える予定もなかった。引退会見のとき「ユニフォームを脱いだ先のことは考えてないし、決めてない」と言ったが、私は本当にこの先のことを決めてなかったし、考えていなかった。いつまで経っても予定表は真っ白のままだった。

思えばこれまでの人生、いつも先のことなど考えず突っ走ってきたな……ふと、そんな気持ちが胸に浮かんだ。

カープに入団するときもそうだった。私は自分がドラフトで指名されるなど夢にも思わず、突然の指名に驚き、戸惑い、迷いに迷った挙句、恩師や両親に背中を押される形であこがれのプロ野球の世界への扉を開いた。

選手を引退してコーチになるときもそうだった。頭の中は選手として完全燃焼することばかりで、この先の身の振り方など何ひとつ考えていなかった。それはコーチから監督になるときも同じで……。

少しずつ、いろんな記憶がよみがえってくるにつれて、私の中でそれらのシーンを包み込むひとつの言葉が立ち上がってきた。

「出会いに感謝」

それは私に野球を教えてくれた佐賀県立鳥栖高等学校野球部監督、故・平野國隆さんの座右の銘だった。

出会いに感謝──それは私が高校時代、もう30年以上前に教わったフレーズのはずなのに、プロ野球のユニフォームを脱いだ今、つくづく腑に落ちる言葉になっていた。

これまでの野球人生を振り返ると、なんと多くの出会いがあり、多くの助けを受けてきたことだろう。プロというのは実力の世界だが、いろんな方の支えがなければ私は23年間の現役生活はもちろん、その後の5年間のコーチ生活、さらに5年間の監督生活を送ることはできなかった。それだけの長期間、好きな野球でメシを食えた上に、監督時代には25年ぶりのリーグ優勝を筆頭に、ファン、選手、球団職員らと3度も美酒に酔うことができた。

私はこれまでガムシャラに駆け抜けてきたが、振り返ればその野球人生は幸せな記憶に満ちており、そこにはただひたすらに感謝の気持ちしかなかった。そのことが砂漠が水を吸うように実感できた。

私は30年以上経って、やっと恩師が私に教えたかったことがわかった気がした。出会いがあり、縁が広がり、支えや助けをいただいたことで今の私が存在する。そんなことを考えていると、次々になつかしい顔、不義理を続けている顔、きちんと「ありがとう」と言えていない人たちの顔が浮かび、消えなくなった。

そんな人たちの中に、ひときわ大きく、燦然と輝く星々のような大集団があった。それは広島カープというチームを熱心に応援し続けてくれるファンの存在だった。

私のカープにおける野球人生は、そのほとんどが優勝とは縁のない、つらく、悔しい日々だったが、そんなときでも常に声を嗄らして応援してくれるファンがいた。どんなときでもあきらめず、ともに涙を流し、ともに歯を食いしばって戦ってくれるファンがいた。だからこそ彼らと一緒に3度も喜びを分かち合えた経験はかけがえがなく、私にとっては一生の宝物になっているが、はたして私はそんなファンに対して感謝の気持ちを伝えてきただろうか? ちゃんと恩返しをしてきただろうか?

確かに私はあの監督辞任会見の席でも、松田元オーナー、コーチ、球団スタッフ、選手たちに次いでファンへの感謝を口にした。「ファンの方に大きな力をいただいてこの5年間、監督としてやってこられたと思っています」と謝意は伝えたつもりだった。

しかしそれで十分かといえば、私には不十分なように思えた。

だったら、私が今やるべきはそれではないだろうか?

これまで私が内側に抱えてきた想いを、ファンにきちんと伝えること──私がどんな想いで野球に向き合い、どんなふうにカープというチームで成長させてもらったか。どんな想いで監督を引き受け、どんなふうに戦い、どうやって25年ぶりの優勝、そして3連覇に辿り着くことができたのか──それをしっかり語り尽くすことが今、私がやるべきことだと感じるようになったのだ。

もしそうすることでもう一度、あの喜びを分かち合った瞬間を思い出してもらえるなら嬉しいし、カープというチームへの理解と愛情がいっそう深まってくれるならこれほど幸せなことはない。

さらに、私が監督として悩み苦しんだ経験を書き記すことで、私と同じく管理職としてもがいているビジネスパーソンの参考になればという想いもあった。勝利と育成が求められるチームで、いかに結果を出し、いかに若手を育て、いかに組織を強くしていくかという問題は、この5年の間、私が一日も欠かさず考え続けたテーマである。

私は多くの書籍からヒントや気付きを得て、さまざまな難関を乗り越えてきた。私の経験がどれほど役に立つかはわからないが、今度は私自身が〝教えてもらう側〟から〝教える側〟に回り、いただいた知恵をお返しする番だと思ったのだ。

──どうしてカープは25年ぶりに優勝することができたのか?
──どうしてそこから第2次黄金期と呼べるリーグ3連覇を成し遂げることができたのか?

33年間のプロ野球人生を終えて、今こうしてぽっかりと時間が空いたのは、私が自らの野球人生を振り返るためだったのかもしれない。

目を閉じると、あの熱気と歓声がよみがえってくる。

涙と屈辱、汗と努力、歓喜と興奮、そして幾多の人々の途方もない情熱と、その中で立ち現れる人生の真理──私は確かにグラウンドの中で、生きることのすべてを学んだのだ。

あの真っ赤に燃える日々を、もう一度追いかける旅に出よう。

緒方孝市

目 次

はじめに◉ただ感謝の気持ちを胸に

第1章◉少年時代〜選手時代
勝つためのヒントはすべてここで学んだ

第2章◉コーチ時代(2010〜2014年)
「この方向性で間違いない」青天の霹靂で監督就任へ 

第3章◉2015年
「勝つ、何がなんでも勝つ!」という気持ちの空回り

第4章◉2016年
なぜ25年ぶりの優勝は実現したのか? 私の「監督論」

第5章◉2017年
たくましさを増した選手たちが成し遂げた連覇 私の「育成論」 

第6章◉2018年
〝チームの完成〟による3連覇 私の「組織論」

第7章◉2019年
王者の試練 突き付けられた〝勝ち続ける〟困難

終 章
今はまだ、栄光への途中

おわりに


光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!