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ラグビーはスクラムが一番面白い! 松瀬学著『ONE TEAMのスクラム』プロローグ全文公開。

「アイルランド戦34分のスクラム」で何が起きていたのか?

光文社新書編集部の三宅です。

今さらですが、昨年のラグビーW杯は大いに盛り上がりましたね。その勢いを駆って、トップリーグも白熱した戦いが繰り広げられ、お客さんもたくさん入っていたのですが、新型コロナウイルスの広がりに伴って、全試合の中止が決まってしまいました。不可抗力とはいえ、ラグビーファンの皆様におかれましては、やり場のないモヤモヤを抱えていらっしゃることと思います。

そういう方々に、ささやかではありますが、ラグビーの読み物をご提供したいと思い、著者の松瀬さんのご了承を得た上で、2月に刊行された『ONE TEAMのスクラム』のプロローグを全文公開いたします。プロローグと言いましても、タイトルにあるように14000字以上あります。そしてここには本書の魅力が凝縮されています。

この原稿の中心となるのは「アイルランド戦34分のスクラム」です。

ご記憶の方も多いと思いますが、日本代表のW杯2戦目、相手は世界ランキング2位(当時)のアイルランド、勝利を予想していたファンは少なかったでしょう。この試合は落としても、他に全勝して初の8強入り、というのが多くのファンが描いてたいたシナリオではなかったでしょうか。

ところが、ご存知のように、世界を驚かせた世紀の番狂わせが起きました。最終的にグループリーグ全勝で、初の決勝トーナメント進出を決めたのです。

この試合の行方を左右する場面はいくつかあるのですが、「34分のスクラム」が一つのキーになったのは間違いありません。ここで押し勝ったことが、どれだけ流れを変えたか。……と能書きはこのくらいにして、本題に入りましょう。

このプロローグ原稿では、「アイルランド戦34分のスクラム」を、フロントローの堀江翔太、稲垣啓太、具智元、そして、長谷川慎スクラムコーチの証言で、微に入り細を穿つように振り返っています。スクラムの時間自体は10秒程度ですが、その中にこれだけの判断と駆け引きがあるのかと驚かずにはいられません。しかも、時間の経過と状況に応じて、判断も変わっていきます。もちろん、それ以前の準備もあります。

この読後、少し大げさにいうなら、山際淳司氏によるスポーツノンフィクションの金字塔「江夏の21球」に匹敵するのではないか……と思っています。

前置きが長くなりました。

それでは、お楽しみいただけると幸いです。

スクラムはラグビーの心臓、フロントローはそのポンプ機能

快挙である。

日本初開催の2019年ラグビーワールドカップ(W杯)で日本代表がベスト8に初めて進出したことではない。これまで「縁の下の力持ち」と形容されていた地味なフロントロー陣が、スポットライトを浴びていることである。まさか、こんな時代がやってくるとは。

ラグビーのフロントロー陣とは、スクラムの最前線に立つ。3人で構成され、両サイドに柱となるプロップ(支柱を意味する)が並び、真ん中に周囲をコントロールする役割のフッカー(フック=カギを意味する)がでんと座る。スクラムはゲームの流れを左右する。ラグビーの心臓ともいっていい。フロントローは全身(チーム)に血液を送り出す、そのポンプ機能をつかさどるようなものである。

早稲田時代、プロップをしていた筆者としては、「労多くして幸薄し」のポジションだと考えていた。試合に勝っても、称賛されるのは、同期のスタンドオフ本城和彦くんらバックスの選手たちだった。フロントロー陣はいわば、日陰もん。勝っても、口元にかすかな笑みをつくり、高田馬場の居酒屋で安いホッピーをしずかに飲んでいた。

だが、時代は変わった。W杯後、日本代表の左プロップの稲垣啓太、右プロップの具智元(グジウォン)、フッカーの堀江翔太。さらにはスクラム担当の長谷川慎コーチがそろって、日本の公共放送を担う日本放送協会、「NHK」の全国ネットの特集番組に生出演したのである。おそらく、フロントロー陣とスクラムコーチだけの番組出演は有史以来の痛快な出来事だっただろう。

5万人ファンのワンチーム・パレード

ラグビー日本代表の人気ぶりは信じられないものがある。師走某日。よく晴れた冬空の下、黒色のスーツ姿の日本代表は「感謝のワンチーム・パレード」と称し、東京駅そばの丸の内仲通りの800メートルを練り歩き、約5万人の観衆に手を振った。ビルの窓にも多くの人が集まった。携帯電話で写真を撮られ、「ありがとう」と声をかけられた。感激で泣き出すファンも。

その翌日、群馬県太田市のパナソニック・ワイドルナイツのグラウンドを訪ねた。チームジャージのような青い空が広がっていた。フッカー堀江、プロップ稲垣とスクラム談義をするためだった。

パレードの話題を振れば、1986年1月生まれの堀江は「幸せな時間でした」と言った。

初めてラグビーW杯日本代表となった2011年ニュージーランド大会のあと、帰国した際の成田空港の風景はまったく覚えていない。テレビカメラが1台あったかどうか。メディアの囲みはなかった、という。

初戦で優勝候補の南アフリカを破るなど3勝1敗の成績を残した前回の2015年イングランド大会では、羽田空港に約500人のファンが待ち構えていた。こんどは日本開催といえども、その100倍の人々が沿道から日本代表の健闘を祝福してくれたのだった。

ドレッドヘアの堀江はひげ面の顔をほころばせた。「ま、異様な光景でした」と漏らした。

「僕がトップリーグ(社会人の日本最高峰のラグビーリーグ)に入った時なんて、地方の試合では観客が数百人とかありましたから。それがもう、東京の丸の内、大都会のど真ん中で、5万人の人がいてくれるというのが、なんかもう、ふしぎで仕方ないんですよ」

1990年6月生まれの稲垣は、こう述懐した。

「沿道だけじゃなく、少し見上げれば、オフィス街の窓から手を振ってくれている人もいました。サクラのジャージもたくさん、見ました。僕自身、ここまでは想像していませんでした。ラグビーというスポーツがメジャーになりつつあるのかな、そのきっかけに貢献することができたのかな、という印象を受けました」

ついでにいえば、「笑わない男」とニックネームがついた稲垣は女性ファンから「笑ってくださ~い」との声を幾度となくかけられた。やはり、笑わなかった。

「別に僕が笑う、笑わないで迷惑がかかる人もいないだろうって。はい」

テレビ出まくりのフロントロー3人衆

フロントロー3人もW杯後、テレビや雑誌、イベント出演にひっぱりだことなった。木枯らしが吹いた11月下旬。鈴鹿サーキットそばのHondaアクティブランド(三重県鈴鹿市)のHondaラグビー部のクラブハウスだった。 

1994年7月生まれ、韓国・ソウル生まれの具智元は、「第2のふるさと」という大分県佐伯市への凱旋のあと、前日は大阪でのテレビ生出演、この日は雑誌の取材が立て続けに入っていた。(具智元は2019年12月13日、日本国籍を取得) 

天然芝のグラウンドでの雑誌の写真撮影ではさすがに疲労の色が濃かった。心配するこちらの声には、愛称「グーくん」はいつものにこにこ笑顔で言った。大きなエクボ。「全然、大丈夫です。ラグビー選手としたら、ほんと、うれしいことですから」 確かにフロントロー陣はキャラが立っていた。ニヒルで語りがロジカルな稲垣啓太、素直で朴とつ、誠実な好青年の具智元、いつも泰然自若、自然体で気配り抜群の陽気な堀江翔太。コワモテだけど目がやさしい人情派の長谷川慎スクラムコーチ。 

だが、人気の一番の理由はやはり、日本代表の躍進を支えたスクラムの健闘があったことだろう。日本代表のスクラムはほんと、強かった。世界一になった南アフリカのスクラムも押したから、三段論法でいけば、日本代表のスクラムは世界最強となる。(押されもしたが……)

日本スタイルの“慎さんのスクラム”

ラグビー、とくにスクラムは奥深い。フランスの探偵小説のごとく、話がオモシロい。はた目にはふしぎに満ちているが、実はスクラムの押しにはふしぎの押しはない。しっかりと準備をし、フォワード8人がハードワーク(猛練習)を重ねてきたからこそ、あるいは試合で8人がそれぞれの役割を全うし機能したからこそ、相手フォワードを押すことができるのだ。相手チームのフォワード、バックスのモチベーションを削ぐコラプシング(故意に崩す行為)のペナルティーを得ることもできるのだった。

例えば、日本代表のハイライトともいわれたW杯1次リーグの第2戦、アイルランド戦(静岡・日本〇19―12)の前半34分のスクラムである。相手ボールで、位置が日本陣の22メートルラインのちょい外側、アイルランドから見たら右中間だった。日本としては、「絶対、ペナルティーはとられたくない」ところだった。

攻め手にとったら、仕掛けやすい位置だ。スクラムを押してコラプシングをとれば、確実にペナルティー・ゴールを蹴り込むことができるし、タッチキックからのラインアウトのモールでトライをとる可能性も大きくなる。あるいは、スクラムのボールをバックスのサインプレーからつないでもトライを狙いやすい。だから、アイルランドはまず、スクラムを押し込もうとした。仕掛けた。

だが、日本がその押しを耐え、逆にアイルランドの塊を押し崩した。スクラムを押し切った。日本スタイルのスクラムで。約5万人の満員の観衆で埋まった静岡・エコパスタジアムが「おおおー」と大きくどよめいた。コラプシングの反則をもぎとり、窮地を脱したのだった。このスクラムでは何が起きていたのか。

稲垣「個性を捨てました」

日本スタイルのスクラムとは、長谷川慎コーチが情熱と経験と分析力を持って徹底指導した「慎さんのスクラム」である。左プロップ稲垣の言葉を借りると、「日本に革命をもたらした慎さんのスクラム」ということになる。

「基本的には」と稲垣は続ける。

「日本代表のスクラムというのは、ひとつの方向性があって、まず一番大切にしている方向性はみんなで3番を助けることです。フッカーの向きを右に向けてあげるのが僕の役割なんです。そして、全体の方向性をフォワードが矢印の形になるようにするのです」

矢印をつくる時のキーになるのは、6番、7番の両フランカーである、という。どうしても、組んだ際、両プロップの臀部が開いていく。それを開かせないよう、両フランカーは少し、内側に補強してあげる。ここが日本スタイルのスクラムの特徴のひとつか。

4年の前のスクラムとの違いは? と聞けば、稲垣の目が瞬時、鋭くなった。

「ひとりひとりの役割が細分化されて、明確になったのが一番の違いですね。まあ、それはシステム上の違いで、スクラムの結果としての違いは相手ボールのスクラムにプレッシャーをかけることができるようになったことです」

2015年大会のスクラムでは、マイボールのスクラムで相手のコラプシングの反則を得ることができたが、相手ボールのスクラムにプレッシャーをかけてターンオーバー(ボール奪取)することはなかった。だが今大会では相手ボールのスクラムでプレッシャーをかけ、反則を誘い、ボールを奪ったスクラムが4本もあった。

では、稲垣個人はどう変わったのか。「個性を捨てました」とボソッと漏らした。

1番の左プロップは、3番の右プロップと違い、頭の左側が空いている。だから、ルースヘッド(解放された頭)と呼ばれることもある。片側が空いているから、構造上、前に出やすいポジションである。両チームの左プロップが単純にそうすると、スクラムは右回りに回ってしまう。

「それをしたら、スクラムにならないのです。自分たちのスクラムを有効に進めるために、じゃ、僕が何をすればいいのかというと、まず個性を捨てる。自分が押したい、前に出たいという欲を捨てることなのです」

では、堀江はどうだろう。「相手を崩すという部分は4年前とは全然違います」とほのぼの口調で漏らした。

「エディーさん(ジョーンズ前日本代表ヘッドコーチ〈HC〉、現イングランドHC)の時はそんなことはしていなかった。〝崩す〟って、首とか胸とか使って、相手の嫌がるところに力をいれて入っていくんですけど、僕らは相手を崩す、相手を悪い姿勢にするという感じですね。相手を崩せば、(自分たちの)うしろの押しが前にいきやすくなるんです」

〝慎さんは力なり〟、「スクラムファースト」

ラグビーW杯を通して、フォワード陣の話を聞いて感心したのは、誰もが「慎さんのスクラム」を信じ切っていたことである。これは強い。誰も迷いが微塵も感じられなかった。慎さんのスクラムのメソッドを信じ、遂行する。少々うまくいかなくても、「信は力なり」なのだ。信が結束となり、崩れながらも、相手を押し切るのだった。あぁ〝慎は力なり〟。

長谷川慎さんのスクラムのキーワードは「スクラムファースト」である。スクラムを一番に考えよう、というフォワードの意思統一だ。スクラムはワンチームが8人で組む。フォワードはまず、スクラムを意識し、スクラムの押しに徹するのだ。

W杯の日本代表のスクラムを見れば、よくわかる。とくにスクラムの位置での構えに注目してほしい。相手より先にスクラムの位置に集まり、それぞれがバインドし、スパイクのポイントを芝にかませ、背筋を伸ばしている。フロントローは下から相手をにらんでいる。構えから、8人の足の位置、角度、肩と肩を組み合わせるバインディングの強度、相手との間合いなどディテール(細部)が決め事として積み上げられ、意思が徹底されているのだ。

クラウチ(しゃがんで)。バインド(相手と自分の手を合わせて)。セット(組んで)。そのレフリーの3つのコールに合わせ、どんとスクラムを組む。相手ボールのスクラムなら、うしろの3人(ナンバー8と左右のフランカー)も、スクラムハーフから「ブレイク!」との声が出るまで、必死で押し続けている。ディフェンスに早く回ろうと、ブレイクしやすいように肩を浮かしている選手はまず、いなかった。

ポイントは、それぞれの接触面の意識である。プロップとフッカー、フロントローとロック、プロップとフランカー、ロックとナンバー8。効率的に相手にプレッシャーをかけるため、肉体の接触面のカベをガチッとつくり、重心を前に移す。とくに両フランカーは低い姿勢で肩をプロップの臀部の下部にしっかりあて、プロップを押し込んでやる。この強弱は大きい。

慎さんのスクラムとは? と聞けば、具智元は短く、言った。

「8人で組んで、〝待ったら負け〟のスクラムです。ヒットもそうですけど、押されるのを待つのではなく、自分たちから攻めていく。相手より、いいポジションでセットしてから、こっちが100%、相手は70%の窮屈な姿勢をつくらせるスクラムです」

フッカーの堀江は〝慎さんのスクラム〟をこう、説明した。これまでのスクラムコーチは「8人で結束して押せ」とは言うけど、その方法論、どう押せばいいのかという詳細までは説明してくれなかった。長谷川コーチは違った。

「自分たちひとりひとりに明確な仕事があって、それを僕らに提示してくれて、どうやれば押せるかという方法を教えてくれた。そうやってつくられたスクラムが、ま、いわば慎さんのスクラムです」

スクラムの間合い

要は自分たちの優位な姿勢でスクラムを組むことが重要となる。大相撲でいうところの「立ち合い」と似ている。そのためには、日本代表フロントロー陣と、相手フロントロー陣との組む前の距離もポイントとなる。

「間合い」――慎さんはその日本語を日本代表の共通言語とした。「ギャップ(間隔)」とは違う。日本代表フォワードは、韓国出身の具智元ほか、トンガ出身、ニュージーランド出身、オーストラリア出身、南アフリカ出身と6カ国の多国籍から成っている。

練習から、あえて「間合い」という言葉を使っていた。「間合いはほんと、大事ですね」と、日本代表の勝利に陰で貢献したフッカーの北出卓也はW杯終了後、説明してくれた。W杯メンバーながら、出場機会は一度もなかった。練習相手に徹した。1992年9月生まれのほんものの〝チームプレーヤー〟。

「(組む前の)相手との距離です。そこで、いいポジションをとれるかどうかで、いいスクラムを組めるかどうかが、ほぼ決まってきます。日本は相手(フロントロー)の頭の少し下を狙って組みますが、その時の間合いは微妙で、組む直前、ちょっと間合いを詰めて……。頭と頭の距離がすごく大事なのです」

具智元は「間合いとは、日本に有利なギャップだと理解しています」と言った。

「慎さんの間合いとは、自分たちに有利なスペースなのです。構えた時、先に(相手との距離を)詰めて、いい姿勢をとる。これをいつも、意識していました」

稲垣はこうだ。間合いとは?

「相手に70%の力で組ませる。からだの重いチームはプレッシャーを〝バインド〟(のレフリーのコール)の時点でかけてくる。それをさせないため、僕らが早めにセットして、相手が少し下がらざるをえない状況をつくりだす。この時に生まれるスペースを〝間合い〟って言うのです」

堀江はまた、微妙に表現が違う。間合いとは?

「相手が嫌がる感じですかね。相手の間合いになるとやられるので、相手が嫌がる、自分たちの間合いをとるということです」

すなわち、間合いとは、剣道でいうところの、剣先(けんさき)がわずかに交差した距離の「一足一刀の間合い」とも似ている。一歩踏み込めば相手を打突(だとつ)できるのだった。

組む前の相手との距離に関していえば、W杯直前の2019年7月、ラグビーの国際統括団体のワールドラグビー(WR)はスクラムのルール変更をしていた。厳密には、ルール解釈か。スクラムでは、レフリーの「クラウチ」「バインド」「セット」の3コールで組まれているが、レフリーの最後の「セット」のコールの前に、フォワード第1列の選手(フロントロー)は自分の頭を相手選手の首や肩に触れてはいけない決まりになった。

わかりやすくいえば、「バインド」で自分の手を相手のからだに触れたあと、優位に組むための頭の位置取り争いはやめようということだ。けが防止のためだろう。結果、セット前の両チームのフォワード第1列同士の間隔は少し、開くことになった。優位に組むためには、最大限のヒットスピードを生む間合いが、より大事となったのである。

強いスクラムは見た目も美しい

もうひとつ、優位に組むために大事なのは、フロントローの姿勢だろう。稲垣も、具智元も、組む前から背筋がぴんと伸びていた。組んだあと、うしろのウエイトを効果的に相手に伝えるためには背筋の伸びはマストといってもよい。強いスクラムは見た目も美しい。

スクラムの際、具智元の大きなおなかがジャージからはみ出る時があるが、これは背筋を伸ばしている証拠だ。具智元は「胸を張ることを意識している」と漏らした。

具智元の父・具東春(グドンチュン)さんはアジア最強といわれた韓国代表の名プロップだった。その父からの教えのひとつが、「胸を張ること」だったそうだ。インタビューの際、具智元は黒色のソファーから身を乗り出し、両肩をうしろに引いて、胸を突き出した。黒色のポロシャツのボタンがちぎれそうになった。

「胸を張ることは、おとうさんも、慎さんも、よく言っていた。堀江さんにも胸の張り方を教えてもらった。構えの時から、〝みぞおち〟を出すんです。みぞおちを出して、背中の肩甲骨をこう、ぎゅっと寄せると、胸が出ます。バインドする時も、肩甲骨をうしろで寄せたままで動かさないのです」

あんばい

さらにいえば、日本代表のスクラムでの共通言語には、「あんばい」という言葉もあった。日本古来の「塩梅」である。料理で使う塩加減のごとく、微妙な力のかけ具合を意味する。無理な姿勢でスクラムを組んでいると、腰やひざは緩やかな〝あそび〟をなくしてがくがくになる。どんと崩れる。つまり限界の合図だ。

フロントローは限界に行きつく前にそれを回避する。ちょっぴり余裕を持ち、「ほどほど」でスクラムを組むのだ。ここぞという時、呼吸を合わせて筋肉を緊張させる。パワーを爆発させる。限界を知らない「ほどほど」はただの委縮に過ぎない。限界を知らねば、たくましさも生まれない。

すなわち、絶妙なあんばいとは少し余力を残しておくことか。車の運転の「あそび」と似ている。お互い100%のバインドで相手につっかけてしまうと、相手にちょっと引かれると前につんのめってしまう。もちろん、バインドが弱すぎると、崩されてしまう。そこで大事なのがあんばい。相手が引いても、その場で我慢できるパワー、または相手が押してきたら、ちょっと押し返せるパワー、その微妙な力加減をあんばいと表現する。

「あんばいとは?」と聞けば、具智元は「駆け引きです」と説明した。首と肩をきゅっとしめる格好をする。

「スクラムでは、こう、自分の頭と相手の肩があたるじゃないですか。相手がめちゃ力をかけてきても、めちゃ引いてきても、僕はまず、その場にいないといけないのです。いい具合の駆け引きが、あんばいです。相手がめちゃ力をかけてきても、僕はいい姿勢を崩さないのです」

具智元の好物の豚骨ラーメンでいえば、あんばいとは、豚骨スープの塩加減、ごま油、すりおろしニンニクの微妙な量といったところか。そう言えば、「はっはっは」と豪快に笑った。

「そんな感じです。僕ら8人はいつでも前に出られる。強い姿勢を維持して、そのタイミングを計っています。相手1人が突然、思い切り出てきても、こちらは8人でいい姿勢をキープする。相手がめっちゃ強く押してきても、余裕を持って対応できる。時には耐える。相手の押しがばらけた時、8人でイッキに出るのです。それが、よか〝あんばい〟です」

堀江にとって、あんばいとは?

「体重を乗せるか乗せないかということです。(相手フロントローとの)すき間をあけなあかんので、そのすき間を常につくるために体重をかけるかかけないかというところがあんばいですね」

稲垣は。

「あんばいは、まあ、バランスですよね。かけひきとかの部分もありますけど。バランスだとちょっと、お互いイーブンみたいな感じがありますけど、そうじゃなくて、自分たちに有利のバランスですか。例えば、相手が引いたら、そのままの力だと僕らは前にいっちゃいます。そうならないよう、相手がちょっと力を緩めたら、自分たちがアジャストしていく。だから、相手がどう、どこに動いても、自分たちがアジャストできる力加減、バランス。それが〝あんばい〟です」

具智元「相手を閉じ込める」

さて、アイルランド戦の前半34分のスクラムだ。日本のフォワードのひとりひとりの役割は決まっていた。それを8人が完璧に遂行した。

日本にとってのポイントは基本的に3番(右プロップ)だった。相手3番のタイグ・ファーロング(185センチ・120キロ)は強くてうまい選手だった。だが仕掛けは相手1番(左プロップ)のキアン・ヒーリー(185センチ・112キロ)から。相手の3番は味方の1番が前に出やすいようなスクラムの形をつくる。必要があれば、少し引いてもくる。そこで、ヒーリーが外から前に出るのだった。

稲垣の述懐。

「アイルランドは1番ありきのスクラムから、3番の前にわずかなスペースが空いた時、そこからスペースをうまく自分で変えながら1番を助けることができる。(3番のファーロングはそういう)特殊な選手でした。だから、僕はうまく3番に対応しないといけない。堀江さんとうまくコミュニケーションをとって、自分らの3番(具智元)を助けたのです。とくに肩の使い方だけは意識していました」

堀江とも一緒にパソコンでその時の映像を見ながら、話を聞く。素朴な疑問。このスクラム、何が起きていたのか。

「これ、相手が先に仕掛けてきたんです、たぶん。僕らも押す準備はしていました。だから、相手が仕掛けてきた時に、僕らも仕掛け返した。相手のすき間に入っていった感じですね。(アイルランドの)1番がほとんど頭を抜いて、からだも体重も全部、左側にのせている感じなんですよ」

繰り返すが、ポイントは右プロップの具智元がトイメンの左プロップのヒーリーの押しを止めることだった。押し込まれ、外を向いたら負けだった。相手を「閉じ込めることだった」と振り返る。

「閉じ込めて、相手に力を出させないんです。そのためには、相手より早くセットして、相手よりいい姿勢で組まないといけないんです。アイルランド戦はそれができたのです」

閉じ込めるとは、バインドをきっちりして、相手の頭を自分のあごと肩と胸で固め、プレスすることである。アイルランドのスクラムは分析済みで、左プロップのヒーリーは外(ヒーリーから見たら左側)に押していく癖があった。だから、具智元は相手を閉じ込める、外(具から見たら右側)にはいかせない。他の7人が意識して、具智元を助け、全員でヒーリーの押しを止めた。

堀江「いるから、いるから」

フロントローでいえば、左プロップの稲垣が前に出ると、相手の右プロップのタイグ・ファーロングが下がり、スクラムのウエイトは回る形で流れ、相手の左プロップのヒーリーは外に出やすくなる。だから、稲垣はそれほど前には仕掛けずに、相手のファーロングを止めつつ、フッカーの堀江に寄っていく。堀江は、稲垣とうしろのバックファイブ(ロックとフランカー、ナンバー8)のウエイトをもらって、トイメンのフッカーのロリー・ベスト(180センチ・110キロ)の力を殺しつつ、右の具智元をサポートした。

日本のフォワードの押しはまっすぐな〝矢じり〟のようなイメージだった。アイルランドのボールが投入される。じわりと押しにかかる。でも、日本の矢じりはさらに結束を強くする。動かない。8人同士の力が拮抗する。大相撲でいえば、がっぷり四つの状態である。

ここが頑張りどころだ。堀江が右の具智元に声を出した。

「いるから、いるから」

つまり、堀江は具智元の左についているから大丈夫だ、という意味だった。堀江はスクラムを組む前、「俺が横におるから、変に自分で前にいくな」と具に注意していた。

「スクラムを押さなあかん、何かやらないとあかんとか、1人で勝手にやり始めるとスクラムが崩れる。だから、〝僕がそばについているから、いい姿勢でおれ〟って」

いるから、いるから。その声に後押しされるように、具智元はじわりじわりと前に出た。相手のフロントロー陣がばらけた。トイメンのヒーリーが外にずれた。

堀江が短い声を発した。

「今!」

具智元は、ばらけた相手の左プロップとフッカーの間に割って入った。具智元の述懐。

「相手の押しが流れた時、前が空いたのです。割れた。ふわっと軽くなって、相手がいなくなった感じでした。その瞬間でした。〝今!〟って、声がかかった。その時、ちょっと内(日本から見て左)にいってから右にいって相手を崩したら、前が切れて、自分たちがスッと前にいけたのです」

左から右。まっすぐ。相手フロントローの押しの方向を崩すだけで、うしろのウエイトが減少する。だから、具智元は相手のウエイトが消えた、と感じた。そのチャンスを逃さず、どどっと前に出た。

堀江は「相手が仕掛けてきた瞬間に、すき間があいたから、そこにグーくん(具智元)が入っていったんです」と振り返った。

大相撲でいえば、がっぷり四つからの左右の差し手、上手の崩し、柔道でいえば、引き手、上手の崩しだろう。そのあと、日本のフォワードは前に出て、アイルランドを押し崩した。コラプシングをもらった。

「今!」の発声のタイミングは? と聞けば、堀江は苦笑いをつくった。

「いやいや、たぶん、僕は〝今〟とは言ってないですよ。ははは。ただ、今だ、今いけとは思っていましたよ」

さらに映像をよく見れば、このスクラムは、相手のコラプシングの笛が鳴ったあと、日本が前に出ながら、顔を上げるタイミングが一番前に出た3番の具智元から、それに続く2番の堀江、そして1番の稲垣の順になっていた。フロントローは横1列ながら、稲垣がわずかに下がって見える。そう指摘すると、稲垣は「はい」と満足そうな顔をつくった。

「だから、僕がここで、真っ先にまっすぐ上がって(前に出て)いたら、僕らのペナルティーだったんですよ。僕は出られる状況が常につくられているんです。でも、そこで出てしまっていいのかどうか。出ることが最善なのか。結果的に出ることが最悪になることもあるんです」

これは、研究、練習の成果だった。日本代表は、2017年の日本代表×アイルランド戦(静岡・日本●22―50、東京・日本●13―35)の映像、最近の欧州6カ国対抗の映像、このラグビーW杯のアイルランド×スコットランド戦(アイルランド〇27―3)のスクラムを徹底分析していた。具智元が説明する。

「2年前のアイルランド戦に自分は出場していなかったけれど、向こうがスクラムでは左右どちらかに崩してから押してくるのはわかっていました。スコットランド戦を見たら、(左プロップの)ヒーリーが回しながら、押してくるのがわかったので、もう、回させないため、とくに早く、相手よりいい姿勢をとって組みこんで回させないぞって。一番大事なのは8人で組むことでした」

仮想アイルランド「フォア・ザ・チーム」

さらにいえば、日本代表は初戦のロシア戦後の1週間、アイルランドのスクラムに照準を絞っていた。控えメンバーは仮想アイルランド選手となって、練習ではスクラムを組んだ。メンバーから外れた悔しさを押し殺し、「フォア・ザ・チーム」に徹した。

日本代表のヒーリー役は、中島イシレリだった。フッカー役が北出卓也、右プロップのファーロング役が木津悠輔だった。練習で、アイルランド役のフォワードは、日本代表では絶対やらないような回しにいったり、崩しにいったりしてくれた。時には相手側は10人で組んだ。試合前日のキャプテンズ・ラン(キャプテンのリードによる公式練習)、スクラム練習は2、3本だった。

具智元が思い出す。

「もうアイルランドのイメージはできていました。完璧でした。不安ありません。自信を持って、試合に臨めました」

伏線となったファースト・スクラム

伏線は、日本×アイルランド戦の前半19分、相手ボールのスクラムだった。位置が、日本陣の10メートルラインあたりの右中間だった。ここで、日本はアイルランドに押し込まれた。いや、そう見えた。だが、実は右に回されているだけだった。日本はまっすぐに組んでいる。なのに、日本はコラプシングのペナルティーをとられた。

映像で見ると、具智元は「なぜなのだ?」と口をとがらせている。右プロップの述懐。

「あのスクラムは、感覚的には全然、悪くなかった。相手が回しているだけじゃないかって。堀江さんに言ったら、〝今ので大丈夫だ〟って。〝自分がついていくから、相手を押さえてくれ〟って言われたのです」

 堀江の証言。

「あれは、やっていることは合っていたのです。1発目でペナルティーを日本がとられて、それで自分たちが間違っているとか、変にどうしようとか思わんといてくれと周りには言いました。このままでいい。どっかで絶対、(相手の)穴が開きはじめるから、そこを狙っていこうって」

具智元、咆哮のワケ

日本代表はその後の前半34分、アイルランドのスクラムを押し崩した。コラプシングの反則をもぎとった。具智元はうれしくて、うれしくて、右手を頭の上から振り下ろす、派手なガッツポーズを見せた。

パソコンで試合の動画のその場面を見てもらうと、具智元は「最初は恥ずかしくて、録画を見る時、(この場面は)スキップしていました」と苦笑いをつくった。

「今だから、見られるんですけど……。(ガッツポーズは)気づいたら、やっていました。僕の人生で最高のガッツポーズです」

堀江も右こぶしを振り下ろしている。個性的なドレッドヘアが波を打った。パソコン画面の自分の歓喜の姿を見つめながら、フッカーは鷹揚(おうよう)に笑った。

「そりゃ、うれしいですよ。なんというか、向こう(アイルランド)が、スクラムで押されるかもしれないというメンタルになるので。こいつら強いと。バックスにも影響を与える。きょうはスクラムが押されるんやって。ディフェンスが意識的に縮まるんです。すべてに関して、日本にいいように回り出す。たしか、〝よっしゃ〟という感じがしました」

このスクラムを押し切った時、稲垣は髪を振り乱し、奥歯を噛みしめている。まるで鬼の形相。「試合は戦場」と考える左プロップはパソコン画面を見ながら、つぶやいた。コラプシングの笛の瞬間は?

「うれしかったんじゃないでしょうか。ただ、切り取ってみれば、ひとつのプレーですし、一喜一憂している場合じゃないでしょ。あまり、試合中、感情を見せるのは好きじゃないんです、正直いうと」

稲垣、スパイクのポイントの長さを前後半で替える

日本代表のフォワード陣がスクラムの細部にこだわるエピソードをひとつ。

フォワード選手の多くは、スタジアムの芝のグラウンドに合わせ、試合ごと、スパイクの金属製ポイント(スタッド)の長さを変えている。ラグビーW杯の会場の芝の長さはほとんど25~27ミリで、サッカー場の10~20ミリ程度と比べると長い。スクラムの際は、スパイクのポイントが芝をしっかり噛む(絡む)かどうかが重要となる。

そのため、長谷川スクラムコーチは事前に試合会場となるスタジアムの芝を入念にチェックし、選手たちに状態を説明していた。完璧主義の稲垣の場合、ポイントは17ミリ、18ミリ、21ミリの3足のスパイクをいつも、準備している。うち、2足を選んで試合会場に持っていく。

初戦のロシア戦(東京スタジアム)は18ミリ、アイルランド戦(静岡・エコパスタジアム)も18ミリ、サモア戦(豊田スタジアム)が17ミリ、準々決勝の南アフリカ戦(東京スタジアム)は18ミリのポイントのスパイクを履いて、スクラムを組んだ。

台風の影響でグラウンドが水浸しになっていたスコットランド戦(横浜国際総合競技場)では、稲垣は21ミリのポイントのスパイクで試合にのぞんだ。だが、予想した以上にグラウンド状況がよかったので、ハーフタイムで18ミリのポイントのスパイクに履き替えた。

総じて、スパイクのポイントは長ければ芝を噛みやすいがランニングでは疲れが蓄積されやすい、短ければその逆で芝を噛みにくくなるが、走りやすくなる傾向にある。

稲垣は試合ごと、必ず、ロックにもスパイクのポイントを見せてもらっていた。ポイントが短いとウエイトが定まらない時があるからだ。稲垣のうしろにつく、4番のロック、ヴィンピー・ファンデルヴァルトとは、こういった会話をしたこともあるそうだ。

「そんなちっちゃいポイントつけて、(スクラムを)押せるのか」
「ダイジョウブだ」
「絶対、ムリ、ムリ。変えて、変えて」
「これ以上、長いポイントだと走れない」
「いや、走れるよ。走る、走れないじゃないよ、走ればいいんだ」

日本スタイルのスクラムではロックの足の位置の1センチ、2センチにもこだわった。レフリーのバインドのコールの際、ロックがひざを上げる時、スパイクのポイントを芝にガチっと噛ませているかどうか。

噛ませていないと、と稲垣はおごそかな口調で言った。

「それだけで、僕のおしりとロックの肩のコネクションがずれるんですよ」

スクラムにはラガーマンの喜怒哀楽が満ちている。いわば人生哲学でもある。奥が深い。スクラムとは、と聞けば、堀江は考え込んだ。「なんやろう。うまいたとえがないですね」。2015年W杯の時のフランス人のダルマゾ・スクラムコーチの「心臓」という言葉を出せば、「そんなもんやと思います」と賛同した。

「ゲームの主導権を握れるかどうかは、スクラムの優劣が大きいから」

同じ質問。稲垣は「スクラムってラグビーであって、別の競技みたいなものです」と答えた。「そう、スクラムというひとつの競技みたいな。スクラムだけは、ラグビーとは別個に考える必要があるんじゃないですか」

笑わらない男の顔が少し、ほころんだように見えた。

「スクラムの楽しさを伝えるのが、一番、難しいと思います。やっている方は楽しみとはとらえてないですけど」

それはそうだろう。

「スクラムで相手にプレッシャーをかけた時、相手チームに与える影響というのははかりしれないですね」

はっきりいいたい。日本代表のラグビーW杯でのベスト8進出の原動力はスクラムだった。2019年の流行語大賞にも輝いた「ONE TEAM」の象徴はスクラムだろう。フォワード一丸のセットピースだった。

日本代表は国内初開催のラグビーW杯の5試合で結局、マイボール30本、相手ボール40本、合わせて70本のスクラムを組んだ。時間帯、エリア、スコアによって、それぞれのスクラムにはゲームの流れにあっての位置づけがある。戦略、ストーリーがある。

1本1本のスクラムにおいて、フィジカル勝負、心理戦、頭脳戦が展開されていた。フォワード合わせて約1トンの肉体の塊のぶつかりあいのウラで何が起きていたのか。とくに伝統工芸のごとき技がつまった日本スタイルのスクラムにスポットライトを当て、その深遠なる戦いをつまびらかにする。■




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