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「年長者ほど能力も見識も高い」という前提はもはや成立しない―山口周著『劣化するオッサン社会の処方箋』

光文社新書編集部の三宅です。50歳です。

これから数回にわたって、『ビジネスの未来』(プレジデント社)が大反響を呼んでいる山口周さんの既刊の内容を紹介していきます。既刊本のタイトルは『劣化するオッサン社会の処方箋』(光文社新書)。強烈なタイトルですね。初版発行は2018年9月です。

ひとつ注意していただきたいのは、タイトルの「オッサン」は、必ずしも男性中高年を指しているわけではない、ということです。本書の「オッサン」の定義は、これから紹介する「はじめに」の冒頭に出てきます。「はじめに」の後に目次、第1章と続きます。

はじめに──本書におけるオッサンの定義

本論に入る前に、本書における「オッサン」の定義を明確にしておきたいと思います。というのも、「オッサン」という言葉のもとになっている一般名詞「オジサン」が、中高年の男性を指す一般名詞である以上、これらすべての人を十把一絡げにして議論するのはさすがに無理があると思うからです。

つまり、本書で用いる「オッサン」という用語は、単に年代と性別という人口動態的な要素で規定される人々の一群ではなく、ある種の行動様式・思考様式を持った「特定の人物像」として定義される、ということです。しかして、その「特定の人物像」とは次のようなものです。

1:古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する

2:過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない

3:階層序列の意識が強く、目上の者に媚び、目下の者を軽く見る

4:よそ者や異質なものに不寛容で、排他的

* この人物像の定義はNewsPicksの記事「さよなら、おっさん社会」をもとに、筆者が加筆・修正したものを用いています。

上記をお読みいただければすぐにわかるとおり、中高年の男性として分類される人であっても、この「人物像」に該当しない人は数多く存在します。これを逆にいえば、いわゆる「オジサン」に該当しない年代の人であっても「オッサン化」している人がいくらでも見つけられるということでもあります。

したがって、本書が以降のページで考察の対象とするのは、あくまでも、このような傍若無人な振る舞いをして自らを省みることのない人々であり、その内容は必ずしも「中高年の男性=オジサン」全体に適用されるものではない、ということをここに断っておきます。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心のありさまを言う。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯えをしりぞける勇気、安易を振り捨てる冒険心、これを青春と言う。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて人は老いる。
サミュエル・ウルマン「青春」

目  次

はじめに──本書におけるオッサンの定義  

第1章 なぜオッサンは劣化したのか──失われた「大きなモノガタリ」   
最近の古いもんはどうなっているのか/なぜオッサンは劣化したのか/二十代の経験の重要性/教養世代と実学世代のはざま/教養世代が退場したあとの世界/『構造と力』はなぜベストセラーになったのか/「大きなモノガタリへの反抗」から「大きなモノガタリへの適応」へ/上層部と実行部隊の乖離/「アート・サイエンス・クラフトのバランス」の重要性/アートにもサイエンスにも弱いオッサンたち

第2章 劣化は必然   
組織トップは宿命的に劣化する/二流の権力者は一流を抹殺する/組織もまた構造的宿命として劣化する/トンビは鷹を生まない/組織が「大きく、古くなる」ことで劣化はより顕著になる/今は第三次ガラガラポン革命の前夜/次の80年後は2025年

第3章 中堅・若手がオッサンに対抗する武器   
革命の武器はオピニオンとエグジット/オピニオンもエグジットもしないのは不祥事に加担するのと同じ/「人的資本」+「社会資本」=「モビリティ」を高める/オピニオンとエグジットの欠如は年長者を甘やかす/オリンパスの粉飾決算事件/オピニオンとエグジットを行使できない人々/モビリティの低さ

第4章 実は優しくない日本企業──人生100年時代を幸福に生きるために   
日本の大企業は外資系よりも残酷/組織が大きくなるほど出世の確率は下がる/仕事人生の前半戦で「ゲームオーバー」する人々/「3ステージモデル」から「4ステージモデル」へ/罪作りなシステム

第5章 なぜ年長者は敬われるようになったのか   
年長者は本当に偉いのか/イノベーションランキングと宗教/権力格差指標/画期的なアイデアを生み出すのは若い人/若い人に権力を渡せばいい/宗教の影響/権力格差が年長者を甘やかしている/支配の根拠/出世したのだから優秀なのだろう、は危険な考え方/年長者の本質的な価値とはなにか/「データベース」としての役割/年長者の価値を毀損する三つの理由/社会変化のスピードの速さ/流動性知能と結晶性知能/情報の普遍化/姥捨山とブラックスワン問題/寿命の増進/大きな変革が求められる社会システム

第6章 サーバントリーダーシップ──「支配型リーダーシップ」からの脱却   
サーバントリーダーシップの時代へ/パラレルキャリアの走り/支配型リーダーとサーバントリーダーの違い/必要なのはリーダーシップのパラダイムシフト/若手がリーダーシップを発揮する組織へ/リーダーシップは「関係性」/サーバントリーダーはバカでも構わない──白瀬矗と大隈重信/大きな支援のできる大物の欠如/潰されかけた新幹線プロジェクト/国鉄総裁のサーバントリーダーシップ/本当の結晶性知能=教養/知識の旬の長短を見分ける方法/反脆弱性

第7章 学び続ける上で重要なのは「経験の質」   
経験で大事なのは「量」よりも「質」/クリエイティブなシニアは挑戦し続けている/職場での「良い経験」が成長のエンジン/なぜ「次世代」は育たないのか/リーダーシップの停滞/経団連は「劣化するオッサン」の象徴/人材獲得競争の「談合」/茶番の終焉/権力の終焉する時代/弱体化しているときこそ、権力は支配力を強めようとする/知的にマルハダカな人

第8章 セカンドステージでの挑戦と失敗の重要性   
後半にシフトする「人生のピーク」/カギはセカンドステージの経験/学びの密度を上げる/なにかを止めないと、なにかにチャレンジできない/セカンドステージで輝かなくてもいい/クライバーンとポリーニ/論理思考の愚かさ/大事なのは成功することではなくチャレンジすること/フローは幸福の条件/「分野」と「スキル」のマトリックス/学びの量は失敗の回数に正相関する/安定は不安定、不安定は安定/逃げる勇気

最終章 本書のまとめ   
1:組織のトップは世代交代を経るごとに劣化する/2:オッサンは尊重すべきだという幻想を捨てよう/3:オピニオンとエグジットを活用してオッサンに圧力をかけよう/4:美意識と知的戦闘力を高めてモビリティを獲得しよう/オッサンが輝かないと社会は良くならない/どうすれば輝けるか/なにかを始めるのに遅すぎることはない

第1章 なぜオッサンは劣化したのか──失われた「大きなモノガタリ」

最近の古いもんはどうなっているのか

「最近の若いもんはなっていない」という嘆きは古代の頃から延々と囁かれていたようで、エジプトの遺跡にも同様の落書きが刻まれている、という話を以前に読んだことがあります。

もし本当に、古代以来、連綿と「若者の劣化」が続いていたのだとすれば、現在の若者のレベルは悲惨なほどの低水準にまで落ち込んでいるはずなのですが、もちろん、実際にはそのようなことにはまったくなっていません。

ということで、このような嘆きは、いつの時代にあっても、その社会の「古いもん」からすると、若者というのは不謹慎で心もとないように見えるものだ、ということなのでしょう。

ところが昨今の日本においては、上記の嘆きとはまったく反対のことが、いろいろなところで囁かれています。それはすなわち、

「最近の古いもんはいったいどうなっているのか」

という嘆きです。

皆さんもよくご存知のとおり、昨今の日本では、50歳を超えるような、いわゆる「いい年をしたオッサン」による不祥事が後を絶ちません。

例を挙げていけばキリがないので、ここではこの1年ほどのあいだに起きた「オッサンの劣化」を象徴的に示す不祥事を確認するにとどめます。

・日大アメフト部監督による暴行指示と事件発覚後の雲隠れ
・財務省事務次官や狛江市市長などの高位役職者によるセクハラ
・神戸市や横浜市の教育委員会等によるいじめ調査結果の隠蔽
・財務省による森友・加計問題に関する情報の改竄・隠蔽
・大手メーカーによる度重なる偽装・粉飾・改竄
・日本ボクシング連盟会長による助成金の不正流用や暴力団との交際

これらの社会的事件のほかにも、「オッサンの劣化」を示す小事件は枚挙にいとまがありません。例えば、各種メディアの報じるところによると、駅や空港、病院などの公共の場で、ささいなことに激昂して暴れたり騒いだりするオッサンが後を絶たない。

民営鉄道協会が発表している平成27年度に発生した駅係員・乗務員への暴力行為に関する調査集計結果によると、加害者の年齢構成は、六十代以上が188件(23.8%)と最多で、これに五十代による153件(19.3%)が続いている一方、一般に感情のコントロールが上手にできないと考えられがちな「若いもん」、つまり二十代以下の数値は127件(16.0%)となっていて全年代でもっとも少ない(平成28〜29年度も、六十代以上が最多という傾向は変わらず)。

本来、社会常識やマナーの模範となるべき中高年が、些細なことで激昂して暴れているわけで、まったくこの世代の人たちの人間的成熟はどうなっているのだろうかと考えさせられます。

同様の傾向は、ほかの交通機関・公共機関でも見られます。少し古い記事ですが日本経済新聞による報道を抜粋してみましょう。

「1席くらい空きがあるだろう。なぜ乗せないんだ!」。今年3月、羽田空港の国際線ターミナルで怒声が響いた。航空会社のカウンターで中年の男性が激高し、カウンターの壁を蹴って損傷させた。男性は予定より早く空港に到着したため早い便への変更を求めたが、あいにく満席だった。「残念ながら席がございません」と謝る空港職員に腹を立てた末の蛮行。結局、この男性は10万円近い修繕費を支払う羽目になった。
機内での迷惑行為の加害者も「圧倒的に中高年男性が多い」(日本航空お客さまサポートセンター)。04年の航空法改正では迷惑行為をする悪質な乗客には罰則が科されるようになった。トラブルで多いのが化粧室内での喫煙や携帯電話の使用。大半の乗客は客室乗務員が注意をすると素直に従うが、指示に従わず「うるさい」とキレる客もいる。
病院でも、中高年男性によるトラブルが増えている。「指示に従って入院しているのになんで治らないんだ」。都内の大手病院に乳がんの疑いで入院した患者の夫(50代)は回復しない妻の容体にイライラを募らせ、担当医と看護師に怒りを爆発させた。医師が病状を説明しても納得せず、次第にエスカレート。2時間以上も医師と看護師を拘束し大声で怒鳴り続けるなど、常軌を逸した行動を取った。
日本経済新聞夕刊(2011年11月30日)

春秋時代に活躍した中国の思想家、孔子は『論語』のなかで自らの人生を振り返り、五十代・六十代について「五十にして天命を知る、六十にして耳順う」と書き残しています。

これはすなわち、五十代では自らが果たすべき社会的な使命を認識し、六十代ではどんな意見にも素直に耳を傾けられるようになったという意味です。一方で現代の日本に目を転じてみれば、私たちの社会の五十代・六十代のオッサンたちは、社会的使命を認識するどころではなく、まるで幼児のように些細なことにキレて暴れまわっているわけです。この人たちが人間的に成熟するのは、いったいいつなのでしょうか。

没落してゆく民族がまず最初に失うものは節度である。
シュティフター『水晶』

なぜオッサンは劣化したのか

そもそも、なぜここまで「オッサン」は劣化してしまったのでしょうか。

こういう世代論は実証的な検証が難しく、最後には不毛な「そう思う」「そう思わない」という水掛け論になることが多いので個人的にはあまりそそられないのですが、筆者が一点だけ、以前からどこかでちゃんと考えなければいけないと感じているのが、現在の五十代・六十代の「オッサン」たちは、「大きなモノガタリ」の喪失以前に社会適応してしまった「最後の世代」だという点です。

下図を見てください。これは横軸に戦後から現在までの「年代」を、縦軸に二十代から六十代までの「世代」をとり、各世代の人々が、各年代において、どのような社会的立場で過ごしてきたかをまとめたものです。

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もちろん、個別企業・個人の状況は千差万別なので、あくまでも全体的な傾向ということで大きなストーリーをつかみ取ってもらえればと思います。

同図を見てまずわかるのは、図中においてグレーで強調されている世代、つまり戦後の復興と高度経済成長を支えたリーダーたちは、まさに「大きなモノガタリ」つまり「いい学校を卒業して大企業に就職すれば、一生豊かで幸福に暮らせる」という昭和後期の幻想の形成とともにキャリアの階段を上り、「大きなモノガタリ」の終焉とともに、社会の表舞台から退いていった、ということです。

現在でも多くの関連書籍が出版され続ける田中角栄、盛田昭夫、本田宗一郎といった昭和期のリーダーのほとんどすべてが、このセルに含まれているという点は、重大ななにかを示唆していると思います。

一方で、現在の「劣化したオッサン」についてはどうでしょうか。

現在六十代の人は1970年代に、現在五十代の人は1980年代に社会人となり、それぞれの二十代・三十代をバブルの上昇景気がとどまるところを知らないと思われた80年代、つまり「大きなモノガタリ」が、長い坂の上にまだ存在していると思われていた「最後の時期」に過ごしています。

昭和の高度経済成長を支えた一流のリーダーたちが、二十代・三十代を戦後の復興と高度経済成長のなかで過ごしたのに対して、現在の「劣化したオッサン」たちは、同じ年代をバブル景気の社会システム幻想、つまり「会社や社会が示すシステムに乗っかってさえいれば、豊かで幸福な人生が送れる」という幻想のなかで過ごしてきたのです。これは人格形成に決定的な影響を与えたと思います。

二十代の経験の重要性

二十代の経験や考え方が人生にどのように影響を与えるのか、という問題については様々な研究がありますが、ここでは最近大きな脚光を浴びた臨床心理学者のメグ・ジェイの主張を取り上げてみましょう。

メグ・ジェイは、新刊『The Defining Decade: Why Your Twenties Matter and How to Make the Most of Them Now』やTEDの講演などで、二十代は、「Defining Decade」、つまり「人生を決定付ける10年間だ」と指摘しています。

大学卒業後のこの時期は非常に重要な期間であり、その後のキャリアを形成するための知識やネットワークの構築、マインドセット(考え方の枠組み)の書き換えなど、言うならば、「人生を生きるためのOS」を作る時期に当たる、というのがメグ・ジェイの主張の骨子です。

この貴重な二十代を、バブル景気に浮かれる世の中で「会社の言うとおりにやっていれば金持ちになって別荘くらいは持てるさ」という気分のなかで過ごしてしまったことは不幸だったとしか言いようがありません。

現在、いろんなところで「劣化したオッサン」に関する議論が行われていますが、その大勢はそれらの「オッサン」個人に劣化の要因を帰するものです。

しかし、「大きなモノガタリ」の喪失前に二十代という「社会や人生に向き合う基本態度=人格のOSを確立する重要な時期」を過ごしたのちに、社会からそれを反故にされた世代なのだということを考えれば、彼らが社会や会社に対して「約束が違う」という恨みを抱えたとしてもおかしくはありません。

まだ間に合うときに、だれもきみの肩をつかんではくれなかった。いまや、君が形づくられた粘土は乾き、固くなってしまった。こんご、きみのうちなる何者も、おそらくは最初きみに宿っていたはずの、眠れる音楽家、詩人、あるいは天文学者をめざめさせることはできないだろう。
サン=テグジュペリ『人間の土地』

教養世代と実学世代のはざま

加えて指摘しておきたいのが、2018年時点で五十代・六十代となっているオッサンたちは、70年代に絶滅した「教養世代」と、90年代以降に勃興した「実学世代」のはざまに発生した「知的真空の時代」に若手時代を過ごしてしまった、という点です。

教養世代というのも奇体な言葉ですが、平たくいえば「教養の習得に価値を置く世代」ということになるでしょうか。社会学者の竹内洋は著書『教養主義の没落』のカバーのソデに次のように書いています。

一九七〇年前後まで、教養主義はキャンパスの規範的文化であった。それは、そのまま社会人になったあとまで、常識としてゆきわたっていた。人格形成や社会改良のための読書による教養主義は、なぜ学生たちを魅了したのだろうか。
竹内洋『教養主義の没落』

筆者は1970年生まれなので、この時期にどのような空気が大学キャンパスを支配していたのかはよくわかりませんが、同書に掲載されている京都大学での調査を抜粋すると、次のような具合だったようです。

教養書を平均月に何冊読むかというアンケートがなされた。教養書というような言葉がそのままアンケート調査の質問に使われること自体が教養主義の存在を直截に示しているのだが、アンケートによると、一〇日に一冊は教養書を読んでいることがわかる。ほとんど読んでいないと答えたものは一・八パーセントにすぎなかった。
竹内洋『教養主義の没落』

ほとんどの学生が教養書を日常的に読んでいるというのは、今日の状況からは想像できませんが、この価値観は急速に失われて、70年代の半ばから80年代にかけ、学生はどんどんバカになっていきます。

その現象を象徴的に示す言葉として、当時マスコミで盛んに揶揄されたのが「大学のレジャーランド化」という表現でした。

レジャーランドという言葉が大学の状況を示す文脈ではじめて用いられたのは1985年の朝日新聞の記事であり、1986年刊行の『現代用語の基礎知識』では「レジャーランド」の項目に、はじめて「①娯楽や遊びの施設がある所。②遊び学生が遊んで過ごす今日の大学」という説明が記載されます。

ここにきて「教養世代」は絶滅し、90年代以降の「実学世代」の黎明までの10年間を「知的真空」の状況が継続することになります。

「教養世代」に対置される「実学世代」というのは、「実学の習得に価値を置く世代」ということになります。平たくいえば経営学や会計などの「手っ取り早く年収を上げるための学問」を重視する世代ということです。

今日では日本最大規模となったビジネススクールであるグロービス・マネジメント・スクールが設立されたのは92年のことで、これ以降、大学をはじめとした教育機関で実学重視へのシフトが急速に進むことになります。

このような価値観が学生のあいだで支配的になった理由は容易に想像できます。

ソコソコの大学を出てソコソコの会社に入ってソコソコに頑張っていればお金持ちになって幸せになる、という昭和の「大きなモノガタリ」が喪失されたあと、社会で支配的になった「新しいモノガタリ」が「グローバル資本主義」でした。

あらゆる国のあらゆる産業が世界中の競争相手と戦い、ごく一部の強者だけが勝ち残り、残りすべては敗者となって社会の底辺に沈んでいく、という過酷な「モノガタリ」です。

筆者自身は、この「モノガタリ」自体をあまり信用していないのですが、当時の状況を考えれば、銀行を筆頭に「ツブれるはずがない」と考えられていた多くの大企業が次々と破綻に追い込まれ、「大きなモノガタリ」のなかで安穏と暮らしていた中高年が路頭で途方に暮れているさまを目の当たりにしているわけで、このような「新しいモノガタリ」が強烈な原体験として刷り込まれたであろうことは容易に想像ができます。

教養世代が退場したあとの世界

さて、これらの世代移行、つまり「教養世代→知的真空世代→実学世代」を社会システムへの反抗と適応という観点から考察してみましょう。

一般に教養エリート文化は、社会システムを維持・継続するための尖兵として生み出されるか、その対抗軸となるレジスタンスとして生み出されるかのどちらかです。

前者の典型例は、英国のパブリックスクールおよびオックスフォード、ケンブリッジなどの一流大学ということになります。これらの学校には中流階級以上の子弟が集まり、伝統的な貴族文化やジェントルマンシップの再生産が連綿と続くことになります。

一方で日本はどうであったかというと、むしろその逆でした。

高度経済成長以降、影響力をいや増す大企業と政府(=自民党)に対抗する運動として、教養主義は影響力を発揮しました。なかでもマルクスに依拠した教養主義にはその側面が強かったといえます。つまり、1950年代から70年代までの「教養世代」は、「大きなモノガタリへの反抗」という側面が強かった。

ところが、この「大きなモノガタリ」は、70年代の後半にいたってどんどん肥大化し、そのモノガタリに適応した人たちに対して経済的な便益、それも「ウソだろ!」と言いたくなるようなレベルの便益を与えてくれるようになります。

こうなってくると、「大きなモノガタリ」に対して批判的な構えをとっていた教養主義は人をつなぎ止められなくなっていきます。

それはそうでしょう、やせ我慢をしてストイックに知的修養と思索を続けたところで、「大きなモノガタリ」に身も蓋もなくうまく乗ってしまった人の方がずっと大きな「お金」を享受できるのですから。この時期に教養主義が急速に廃れていったことは当然といえば当然のことでした。

『構造と力』はなぜベストセラーになったのか

ポスト構造主義に関する書籍である浅田彰の『構造と力』が出版されたのは1983年のことで、これがベストセラーになったことから、80年代にも教養主義は続いていたんじゃないかという考え方をする方もいるかも知れません。しかし、これはまったく逆で、そもそもベストセラーになったという事実そのものが教養主義の終焉を示しています。

読めばすぐにわかることですが、浅田彰のこの本は、いわば教養主義の死亡宣告書であり、だからこそ頻繁に「シラケる」という言葉が用いられている。

哲学や思想というのは、平たくいえば「システムを批判的に思考する技術」です。システムがこれほどまでに強力に、そこに依拠する人の便益と幸福を保証するものになってしまった以上、教養主義も哲学も思想ももはや死ぬしかない、それをわかった上で思想の解説を書いている私は、シラけながらこれを書かざるを得なかった、ということです。

教養主義が現実的な効力を発揮する武器としての力を失ったからこそ、床の間に飾られる人畜無害な飾り刀のような玩弄物としてもて囃されたということでしょう。

「大きなモノガタリへの反抗」から「大きなモノガタリへの適応」へ

このように考えてみると、「教養世代」に続く「知的真空世代」というのは、功利と便益を保証してくれるシステムに対して、無批判に自己を同化させることで、システムがもたらす便益を最大限に搾り取ろうとした人たちだと言えます。

結果的に、こういった行動がバブル景気を膨らませ、またそこに依拠した人々の知的戦闘力を大きく劣化させることになったわけですが、これは安易に批判できることではありません。

先述したとおり、周りの人々が、一人また一人とシステムへ同化・適応することでどんどん裕福になっていく、幸福になっていくのを見れば、どんな人であってもこころ穏やかに「知的修養はどうした、金儲けよりも大事なことがあるだろう」などとは言っていられなかったはずです。

ここにきてシステムは「批判的考察の対象」からはずれ、我先にと一体化を目指すもの、自分もその一部となって便益を享受させてくれるものに変容したわけです。

これを整理すれば、「教養世代」から「知的真空世代」への移行は、「大きなモノガタリへの反抗」から「大きなモノガタリへの適応」への移行として整理できることになります。

その後、皆さんもよくご存知のとおり、バブル景気の崩壊と今日まで連綿と続く日本企業の経営の迷走状態が始まり、「大きなモノガタリ」は唐突に終幕となり、「グローバル資本主義下における弱肉強食の世界」という「新しいモノガタリ」が始まります。

この「新しいモノガタリ」が提示する新しいシステムに適応しようとした人々が、「実学世代」ということになります。

実学世代では、経営学の知識と英語とプレゼンテーションスキルがもっとも重要なリテラシーとなり、人生をいかにショートカットして効率的に年収を上げるかというゲームに、いわゆる「カツマー」などと揶揄される類のナイーブな人々が大挙して参加し、そしてカモにされました。

上層部と実行部隊の乖離

さて、そのような経緯を経て成り立っている現在の社会について確認してみれば、60年代に学生生活を送った「教養世代」はすでにほとんどが引退し、社会システムの上層部では「知的真空世代」が重職を独占し、その下を「実学世代」がかためるという構造になっています。

これはつまり「古いモノガタリに適応した人」が、「新しいモノガタリ」を前提にした社会の上層部に居座って指示命令しながら、「新しいモノガタリに適応した人」が、中層から下層でその指示命令を実行部隊としてこなしているという歪んだ構造になっている、ということです。

ところがここに困った問題が起きます。

というのも、システムというのは必ず経時劣化する(2章で詳述)ので、どのようなシステムであっても、そのシステムを批判的に考察して、その改変や修正についてイニシアチブを取ってくれる人が必要なのですが、そのような教養とマインドセットを持った人材がほとんどいないという社会が発生しているのが、現在の状況なのです。

「アート・サイエンス・クラフトのバランス」の重要性

この状況を別の角度から照射すると、「アートにもサイエンスにも弱いオッサンたち」という問題が浮かび上がってきます。

筆者は前著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』で、経営における「アート・サイエンス・クラフトのバランス」の重要性について指摘しました。

未読の読者のために、ヘンリー・ミンツバーグの言葉を引いてあらためて確認すれば、経営というものは「アート」と「サイエンス」と「クラフト」の三つが渾然一体となったものであり、「アート」は、ステークホルダーをワクワクさせるようなビジョンを生み出し、組織の創造性を後押しします。

「サイエンス」は、体系的な分析や評価を通じて、「アート」が生み出したビジョンや直感に現実的な裏付けを与えます。

そして「クラフト」は、地に足のついた経験や知識をもとに、「アート」が生み出したビジョン、「サイエンス」が裏打ちした計画を現実化するための実行力を生み出します。

つまり、これら三者が渾然一体となることで、はじめて「良い経営」は実現できるということなのですが、90年代以降の経営はMBA教育の悪弊もあって過剰に「サイエンス重視」に傾斜しており、これがイノベーションの停滞、コンプライアンス違反の横行といった問題を招く要因になっている、という指摘をしました。

この枠組みを使って、先述した「教養世代→知的真空世代→実学世代」という推移を考察してみれば、「教養」が「アート」に、「実学」が「サイエンス」に対応する関係がすぐに読み取れます。「教養」はそのまま英語に訳せば「リベラルアート」となります。ここでいう「アート」には、いわゆる「美術」以上のもの、つまりリベラルアート=人をして自由に思考させる学問が含まれているわけです。

アートにもサイエンスにも弱いオッサンたち

実は、前著上梓後に様々な批判をいただいているのですが、なかでももっとも的を射ているなと筆者が感じたのは、「日本企業はアートの側面が弱いことは認めるが、しかしサイエンスの側面も弱いのではないか?」という指摘でした。

この点については、執筆時点から引っかかっていたのですが、すでにサイエンス重視からアート重視へと舵を切っている欧米先進企業と、いまだにサイエンス重視で足踏みしている日本企業との対比をくっきりと浮かび上がらせるために、半ば確信犯的に押し切ってしまったという自覚があります。

そう、おっしゃるとおりで、サイエンスの側面について一定のリテラシーを持つにいたったものの、同質性の罠に陥ってしまったために、そこから抜け出るためにアートに活路を見出している欧米企業と、いまだにサイエンスすらうまく使いこなせていない日本企業とを同列に並べて論じるのはミスリーディングなところがあったかも知れません。

つまり、ご批判の内容としては「アートが重要なのはわかる、しかしサイエンスに傾斜していると言っても、サイエンスもままならない状況ではないか、そんな状態でアートに傾斜して大丈夫なのか?」ということで、ご指摘はごもっともだと思います。

これを先ほど指摘した「教養世代→知的真空世代→実学世代」との対応関係で考察してみれば、その理由はすぐにわかります。

社会や組織におけるアートの担い手は、教養を身につけた「知的自由人」ということになるわけですが、これらの「教養世代」はすでに社会の表舞台からは引退してしまいました。一方で、サイエンスの担い手である「実学世代」は90年代以降に社会人になっているので、いまだ社会や組織の上層部で権力を握るポジションにはついていない。

この結果、「アート」にも「サイエンス」にも弱いオッサンたちが、社会や会社の上層部で実権を握るにいたっている、というのが現在の状況だと考えられます。

いやしかし待て。これは世代論としてはわかるけれども、実際には現在のオッサンのなかにも教養人はいるだろうし、人選や登用によって、いくらでも埋め合わせることはできるのではないか、という反論がありそうです。

次章ではこの問題について考察してみましょう。(続く)




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