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累計30万部突破! 中野京子さん最新刊『プロイセン王家 12の物語』序章を公開

『怖い絵』シリーズなどベストセラー多数のドイツ文学者、中野京子さんの最新刊『名画で読み解く プロイセン王家 12の物語』を5月19日(水)に発売します。
ヨーロッパの歴史を名画とともに紐解いていく、光文社新書を代表する人気シリーズで、5作累計30万部を突破。2008年に刊行した『ハプスブルク 12の物語』以来、増刷を重ねています。

長い群雄割拠時代を経て、19世紀にドイツを統一したプロイセンのホーエンツォレルン家は、帝国を形成しヨーロッパ最強国の一角に食い込みます。フリードリヒ大王とビスマルクという二人の傑物を生んだプロイセン。本書では、その激動の217年の光と闇、運、不運、そして熱い人間ドラマを、色彩豊かな名画とともに読み解いていきます。

発売を記念して、本書の序章を特別公開!
ぜひお読みください。

序章

 ドイツに対する漠然としたイメージは、森、音楽、質実剛健、金髪碧眼、勤勉、科学技術、ナチス、移民、加えてユーモアの欠如、といったところか。
 最後の点に関しては、かなり笑えるジョークがある。

「世界一薄っぺらな本は?」
「ドイツユーモアの二千年」

 このジョークの作者がドイツ人なら、ユーモアの欠如という指摘はあたらないだろう。
 もう一つ、欠如していたわけでもないのに忘れられがちなのは、ドイツ統一を果たしたプロイセン(=プロシャ)の王朝ホーエンツォレルン家だ。プロイセン即ちホーエンツォレルン家であるにもかかわらず、ホーエンツォレルンの知名度は決して高くはない(それでやむなく本書も『ホーエンツォレルン家 12の物語』ではなく、『プロイセン王家 12の物語』とした次第)。
 ホーエンツォレルン(Hohen Zollern)というドイツ語の発音自体が難しく、記憶に残りにくい上、ハプスブルクやブルボンのように美女がおおぜい活躍した王家と比べ、いかつい軍人王が主で、大スターはフリードリヒ二世(=フリードリヒ大王)とビスマルクのみ、というのも華やかさの足りない要因かもしれない。
 だがこのホーエンツォレルン家こそが、現代ヨーロッパ地図の原型を作ったのだ。何世紀も神聖ローマ帝国傘下にあり、三百もの中小「主権国家」群(王国、公国、領邦など)に分裂した状態(日本の戦国時代の群雄割拠に近い)だったドイツが、ホーエンツォレルン家歴代当主たちの奮闘により十九世紀にやっと一つにまとまり、しかもその際、本来の同胞(同じゲルマン民族)たるハプスブルク家を排除する形で独立し、世界最強国の一角に喰い込んだのだ。
 近隣諸国から見れば腹立たしいことだったろう。それまではたくさんの小さな島が浮く比較的静かな湖だったのに、気づくと島々は全てくっつき、危険きわまりない荒々しい巨大な岩山と化していた。湖で自由に釣りもできなくなった、どうしてくれる、というわけだ(ドイツの知ったことではない)。
 そんなホーエンツォレルン王朝の第一歩は、一七〇一年。スペイン継承戦争勃発時、当主がハプスブルク家の陣につくことを約束したおかげで、中規模の「公国」から小なりといえども「王国」への格上げに成功した(王朝の始まり)。ここを起点にさらに力をつけ、他の領邦を吸収してドイツ帝国を形成するに至ったが、第一次世界大戦によりハプスブルク王朝、ロマノフ王朝、オスマン王朝同様、瓦解した。九代、二百十七年間の短い光芒だった。
 短いが、しかしハプスブルク王朝消滅後のオーストリアの急激な衰退ぶりに比べ、ドイツは第二次世界大戦をも乗り超えて、現在もなお大国の座を保っている。ホーエンツォレルン家なくしてはあり得なかったろう。

プロイセン人

 ホーエンツォレルン家(当初の家名は土地の名からとったツォレルン家)の勃興は十一世紀なので、ハプスブルク家と同じほど古い。ただし前者は後者の何周分も遅れを取った。ハプスブルクの分家スペインが世界中に領土を拡げ、「日の沈まぬ国」へと驀進中の十六世紀、ホーエンツォレルン家はようやくプロイセン公国を樹立したばかりという有り様(人材不足か)。
 ハプスブルク家がスイスで生まれ、ウィーンへ移住して花開いたように、ホーエンツォレルン家も最初からプロイセンを本拠地としていたわけではない。まずはドイツ南西部シュヴァーベン地方の豪族として立ち、少し力をつけたころ――十一世紀半ば過ぎから十三世紀のどこかの時点で――海抜八百五十メートルほどのホーエンツォレルン山の頂きに築城し、ついでにホーエン(「高い」の意)ツォレルン家へと家名を変更した。

 ちなみにこの初代ホーエンツォレルン城は、十五世紀半ばの戦乱で完全に破壊。まもなく同じ場所に再建された二代目はハプスブルク家に奪われ、十八世紀末には打ち捨てられて廃墟となる。それを建て直して現今の三代目の美城にしたのは、十九世紀のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世だ。彼は王太子時代、イタリア旅行の途中で一族発祥の地にあるホーエンツォレルン城の無惨な姿を見て再建を決意したという。すでに北部プロイセン(バルト海沿岸地域)を拠点にして数世紀を経ていたにもかかわらず、子孫は己のルーツを忘れていなかったということだ。
 ところで「プロイセン人」という言葉が時々使われるが、それはプロイセン地域に住んでいたかつてのドイツ人を指すことが多い。ただ歴史的に言うならば、彼らドイツ人は土着の古プロイセン人(非ゲルマン系のプルッセン人)を追い払い、十三世紀にその地を完全に我がものにしたのである。
 理由は宗教問題。多神教の古プロイセン人は、キリスト教徒のドイツ人にとっては征伐すべき異教徒でしかない。そのため神聖ローマ帝国は宗教騎士団を派遣した。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団とともに、中世三大騎士団の一つ、ドイツ騎士団(=チュートン騎士団)がそれだ。数十年にわたる戦いを制し、ドイツ騎士団はプロイセンを支配して自領とした。こうして一種の修道会国家となったプロイセンだが、あくまでヴァチカンや神聖ローマ帝国の縛りの中にあり、トップたる総長は共和政のように選挙で決めることになっていた。
 それから二百五十年以上過ぎた一五一〇年。二十代の若者が第三十七代総長に選出される。それがアルブレヒト・ホーエンツォレルン。彼によってプロイセンは騎士団領からホーエンツォレルン家の公国となるのだが、はたしてどんなからくりで?

初代プロイセン公アルブレヒト

 このころホーエンツォレルン家はブランデンブルクまで北上してきていた。アルブレヒトの祖父はブランデンブルク選帝侯、父はその四男でアンスバッハ及びクルムバッハ辺境伯、母はポーランド王の娘だった。まだ若いアルブレヒトがドイツ騎士団総長になれたのは、ポーランドという当時最強国の後ろ盾あってのことだ。
 正式名はアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ。ホーエンツォレルン家とはいっても、四男の息子で、しかも上に兄二人もいれば傍流の、さらに傍流だ。兄はそれぞれアンスバッハ辺境伯とクルムバッハ辺境伯という世俗領主になれるのに、自分は宗教領の一代限りの総長職にすぎない。しかも十字軍の昔ならいざ知らず、ドイツ騎士団の権威はほぼ地に落ちていて、この先も光明は見られない。野心家ならアルブレヒトでなくとも突破口を探して当然だろう。幸いにしてドイツには宗教改革の嵐が吹き荒れていた。これを利用せぬ手はない。
 総長になって十年近くたつころ、アルブレヒトは宗教改革の担い手であるルターに接触する。弱肉強食の争乱時とはいえ、カトリックの守護神たる騎士団の長がプロテスタントの指導者と何を話し合うというのか?
 両者密談の後、アルブレヒトは周囲をアッと言わせる行動に出た――ルター派に改宗して神聖ローマ帝国から離れ、ポーランドにつき、その見返りに騎士団を解散して、プロイセンの領地を己のものに。
 どうやらルターの助言だったらしい。世知に長け、何ごとにも抜け目ないルターであれば、手品のごとき知恵もまわる。彼にとってはドイツのカトリック勢力が削がれ、プロテスタント国が増えるのは大いに歓迎すべきことだ。ではアルブレヒトに躊躇はなかったのだろうか? 彼の行為は騎士団領の略奪に等しい。団員への背信であり、それ以上に信仰への裏切りなのだ。

マルティン・ルター

『マルティン・ルター』クラナッハ画

 もちろん躊躇などなかった。痛む良心もない。もともとヴァチカンの坊主どもの贅沢三昧のために、贖宥状(免罪符)がドイツに売り付けられていることに立腹していた。それにアルブレヒトの目的は最初から明快で、プロイセンをホーエンツォレルン家世襲の領土にするつもりだった。ただどうしたらそれを楽にやりとげられるか、その知恵をルターに借りたかった。問題はクリアされた。ポーランドの傘下へは入らざるを得ないが、王が叔父であれば親戚筋なので、神聖ローマ帝国やヴァチカンの頸木よりはきつくあるまい。
 一五二五年、アルブレヒトはプロイセンにおけるドイツ騎士団解散を告げるとともに、プロイセン公として公国の君主となる旨、発表。ただちに神聖ローマ帝国はこの裏切り者の追放を命じたが、ポーランドがバックにいるので実質的には何ら手出しはできなかった。また騎士団団員のほとんどがアルブレヒトに従った。ここが彼の力量と言える。選挙という形ながら親族の七光りで総長になった若者を、団員らはさほど歓迎していたわけではない。それを長い時間かけて味方につけてゆき、ルターへの相談についての根回しもすんでいたのだろう。人望があったのだ。
 皆の期待に応え、アルブレヒト公は概ね善政を敷き、公国を豊かにしていった。首都に大学も創設した。ケーニヒスベルク大学だ(正式名はアルブレヒトの名を取り、アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク)。後世、哲学者カントを輩出したことで知られる。

『プロイセン公アルブレヒト』クラナッハ作、1528年(著作権OK)

『プロイセン公アルブレヒト』クラナッハ画

 ルターの親しい友人にして当代きっての人気画家クラナッハが、三十八歳のプロイセン公アルブレヒトの肖像を描いている。流行の黒い幅広帽子に宝石を飾り付け、重たげな金のネックレスを二重に巻き、豪華な毛皮付きローブをまとった姿だ。真黒なヒゲに交じる白い毛の一本一本、下唇の小さな黒子まで丁寧に描写される。目が印象的だ。わずかな斜視。これは他の画家によるアルブレヒト像にも描かれているので、彼の特徴だったのは間違いない。この斜視の目に遠い未来は見えていたろうか、自ら興した公国が、強大な帝国へと拡大してゆく未来が……。

ポーランドに臣従

『ポーランド臣従』ヤン・マティコ作、1882年(著作権OK)

『ポーランド臣従』ヤン・マティコ画

 もう一点見てみよう。
 十九世紀ポーランドを代表する画家ヤン・マテイコが描いた、横九メートル近い大作『プロイセンのポーランド臣従』。
 三世紀前の歴史の一コマだ。プロイセン公となったばかりのアルブレヒト(画面中央、甲冑姿でひざまずき、聖書に右手を置く)が、宗主国たるポーランドの王ジグムント一世(王冠をかぶり、黄金の衣装)に、うやうやしく臣従を誓うシーン。周りにアルブレヒトの兄や元団員たち、ポーランド側の臣下や宮廷女性、道化などがひしめく。
 いかにかつてのポーランドが強大であったか、愛国者マテイコは国民に知らしめ、奮い立たせたかったのだ。なぜなら黄金時代を過ぎて十七世紀から衰微する一方のこの国は、かつての「子分」たるプロイセンにやられ放題となり、本作制作中の十九世紀末にはそのプロイセンを核としたドイツ帝国の完全な抑圧下に喘いでいたからだ。
 一方、プロイセンに言わせれば、ポーランドの凋落は自業自得であった。過度に贅沢な宮廷、そして自らの既得権益を守るためなら自国を貶め、他国に売るような、まさに獅子身中の虫のごとき貴族たちの存在。そうしたポーランドの失政は、プロイセンにとって反面教師となった。プロテスタントに改宗しても騎士の心を残し、質実剛健な軍人君主による清廉なる国造りこそが望ましい、と。

中野京子(なかのきょうこ)
作家・ドイツ文学者。北海道生まれ。『名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語』『同 ブルボン王朝 12の物語』『同 ロマノフ家 12の物語』『同 イギリス王家 12の物語』(すべて光文社新書)、『怖い絵』シリーズ(角川文庫)、『名画の謎』シリーズ(文藝春秋)『残酷な王と悲しみの王妃』(集英社文庫)『美貌のひと』(PHP新書)、『そして、すべては迷宮へ』(文春文庫)など著書多数。日本経済新聞をはじめ、新聞・雑誌に多数の連載を抱える。「怖い絵」展では特別監修を務め、大人気を博す。
著者ブログは「花つむひとの部屋」 http://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006


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