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第10回 「大量に読み、大量に書く」恩田陸の書評が持つ魅力|三宅香帆

小説家による「小説以外」の書き物

小説家・恩田陸おんだりくによる「小説以外」の書き物――つまりはエッセイや書評を収録したのが、本書である。

デビュー当初から14年間にわたる、さまざまな書き物が収録されている。だがそのほとんどが、本や映画といった物語に関する文章となっている。つまり本書は、物語の作り手である恩田陸が、物語について大量に語ったその集積なのである。面白くない訳がない。すぐれた漫画家が好きな漫画について語っているとき、すぐれた映画監督が好きな映画について語っているとき、そしてすぐれた小説家が好きな小説について語っているとき、「そんな目線で物語を見ているんだ!」と驚くことがよくある。本書は、大量の本を書き続ける作家でありながら、読者としても大量の本を読み続ける恩田陸の、本を読む視点を知ることができる一冊となっている。

恩田陸は、刊行点数がとても多い作家である。1992年のデビュー以来、70作以上の書籍を刊行し、そのほとんどが小説の単行本。小説家として多作な書き手なのである。

一方で、『小説以外』のエッセイを読むと、ぎょっとするほどの量を「読んできた」人であることが分かる。

入学してから二年間は、兄と小田急線梅ヶ丘のアパートに住んでいた。仕送り生活で、なにしろサークル活動が忙しくてアルバイトをする暇もなかったから当然お金はなく、買うのは文庫本に限られたし、専ら図書館を利用した。梅丘図書館で本を借りるのがなによりも楽しみだった。もともと本好き・ミステリ好きで、簡単な読書メモは中学時代からつけていた。面白いか面白くないか、印象に残った場面はどこかくらいしか書いていなかったけれど、どんどん冊数が増えるにつれ、大学時代に千冊は読みたいなと漠然と考えるようになった。別に教養を深めるための高邁な読書計画を練ったわけではない。どちらかと言えば単なる活字中毒で、手当たり次第の乱読だった。

(『小説以外』新潮文庫、pp.203‐204)

さらっと書かれてあるが、驚いてしまうのは、「大学時代に千冊は読みたいなと漠然と考えるようになった」とあるところ。

そんな大量に読書することが習慣になっている作者が、紹介する本たち――それらは、ジャンルも国も書かれた時代もバラバラではあるのだが、共通して「面白そう」に思える。アガサ・クリスティー、スティーヴン・キング、川端裕人かわばたひろと篠田真由美しのだまゆみ萩尾望都はぎおもと……どの作家の作品についての文章も、とにかく評されている作品が魅力的に見えてくる。そう、本書の特徴は、大量の読書エッセイや書評が収録されているにもかかわらず、紹介されている本はひとつ残らず面白そうに見えるところ。

なぜ本を読む快楽をこんなふうに綴ることができるのだろう? 本書には大量の書評が収録されているのに、なぜ似たり寄ったりな文章にならないのだろう? 本書を読んでいると、そんな疑問が湧いてくる。

「あらすじ」を書かない書評

彼女の書評は、ほとんど「あらすじ」に言及していない。

書評なり読書エッセイなり、「本の紹介」を書こう、というとき。「本のあらすじ」や「本の内容」に触れずにいるのは稀だ。というか、普通は触れてしまうものだと思う。なぜならあらすじや内容を伝えずに、その本を面白そうだと読者に感じてもらうのは至難の業だから。

しかし一方で、書評を読む身になってみると、あらすじ紹介に終始している書評ほどつまらないものはない。……と言い切ってしまうと語弊があるかもしれないが、もちろん、本のあらすじを読んで「面白そうな本だな」と感じることはたくさんある。書評ではきちんと内容紹介されないとどんな本かわからない、と怒る人もたくさんいるだろう。

だが、私はどうせ書評を読むなら、その本を読んで何を考え何を感じたのか、その感想や思考を読みたいのである。その感想が魅力的であれば、自分もその本を読んでみたいと思うものだ。

『小説以外』を読んでいると、良い書評の条件とは何だろう、と考え込んでしまう。

もちろん人によって異なる答えが出てくるだろう。私の場合は『小説以外』を読むと、「ああ、この書き手は、この本を読んだら言いたいことが溢れてしまったのだな」と感じられる書評は良い書評なのではないだろうか、と思う。

反対に、悪い書評は「書かされている」感じが出てしまうものではないだろうか。やっぱり、自発的に感想が溢れ出てしまって、それを文章にまとめている、という感じがあってこそ「おお、感想が止まらないくらいこの本は面白いのか。読んでみようかな」と思えるものではないだろうか。

書評を読み、その本が読みたい、と一度思ってしまえば、あらすじや内容は読者側で勝手に調べる。だからあらすじではなく、ひたすら本を読んで考えたことを書いてくれている彼女の書評は、いつもオリジナルで、「この本、良いんだろうな」と感じられるのだろう。

孤独な作業である読書

もちろん、書評にあらすじや内容紹介を求める読者もたくさんいる。しかし書評には本から受け取ったものをひたすら書いてほしい読者もまた、たしかに存在する。だからこそ『小説以外』に収録された文章は、そんな読者の胸を打つ。

小説家は、いつもは小説を書く側にいる。しかし彼らが書評を書くときは、小説を読む側に立っている。小説家の小説の書評がときに面白いのは、彼らの、小説を読む側になることへの喜びが純粋に表現されているからかもしれない。

小説家・恩田陸は読書のことをこう評する。

読書とは、突き詰めていくと、孤独の喜びだと思う。人は誰しも孤独だし、人は独りでは生きていけない。矛盾しているけれど、どちらも本当である。書物というのは、この矛盾がそのまま形になったメディアだと思う。読書という行為は孤独を強いるけれども、独りではなしえない。本を開いた瞬間から、そこには送り手と受け手がいて、最後のページまで双方の共同作業が続いていくからである。本は与えられても、読書は与えられない。読書は限りなく能動的で、創造的な作業だからだ。

(『小説以外』新潮文庫、p.244)

この文章を踏まえて考えてみると、恩田陸の書く作品評こそ、「孤独な喜び」の集積なのだ。たとえば誰かの論文を参照したり、誰かの言葉を引用したりしない。ただただ作品から受け取った感覚や感性を、そのまま文章にしている。それは誰かと群れたり、誰かに認めてもらったりするための文章ではないのだ。ただひとりで本を読み、ひとりで感じたことを、文章にしている。

意外とこれは難しいことだ。なぜなら誰かから「その感想はおかしい」と言われたとき、頼れる味方は誰もいないわけだから。論文などを参照していれば、この人も同じようなことを主張してますよと言い返せる。しかしひとりで書く評はそうもいかない。

『小説以外』には、作家が沢山の本を読む中で、ひとりで感じ、ひとりで考えたその集積が詰まっている。だから私は本書に胸を打たれるのだろう。


著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)ほか多数。最新刊は、『妄想古文』(河出書房新社)。

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