一体誰がつくったどんな味? 「おふくろの味」ミステリーの謎を解く|湯澤規子
「おふくろの味」という世界
聞きなれた言葉であるがゆえに、実体があると思い込んでいるもの。しかし、よく考えてみると、それは実際に存在するのか否か曖昧模糊としており、もしかしたら幻想に過ぎないのかもしれないと思えてくるものがある。その一つに、「おふくろの味」という世界がある。
この本を手に取ったあなたは、「おふくろの味」という言葉から、まず、どのような世界やイメージを思い浮かべるだろうか。イメージではなく、具体的な一品を思い浮かべる人もいるかもしれない。ところが、そのイメージや一品を友人や同僚、家族などで披露し合ってみると、意外にもその多様性に驚かされることになる。
茶色っぽいおかず、ほっとする味、田舎の風景、具体的な食べものではやっぱり「漬物」でしょう、絶対「肉じゃが」ですね、いやいや「オムライス」に決まっています、「ポテトサラダ」じゃないの、という意見が飛び交うかと思えば、そもそも「おふくろの味」といえるようなものには縁がなかったという人もいる。そのため、「おふくろの味」はイメージなのか、実体なのか、それとも実際には存在しない幻想なのか、複数の意見はいつまでたっても一致する気配がない。
それなのに、私たちは何となく、「おふくろの味」といえばこういうものである、という根拠のない合意が世間一般に存在していると思ってはいないだろうか。「おふくろの味」とは何かと問われた時に出てくる答えに対して、「意外にも」その多様性に驚かされるのは、そのためである。
多様であるがゆえに、しばしばこの「おふくろの味」というキーワードをめぐって、思いがけない意識のギャップに直面することがある。例えば、そのイメージのズレとして、男性と女性という立場の違いをやや誇張した視点からいえば、次のように表現することができるかもしれない。
男にとってはノスタルジー、女にとっては導火線。
その「味」は涙や郷愁を誘ったかと思えば、恋や喧嘩の火種にもなる。
付き合いで飲んだ後の二次会で、あるいは仕事帰りの駅前で、単身赴任先のスーパーの惣菜売り場で「おふくろの味」という言葉に引き寄せられて、ついふらりと路地の暖簾をくぐったり、「おふくろの味」というシールが貼られた弁当に手を伸ばしたりする男性たち。
一方、「おふくろの味」と男性に言われようものなら、何だかよくわからないアンテナがピンと立ち、緊張したり、イライラしたり、葛藤したり、ため息をついたりしてしまうことがままある女性たち。タイミングによっては喧嘩にまで発展することさえある。
また、それとは逆に、その味を上手く使えば、男性や周囲の人から評価されることを経験的に熟知している女性は、周到なしたたかさでそれを積極的に利用することに余念がない。
たかが「味」、されど「味」と言わざるを得ない世界がそこにはある。
これはいったいどういうことなのだろうか。
なぜその味は男性にとってはノスタルジーになり、女性にとっては恋や喧嘩の導火線となり得るのか。男女だけではない。世代によっても、「おふくろの味」に対する意識には違いがみられる。その多様性ゆえに、企業の広告戦略の中に組み込まれ、メディアがそれを煽動したりもする。こうした「おふくろの味」をめぐる男女の眼差しや世代のすれ違いはどこから来るのか。本書はその理由を、個人の事情や嗜好というよりもむしろ、社会や時代との関連から解き明かしていこうというものである。
まず注目すべきは、「味」の前についている「おふくろ」という言葉と、そこに込められた意味である。「おふくろ」とは何か? 「おふくろ」とは誰か? 単純な事実から確認すれば、「おふくろ」という言葉を使うのは、男性、特に青年期以降の男性たちに限られている。にもかかわらず、この言葉がつく「味」の表現は限定的にというよりもむしろ、広く社会に認知されているのはなぜなのだろう。そこには、男性の眼差しだけでなく、女性の眼差し、そしてそれを規定する時代や社会、そしてその中における家族像が複雑に交錯している状況が見え隠れする。絡まった糸をほぐしながら、その構造を解き明かしてみたい。
しかし、それでもなお、疑問が残る。「おふくろ」という、いわば「家族内での呼び名」が、不思議な普遍性をまといながら社会に流布するようになったのはなぜなのか。そして、それはいつからなのか、という疑問である。
詳細は本文で説明するが、こと「おふくろの味」が料理本、料理番組、随筆、川柳、ドラマなど、多様なメディアの中で、一定の位置を占め始めたのは、概ね一九六〇年代半ば以降であった。それ以前にはおそらく、言葉としても、存在としても広く認知されてはいなかった。日本が高度経済成長期を迎えた頃、突如、彗星のごとく現れた言葉であったといってもよいだろう。しかもそれは、本書で後に明らかにしていくように、偶然というよりも、むしろ必然であったと思われるのである。
つまり、「おふくろの味」をめぐる状況は、男性と母親の関係というよりもはるかに広い射程を持ちながら展開してきたということができそうである。では、いったい誰が「おふくろの味」をつくってきたのだろうか。
一皿の中に、私たちは何を映し、何を求め、何を味わおうとしてきたのか。
たかが「味」、されど「味」と言わざるを得ない日常茶飯事の世界を見つめることは、「食」そのものだけでなく、私たち自身、そして何よりも、私たちがつくってきた社会そのものを見つめることにもなるだろう。
※つづきはぜひ本書にてお楽しみください。
この後につづく第一章では、まず
1.「おふくろ」という言葉はどこから来たのか?
2.「おふくろ」と言っているのは誰なのか?
3.「おふくろの味」は誰がつくっていたのか?
という3つの謎を解明することを皮切りに、「おふくろの味」の正体に迫っていきます。
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目次
著者略歴
湯澤規子(ゆざわのりこ)
1974年、大阪府生まれ。法政大学人間環境学部教授。筑波大学大学院歴史・人類学研究科単位取得満期退学。博士(文学)。専門は歴史地理学、農村社会学、地域経済学。著書に、『胃袋の近代――食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)、『7袋のポテトチップス――食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)、『食べものがたりのすすめ――「食」から広がるワークショップ入門』(農山漁村文化協会)ほか、多数。近刊に、『ウンコの教室――環境と社会の未来を考える』(ちくまプリマー新書)がある。