未来は決まっており、自分の意志など存在しない。
光文社新書編集部の三宅です。私が今日、この記事を書くことは138億年前から決まっていました。という、俄かには信じがたいことを、心理学、生理学、脳科学、量子論、人工知能、仏教、哲学、アート、文学、サブカルを横断し、解説した新書が刊行されました。気鋭の心理学者である妹尾武治先生が著した『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論』がそれです。
これまでひた隠しにされてきた世界の秘密を暴露してしまって、妹尾先生は大丈夫なのでしょうか? こんな記事をnoteに書いてしまって、いいのでしょうか? 我々の命運は別にして、本書のまえがき、目次、第1章の一部を公開します。
本書のオビには”トンデモ本”と入っていますが、この内容を信じるか信じないかはあなた次第です。
はじめに
この本はトンデモ系(藤倉珊氏が提唱した概念で、信じがたいトンデモナイ内容の本)である。著者はこれまでに、心理学の知見を面白おかしく紹介する本を数冊書いてきた(『脳がシビれる心理学』『おどろきの心理学』『脳は、なぜあなたをだますのか』『ベクションとは何だ!?』など)。それらでは科学的な正しさをかなり優先してきた。
しかし、今回のこの本は著者の個人的思想を書きたいように書いたものであり、科学的に全く正しくない。科学として100%正しいものが読みたい人は読むのをやめて欲しい。
といっても世間に溢れる「心理学もどき」「心理学を語ったイカサマ」な本では全くない。個人の思想を諸々の科学的、文献的根拠に基づいて書いている点で、ただのトンデモ系ではない。
いきなりの否定(読まない方がいい人もいるよ、という否定)で面食らわれたかもしれない。しかし一方で、この本には「トンデモなく面白いこと」を書いたつもりである。その思想が、とても突飛で面白いという意味だ。
私は、20年ほど心理学を学び続けてきた。心理学、脳科学、哲学、その他周辺領域を、世界でもトップレベルに学んだ自負がある。脳科学には逃げないし、哲学にも逃げたくない。あくまでも私は心理学者だ。
そんな筆者が到達した心理学的な仮説。私自身は真実だと思っているその「仮説」を紹介したい。
この世は全て事前に確定しており、自分の意志は幻影だ。
私はこの仮説を「心理学的決定論」と呼び、広く皆さんに紹介したい。信じない自由を皆さんは持っているし、多くの人は多分信じてくれないだろう。
著者は「サブカル大好きおじさん」である。この書籍では、不必要なまでにサブカル作品から事例を取り上げて紹介する。
著者のこれまでの書籍を読んでいただいている人にはわかることだが、真面目な学者ではなく、変なおじさんが語っているくらいに思ってもらえると幸いである。通底するのは、なるべく「今」を感じる教材にしたいという思いである。
そんな訳で、この本は科学本ではなく、読み物・フィクション・俗人の戯言だと思って最後まで気楽に読み飛ばしてもらうのが、私の望みである。
心理学、生理学、脳科学、哲学、アート、文学、を横断して眺めた時に、繰り返し同じ結論、相似形の結論「心理学的決定論」が得られる。それらの領域を横断するエビデンスについて、整理された順序で紹介していく。全ての章を読み終わった時「心理学的決定論」をあなたは受け入れざるを得ないはずだ。
この到達点への道筋は心理学者である著者の独自のものであると思っている。私が歩いた道を、追体験していただけるようにこの本を著した。決して難しくないので、ぜひ楽しい心理学の知の旅に出て欲しい。
目 次
はじめに
第1章 自由意志と決定論と
1‐1 意志に関する簡単な疑い/1‐2 リベットの実験から/1‐3 決定論/1‐4 恋愛も脳が勝手に決める/1‐5 決定論が正しいのか?/余談 過去へのタイムスリップは不可能?/第二次世界大戦は止められたのか?/補足 心理学者の役割とは?/補足の補足
第2章 暴走する脳は自分の意志では止められない
2‐1 悪いのは人か脳か?/2‐2 「更生」は可能か?/2‐3 「意志の力」は止められない/2‐4 サイコパスの存在/2‐5 少数派の人々を社会に内包する仕組み/最後に、この章への反論に対して
第3章 AI
3‐1 AIのブラックボックス/3‐2 脳のブラックボックス/3‐3 ハードプロブレム/3‐4 クオリア/3‐5 意識を持つAI
第4章 そもそも人間の知っている世界とは? ──知覚について
4‐1 知覚心理学とは/4‐2 知覚世界と物理世界/4‐3 物理世界を知る神/4‐4 私が神様というアプローチ/脇道 神についての心理学的思考
第5章 何が現実か? 唯識、夢、VR、二次元
5‐1 唯識/5‐2 素朴実在論の否定/5‐3 阿頼耶識/5‐4 この世は夢か?/5‐5 幸福は自分の脳が決める
第6章 量子論
6‐1 世界は見る人がいて初めて固まる/6‐2 二重スリット問題/6‐3 シュレーディンガーの猫/6‐4 神によるVRゲーム?
第7章 意識の科学の歴史
7‐1 哲学的否定/7‐2 量子脳理論/7‐3 NCC
第8章 意識の正体
8‐1 IIT(Integrated Information Theory)/8‐2 クオリアの進化論/8‐3 心は脳にあるのか問題再燃
第9章 ベルクソン哲学にヒントが!
9‐1 「脳=心」ではない/9‐2 「今」の持続
第10章 ベクションと心理学的決定論
10‐1 自分の体が動いているという錯覚/10‐2 自分が動いているのか? 世界が動いているのか?
第11章 マルクス・ガブリエルの新実在論
11‐1 存在の定義/11‐2 唯識との相似形
第12章 アートによる試み(妹尾の場合)
12‐1 デュシャン「泉」の発見/12‐2 デュシャンを深掘りする/12‐3 著者(妹尾)自身のアートへの取り組み
第13章 Cutting Edgeな時代に生きる
13‐1 世界の本質は「情報」/13‐2 「心を見出す」のは我々の自由
イラスト サトウノブコ
第1章 自由意志と決定論と
1‐1 意志に関する簡単な疑い
誰しも自分の行動は自分の意志でコントロールしていると直感的に思っている。あなたもこの本を購入し読んでいることは、自分自身の意志で決めたと当然思っているだろう。しかし、意志というものの存在はとても簡単に揺らいでしまう。
例えば今、右手を好きなタイミングで上げてみて欲しい。簡単にできたことだろう。自分の意志で自分の右手を上げた。そう思うのは当然だし、そこに疑問を挟むような人間は多少(とても?)生きづらいだろうなと思う。
しかし、「意志を意志する(意志のための意志)」という深遠な問題が、右手を上げるというごく単純な場面にすら見て取れる。どういうことか?
右手を上げる意志(意志1)を持つ場合、その意志を持つための意志(意志2)を持たねばならない。そしてその意志を持つためには、その意志を持つ意志(意志3)を持たねばならない。もし、意志が能動的なものの場合、意志を持つ主体が無限に後退していくのである(意志1、2、3、4……)。
能動的意志の無限後退という問題である。意志を持つ主体がある意味で消える、定義できなくなるのである。これはとても大きい問題である。
ちなみに、意志の無限後退と同じ構造の問題に「脳の中の小人」という考え方もある。自分が見ている映像があたかも、脳の中にある小さなスクリーンに投影され、それを小人が見て認識しているという考え方だ。この場合も、小人の脳の中にさらに小さい小人を想定することになり、無限に主観の主体が後退する。意志、知覚、いずれにおいても主体を探し始めると、見つからないのである。
もう一つ「右手を上げる意志」に関して、不思議で素朴な問題がある。それは、腕を上げずに腕を上げる意志だけを持つことができるのかという問いである。右手を実際には上げずに、右手を上げる意志だけ持つことは可能だろうか?
「できるよ」と気楽にお答えになる方も多いだろうが、その意志は本当に意志だといえるだろうか? 実際に右手を上げた時に持った(とされる)意志と、右手を上げずに右手を上げる意志はどこまで同じだろうか?
考えれば考えるほど、変な気持ちになるだろう。そして多くの人は、そのような意志は持てないことに気がつくだろう。もちろん、中には「いやいやその二つの意志は全く同じだよ」と思う方もいるだろう。そういう方は、その二つの意志が同一であることを私や、他の人に納得させられるように説明してもらいたい。そうすることで、この二つの意志の同一性の証明、そもそも意志の言語化が難しいことに気がついてもらいたい。
哲学者ギルバート・ライルは、身体に依存せずに心が存在し得ないことを指摘している。体を動かしたり、体で表現したりしなかった場合、意志を表出することも、自覚することもできないという意味である。心が存在しているとすれば、それはモノではない。心と呼ばれているものは実は行動のパターンのことであると彼は指摘する。「優しい」という概念は概念として可能かもしれないが、それが存在する時には必ず優しいと呼ばれる行動パターンを取って現れる。心の実態は行動、ないしは潜在的な行動である可能性がある。この考えを哲学的行動主義と呼ぶ。
確かに、行動抜き、身体抜きに「優しい」はありえないだろう。意志も、行動とセットでなければ、成立しないのではないだろうか? 皆さんはどう思われるだろうか? 「いやいやセットじゃないよ!」と思われる方は「優しさ」を行動以外の方法で表出して、第三者に「優しさ」を感じさせることに挑戦して欲しい。果たしてできるだろうか? 例えば「優しいまなざし」にも見つめるという行動が伴っている。
このような問いを立てると、意志というものが非常に漠然としており、全くわからなくならないだろうか? 意志が、行動や身体から切り離されると、その瞬間に訳がわからなくなるのである。果たして意志とはなんなのだろうか? そして意志をコントロールしていると思われる、我々の意識とは一体なんなのだろうか?
この本での意志と意識の違いについて簡単に定義する。
この本でいう意志とは、我々の行動を自分自身で制御するために、脳内に生じる自分自身の意図のようなものということができる。一方で意識とは、より広範な脳内の活動を指し、行動、認知、思考、記憶、感情、睡眠、欲求などを制御する「自分自身の脳の働き」くらいの意味合いで理解してもらえたら幸いである。
ただし、意志も意識も、厳密に定義しようとすれば、それは非常に難しく、哲学的になってしまう。この本は学術書ではないので、前記くらいのアバウトな理解で読み進めていただくのがよいと思う。
意識とは誰しもが自然にそこにあると思っているが、それをきちんと説明しようとすると、誰にもそれができないものなのだ。アメリカの著名な心理学者ウィリアム・ジェイムズ(William James、1842~1910)という人物がこの点については、今から100年以上も前に指摘している。
実際に皆さんも、自分自身で自分の意識とは何か? について説明ができるかどうか挑戦してもらいたい。平たくいえば「意識とは何か?」をきちんと定義できるだろうか。そして「それ(意識)が一体なぜ生じているのか?」について解説ができるだろうか。
答えからいってしまうと、この問題は実に100年以上にわたって、なんら解答らしいものが出てきていない。21世紀の圧倒的な科学の躍進にもかかわらず、我々は「なぜ意識というものがあり、それがどのように意志を生んでいるのか?」について明確な答えはもとより、それをどうすれば解明できるのかという方法論すら持ち合わせていないのである。
1‐2 リベットの実験から
意志、特に自分自身の行動を自分で制御している意志のことを自由意志と呼ぶが、これについての面白い研究がある。リベットの実験である。
ベンジャミン・リベットは、1916年に生まれ、シカゴ大学の医学部に学び、後にカリフォルニア大学の生理学・神経学の教授になった人である。私は彼こそが、心の世界におけるコペルニクス、ダーウィン、アインシュタインに相当する重要な人物だと思っている。
リベットは、人間の被験者に椅子に静かに座ってもらい、好きなタイミングで手首を曲げてもらうという課題を行わせた。被験者は完全に自分が好きなタイミングで手首を曲げる。ただし、あまりにも長い時間手首を曲げない被験者がいると困るので、制限時間を6秒以内とし、その間で好きなタイミングで手首を曲げてもらった。もちろん、6秒以内に手首を曲げたくなかった場合には曲げない自由もあった。
この時、被験者の眼前には、時計のようなものが置いてあった。この時計はオシロスコープという当時のコンピュータ制御のディスプレイのようなもので作られており、画面に光の点滅が現れるテレビのような機具である。
このオシロスコープの中で、時計の円周上を光点がぐるぐると回っていた。普通の時計は60秒で一周するが、この特別な時計ではわずか2.56秒で光点が一周する。
被験者は、自分が自由意志で「今から手首を曲げよう!」と思った瞬間に、この時計を見て、光点が時計の円周上のどの位置にあったかを正確に覚えておくように依頼されていた。
リベットはこの課題を行っている被験者の頭頂部に電極を付け、彼らの脳波も同時計測していた。頭頂部の脳部位は、体の運動に関連する脳波が計測できる。この脳部位は、手を動かす前後に実際に活動し、それが脳波となって現れる。さらに、運動を司(つかさど)る脳波は、実際に腕や足が動き始める少し前に出始めることが知られている。これを「準備電位」という。手首を曲げた時に、この準備電位がどのくらい前に出ていたかを調べたかったのである。
その結果、準備電位(脳波)は、手首が動き始める550ミリ秒(0.55秒)も前から出ていることがわかった。脳が手首に指令を送ってから、実際に手が動くという順序は、直感通りであり、脳波が運動に先んじて生じていることはなんら驚きではない。
次に、手首を動かす意志を持ったのはいつだったのだろうか? これを明らかにすることで驚くことになる。
被験者は、意志を持った瞬間の光点の位置をしっかりと記憶し、手首曲げを行った後にリベットに口頭で報告した。そこから導き出された、被験者が意志を持った瞬間は、実際に手首が動き始めた瞬間よりも200ミリ秒先んじていた。準備電位は手首の動きよりも550ミリ秒先んじていたから、550から200を引くと350、およそ0.35秒、意志よりも準備電位が先んじていたことになる。
つまり、まず脳が無意識に動きだし、その後、動かそうという意志が形成され、最後に実際に手首が動くというのが、正しい順序だったのである。意志が形成されるよりも先に、脳は動いているのである。
リベットはこの実験を自分自身で何度も繰り返しており、追試に成功している。他の心理学者も追試を繰り返し、その度に、同じ結果が得られている。さらに、近年のより精度の高い実験装置を用いても同じ結果が出ることもわかっている。
意志が生じるよりも先に脳が動いているのだ。
実は、リベット以前にもスポーツの世界ではなぜ剣道で素早く面が打てるのか? とか、野球で150㎞の速球を打てるのがなぜなのか? についてはわかっていなかった。
面を打とうと思ってから打っていたのでは、実際には間に合わないのだ。150㎞の速球が投じられて、ホームベースに届くまでの時間では、ボールを見て打とうと思ってからバットを振り始めても間に合わないのだ。だからスポーツでは、反復練習で反応速度を高めている訳だ。
しかし、いくら反復練習で反応速度が上がったとしても、やはり、意志を持ってから動き出したのでは間に合わないことがわかっていた。視覚情報の処理に基づいてから、行動の意志を持ち、それに基づいて身体を動かし始める、では絶対に間に合わないのである。
これは、脳の細胞(ニューロン)の間を電気信号が伝わる際にどうしてもかかってしまう連絡時間から判断して無理なのだ。
さらに意志が言語化できるものならば、ボールを打つことを言語化していたら(例えば「高めストレートで打ちごろだぞ! よし! コンパクトにミートしよう!」のように)、とても間に合わないであろうことは、皆さんも簡単に想像がつくはずだ。言語的に浮かび上がる意志を持つとすれば、当然間に合わない(意志とは言語以前のものなのか? これも難しい問題だ。言語化できない判断は、意志がないものなのか? 今はとりあえずこの問題は置いておきたい)。
ではなぜ実際に、スポーツではそれらが成し遂げられているのか? 答えは単純だ。剣道で面を打つ、野球でボールを打てるのは、体が先で意志が後だからなのだ。意志とは後付けの錯覚なのだ。意志を伴わず、勝手に体と脳が先に動くのだ。打った後に、「打とうと思った」という意志が幻影のように生まれるのである。
「ゾーン」という言葉を聞いたことがないだろうか? ゾーンとは、圧倒的に高いパフォーマンスが引き起こされる時の心理状態のことを指す(特に一流のスポーツ選手で報告事例が多い)。
このゾーンは、意識して再現ができないものだといわれており、言語化しづらく、自分でなろうと思っても、なかなか自由自在に操れない。これもやはり意志ではなく、無意識的な身体こそが重要であるようだ。意志以前に人間を無意識的に動かしているなにがしかがあり、そこにリベットの実験と何かしらの共通性がある。そして、そのなにがしかとは「身体と環境との相互作用」のことなのだが、これについては後に詳しく説明したい。
ここで注記がある。リベットは自由意志を完全に否定したかというと、厳密にはそうではない。リベットはFree Will(自由意志)は否定したが、Free Won’t(自由否定)は否定していない。つまり、何かを行わない自由は人間にはあるというのだ。
例えば、手首を上げることを自由意志では、選択していないとしても、手首を上げないというFree Won’tならば、人間は選択できるではないか、というのである。
この自由意志と自由否定の問題は哲学では現在も論争があり、非常に難しく深遠な問題なので、この本では紹介のみとなるが、興味を強く持った読者の方は「自由否定」でまずは検索してもらいたい(わかりやすい推薦図書として『哲学入門』戸田山和久著を挙げておく)。
1‐3 決定論
意志は自分の行動に影響を与えない。それならば、我々の行動は全て環境との相互作用で決まっているのか? つまり、全ては事前に決まっているのか?
情報さえ揃えば、未来は確定する。未来が自由で未確定だと思うのは実は誤解であり、全ての情報を手元にした存在にとって未来は全て確定済みであるという考え方がある。「ラプラスの悪魔」という考え方である。
例えば、ボールを遠投する場合、ボールの落下地点は、投げた人の腕力や、投げ方、その日の風など、様々な周辺情報が全てあれば、かなり正しく推定することができる。情報さえあれば、我々は未来を正確に予測できる。ボールを投げた瞬間に、落下地点という未来は確定しているのだ。
我々の行動も、周辺情報が十分に揃い、それを解析すれば、一意に定まるのではないか? その日の天気、親などの周りの人物との過去の履歴、本人の生い立ち、そういった情報が全て揃うなら、その日にその人物がどこで何をするのかが予測できるのかもしれない。だとすれば、その人物の未来は、事前に確定していたといえるのだろうか?
雲は、うろこ雲や積乱雲のように季節や気候によってその形(表情)を変える。偏西風や海温、風の強さなどがわかれば、雲やその日の温度、天気は十分に予想できる。現在の天気予報は、20年前に比べて圧倒的に当たる。未来の天気は、過去によって確定されていたといえるようなレベルである。
私たちの感情や行動も、雲の表情のようなものではないのか? その人を取り巻く環境という変数を網羅して入力して計算すれば、その人の行動や感情を十分に予想できるのではないか?
雲の表情は、人間でいうところの感情的表情であるかもしれない。うろこ雲は怒り、積乱雲は喜びのように雲の形が予測できるのと同じ方法で、情報が揃えば、その人物が怒るのか? 喜ぶのか? は事前に決まっていたといえるのだろうか?
美味しいパンが大好きな人物に、デパートで買った高級パンをプレゼントするとする。実際にその人物は、パンをプレゼントされて大喜びした。この大喜び、という未来の行動は、どの時点で決まっていたのだろうか? パンが好きだという情報さえあれば、パンに喜ぶという未来をより高い確率で固めることができたはずであり、プレゼントとはまさに未来を情報から固める行為である。
もちろん、未来を外す可能性もあったはずだ。例えば、プレゼントを渡す直前にその人物がランチバイキングで目一杯、美味しいパンを食べていたりした場合、満腹すぎて喜びが陰ることもあるだろう。
しかし、それも事前に電話して、食べ放題に行っていたという情報をつかんでいたら、あまり喜ばないという未来の確率を事前に予測できたことになる。
情報さえあれば、未来は固まる(情報をもとに、未来の予測精度を極めて高い状態にまで持っていけるという意味)のである。
ただし厳密には、予測精度が十分に高いことと、未来の事前確定は同一ではないし、因果関係ではない。全てが99.999%の精度で予測できたとして、それは厳密には未来の事前確定と同義、同一ではないことは注記しておく。ちなみに、私の大好きなアメリカのドラマ『WESTWORLD』のシーズン3では、この精度の高すぎる未来予測と決定論・未来の事前確定が主題になっている。ぜひご覧いただきたい。
人生ゲームをやったことがある人は、あの盤上に広がる面白い時間を知っていると思う。人生ゲームが面白いのは、まさに自分自身の人生を短時間にバーチャルに体験できるからである。お金持ちになったら嬉しいし、一位になったら誇らしささえ生まれる。しかし、ルーレットの数値に何が出るのかは、事前に決まっていた「偶然」だ。
もちろん「株券を売る」とか、止まったマス目の職業につかないとかの、プレーヤーの選択(意志)がルーレットを回すこと以上に介在するイベントも、人生ゲームには存在する。しかし、あのゲームを支配しているのはほぼ事前に決まっていた「偶然」であると私は思う。それは人間の意志が介入できない運命だ。天気の決定に人間が介入できないことと同じだ。
そういう意味で、人生ゲームの全ての行程は、事前に決まっていたと私は考える。そして、我々の自分の人生も、人生ゲームのような決まった行程であり、その全て確定した世界に対して、幻影として自分の自由意志で決めたと思う人生の機微に、一喜一憂しているだけなのではないだろうか?
人生ゲームに一喜一憂している子供に幼さを見出すならば、我々が自分の人生に一喜一憂している様もまた、滑稽なのではないだろうか?
このように、全ての行為が事前に決まっている、という考えを哲学では決定論と呼ぶ。私は、現在の心理学はこの決定論を受け入れるべきだと思っている。我々は環境との相互作用で、オートマチックに行動しており、そこから生まれる感情も全て事前に決まっていたと考えるべきなのだ。
我々に自由があると思うのは、情報不足ゆえの錯覚であり、間違っているのではないか。我々は、環境、つまり世界の奴隷である。心理学を学んだ結果、私はこの心理学的な決定論を受け入れざるを得ないと感じている。
これは、いわゆるハードな決定論というもので、実際にはソフトな決定論(*1)や、リバタリアニズム(*2)のような考え方もあり、私の主張こそが絶対的に正しいのかどうかには疑問を唱える人も多数いる、ということには触れておく。
1 自由意志と決定論の両立論:環境との相互作用という自己コントロールによって生まれた必然的結果と、それらとは無関係に避けられない、いわゆる「宿命」との差はある、という見解。
2 自由意志と決定論が両立しないことを認め、非決定論から自由意志の存在を唱える立場。
天文学が進歩したことで、人間は毎朝太陽が昇るという情報を得た。これによって、明日の朝にも太陽が昇るという不確定だった未来が確定した。情報で未来を確定させたのだ。一方で古代の人類は、毎朝昇ってくださった太陽を崇めて感謝した。未来が確定していなかったからである。だから日食を世界の終わりだと怯(おび)えたのである。情報不足によって人間にとって一見未確定な未来も、その実、全て「決定」しているのだ。
1‐4 恋愛も脳が勝手に決める
日本一、否、世界一の心理学者だと私が思っている、下條信輔教授の実験を紹介したい。
下條先生は、過去に東京大学で教鞭を執られ、現在はカリフォルニア工科大学で心理学を教えておられる。
彼の実験では、パソコンの画面上左右に2人の女性の顔が同時に提示された。被験者は、二つの顔を自由に眺めて、いずれの女性がより魅力的か? という判断を意識的にして、それを決めたら、左右に対応するボタンを押しわけて答えた。
この時、眼球運動の計測装置をつけておき、被験者がどこを見ていたのかをずっと記録しておく。その結果、意志決定の数秒前から、眼球の動き方が偏ることが明らかになった。より好きだと思う方の画像へ、視線の停留時間が増えるのである(ちなみに、好きだから沢山見ているのか、沢山見ているから好きになるのか〈単純接触効果〉いずれなのかについては、この実験からだけではわからない)。
この偏りの程度を数学的に処理すると、目線の偏りだけからでも、最終的にどちらを選ぶのかが、意志決定のボタンを押す数秒も前から、高い精度で予測できる。
つまり、人間の好き嫌いという意志決定であっても、目線がある場所という情報が十分にあれば、本人の意志よりも先に、第三者がその人物の選択、つまり「未来」を確定的に予測することができたのである。
情報さえ手に入れば、未来は意志よりも先に確定されていることがわかる。ラプラスの悪魔は、人間の好き嫌いにまで当てはまりうるのだ(ちなみに下條らは、一方の女性画像に強制的に視線を向けさせると、その女性を選ぶ確率が上がる、選好判断にバイアスをかけられることも報告している。外から行動を操ることで自由意志を操れるのである)。
もう一つ、意志よりも先に体が反応していることを明確に示す実験を紹介する。アイオワギャンブリング課題という実験の例だ。
2005年に「トレンズ・イン・コグニティブ・サイエンシーズ」という一流の学術誌に掲載された実験では、被験者は四つのカードの束の山(A、B、C、D)から一枚ずつカードを引く。カードには、賞金ないしは罰金の額が記載されている。
AとBの山は危険な山で、賞金額は100ドルと高額だが、10枚に一度1250ドルもの罰金が取られる。CとDの山は、賞金額が50ドルと少ないが、罰金も10枚に一度の割合で250ドルとなっている。
つまりAとBはハイリスクハイリターンで、総合的に判断すると損をする山であり、CとDはローリスクローリターンだが、総合的に判断すると得をする山である。
被験者は四つの山から自由にカードを引き続けていく。すると80回もカードを引いた頃には意識レベルで「A、Bは危険でC、Dは安全」ということがわかる状態になり、実際にほとんどC、Dからカードを引くという行動が形成される。
意識レベルで明確に理解するより以前、50回引いたあたりからいわゆる「勘」で、A、Bは危険、C、Dは安全ということがわかってくることが、被験者への調査で明らかになっていた。
ここで面白いのは、実際にA、Bの山からカードを引くという行動が減っていたのは、カードを40回程度引いたところからだった点だ。つまり、勘で気がつくよりも10回程度は早く、実際の行動が先んじてA、Bを避け始めていたことが記録されていたのだ。
さらに面白いことに、この課題をしている時に手から出ている精神性発汗を記録すると、汗の量は、カード引き行動が20回以下の段階で、A、Bの時にC、Dに比べて有意に多くなっていたことがわかった。
精神性発汗とは、緊張時に増えるものであり、いわゆる「手に汗握る」という状態を示している。つまり、勘でうっすらわかってくる50回目、行動レベルで避け始める40回目、よりもさらに20回以上も早い段階で、A、Bからのカード引き行動に体は緊張を示していたのである。
簡単にまとめるならば、意識よりも勘が早く、勘よりも行動が早く、行動よりも精神性発汗つまり身体が早く危険に気がついていたのである。意識は身体からの無意識の声を拾い上げて、最終的に「意志」(つまりA、BではなくC、Dを選択するという判断)を変化させたのである。
これらの実験は、リベットの実験結果ととても類似している。つまり、意志や意識というものが、後付けで「最も遅く」、身体や脳がそれよりも先んじているということだ。脳、身体の情報が十分に高められ、最後の最後で「意志」で決めたという幻想が生まれるのである。
スーパーに行き、食器洗剤売り場に多種多様な商品がある中で、何となく「これにしよう!」と思って、特定の商品を手に取る。その選択はどこまであなたの「意志」で決めたといえるだろうか? その日までにTVで見た宣伝が無意識にあなたの行動を決めていたのではないだろうか? 外界からの刺激になんら影響されずに意志のみでその洗剤に決めたといえるだろうか?
「シ」で始まる4文字の動物を思い浮かべて欲しい。「シ○○○」。何を考えただろうか? もしあなたが「シマウマ」を思い浮かべたなら、そのシマウマの選択はどこまであなたの意志によるものといえるだろうか?
実はこの記事の上の方に、なんの脈絡もなくシマウマのイラストが描いてあった。本を順番通りに読んでいる読者の方なら、先にシマウマを見ていたのである。その先行した経験が、あなたの判断を規定していたのだ。
こういった現象を心理学では「プライミング」と呼ぶ。あなたが自分自身で行っていると思っている判断も、実際には先行する外界からの刺激によって縛られているのだ。■
妹尾先生の好評既刊本はこちら。