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○千万円? ○億円? ヴァイオリンがヴァイオリニストを選ぶ|本間ひろむ

ヴァイオリンがヴァイオリニストを選ぶ――。
ピアノはその美しいキーを指で叩くだけできれいな音が出る。しかし、ヴァイオリンはそうはいかない――。
その草木も生えていない石ころだらけの場所からスタートして、美しい音を出し、音程をキープし、豊かな音楽を創り出すまでどれだけの時間がかかるのだろう――。

「まえがき」より抜粋

16世紀後半には既に完成されていたヴァイオリン。本書では、日本におけるヴァイオリン受容史から、「歴史的な名器」ストラディヴァリウスとグァルネリ・デル・ジェスをめぐるエピソード、新世代の弦楽器奏者まで、ヴァイオリニスト、ヴィオリスト、チェリストたちが歩んできた苦闘と栄光の物語をお届けします。「日本のヴァイオリニスト・ディスコグラフィ30」の付録付きです。本書の刊行を記念して、「まえがき」を公開いたします。

「サンノゼの一間きりのアパートでヴァイオリンの稽古をする男と住むのは、ひどい難儀なのよ」空っぽの拳銃を手渡して、彼女は警察にそういった。

リチャード・ブローティガンの短編集『芝生の復讐』に収録されている『スカルラッティが仇となり』という短編小説(というか掌編ですね)の全文である。

いきなり物騒な話で恐縮だが、彼女が手にした拳銃は空っぽだった。ということは、6発しか装弾できないリボルバーだとしても、ヴァイオリンの稽古をしていた男は6発の弾丸を喰らっていたことになる。彼女の怒りの熱量を考えると、どれだけひどい音だったんだろうと思ってしまう……。

ピアノはその美しいキーを指で叩くだけできれいな音が出る。
しかし、ヴァイオリンはそうはいかない──。
初心者が弾くとギーコギーコと雑音にしか聞こえない。『ドラえもん』に登場するしずかちゃんのヴァイオリンの音も、『サザエさん』のマスオさんのヴァイオリンもそんな感じだ。

しかも、ヴァイオリンはギターのようにフレットがあるわけではないので、音程をキープするためには正確な位置を指で押さえる必要がある。
その草木も生えていない石ころだらけの場所からスタートして、美しい音を出し、音程をキープし、豊かな音楽を創り出すまでどれだけの時間がかかるのだろう──。
そんな手強い楽器だけれど、しずかちゃんのような美少女が弾くとやはり絵になる。

その昔、『中学三年コース』(学習研究社)という学習雑誌があった。その雑誌のモノクロ・グラビアにヴァイオリンを抱えた美少女がいた。

千住真理子。慶應義塾中等部の3年生。凛とした佇まい、知性の光を宿したまなざし──ここで一目惚れをしましたと書けばいいのだけれど、ふうとため息が出たというのが本当のところ。70年代後半のことだ。

同じ中学3年生だというが、私が通っていた東京郊外の公立中学にヴァイオリンを習っている友達はひとりもいなかった。せいぜいピアノのお稽古に通う友達が数人いるくらいだ。あとは、ブラスバンドでトランペットやサックスを演奏しているくらいか。

それにしても、ヴァイオリンの天才少女って何だ⁉ 『N響アワー』かなんかでバッハの《2つのヴァイオリンのための協奏曲》を弾いていた少女を見た気がするが、あれが千住真理子だったのか──。

ただ、天才少女と世間で騒がれたがゆえに彼女は相当苦労したらしい。

「どのオーケストラにソリストとして行っても、大人である団員たちは、皆少し距離を置いたような目で見るのです。『弾いてごらん』みたいな。その空気は十五歳の私にとってきつくて、どうしていいか分からない。私も普通の人間なのにと思って弾くのですが、少し間違えるとぱっと見るわけです。そら、『天才なのに間違えたぞ』と。それが中学高校時代にソリストとして活躍していた私を包んでいた空気でした」

『ヴァイオリニストは音になる』千住真理子

そんなプレッシャーに耐えきれず、20歳で彼女はヴァイオリンから遠ざかることになる。

2年後、彼女はホスピスでの演奏をきっかけにヴァイオリンを手にステージに戻り、さらに数十年たってから念願だったン億円はするストラディヴァリウスを手に入れる。すったもんだの挙句である。それから千住真理子の音はがらりと変わった。艶が出たし、音楽そのものが美しくなった。

前著『日本のピアニスト』でも、ショパン・コンクールで角野隼斗はスタインウェイ300を弾いただの、2位になったアレクサンダー・ガジェヴはカワイをチョイスしたみたいなことを書いたのだけれど、ヴァイオリニストにもやはり楽器の話はつきものだ。

宮本笑里に取材した時、彼女のヴァイオリン(1720〜30年製「DOMENICO MONTAGNANA」)について訊ねたら、

「イタリア製なんですけど、最初の数ヶ月は全然音が出てくれなかったです」

と言っていた。

だとしたらン千万円もするストラディヴァリウスやグァルネリ・デル・ジェスなどの名器ならイメージ通りの音を出すまでに相当な時間がかかりそうだし、自分の音楽を表現できるまではさらに時間がかかるはずだ。
そして、彼女もちゃんと草木も生えていない何もない場所からスタートしてあそこまで活躍しているのだ。

ピアニストにはベートーヴェンやモーツァルト、ショパンなど18世紀〜19世紀の大作曲家たちの楽曲があり、それらをいかに弾くかがピアニストに与えられたテーマである。

ヴァイオリニストはどうか──。

『モオツァルト』などの名著で知られる評論家・小林秀雄の言葉を、諏訪内晶子の『ヴァイオリンと翔る』から引いてみよう。

世の中には、ストラディヴァリウスを上手く鳴らすヴァイオリニストと、グァルネリ・デル・ジェスを上手く鳴らすヴァイオリニストと、二通りのヴァイオリニストがいるということですよ。ヴァイオリニストというのは、要するに、この二つの楽器が本来もっている音を、どうやって完全に弾き出すかという仕事をする人のことを言うんです。

18世紀に製作されたイタリアン・オールド、そうストラディヴァリウスやグァルネリ・デル・ジェスをいかに演奏するかがテーマなのである。

あのニコロ・パガニーニ(1782年、ジェノヴァ生まれ)の愛器はグァルネリ・デル・ジェス1743年製「イル・カノーネ」である。この〝歴史的な名器〟はパガニーニの没後ジェノヴァ市に寄贈され、最近ではフランチェスカ・デゴ(1989年、イタリア生まれ)がレコーディングに使用して話題を呼んだ。だが、長期貸与されたわけではない。
彼女は普段はレオンハルト・フローリアン楽器商会より貸与された1734年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.リッチ」で演奏しているのだ。

こんな〝歴史的な名器〟とまではいわないが、日本にも幸か不幸かこうしたイタリアン・オールドの名器を手にした(または将来手にするであろう)弦楽器奏者が大勢いる。

草木も生えていない石ころだらけの場所からスタートして、誰に撃たれることもなく、大きな音楽家になった(もう少しでなる)人たちだ。

本書はそんなヴァイオリニスト、ヴィオリスト、チェリストの物語だ──。

目次

【序 章】日本のヴァイオリン王・鈴木政吉
【第1章】2人のアウトサイダー
【第2章】小野アンナ門下の天才少女たち
【第3章】スズキ・メソードと弦の桐朋
【第4章】ソ連を選ぶか、アメリカへ飛ぶか
【第5章】ストラディヴァリウスか、グァルネリ・デル・ジェスか
【第6章】就職先はオーケストラ
【第7章】クラシックの枠を超えて
【付 録】日本のヴァイオリニスト・ディスコグラフィ30
諏訪根自子/江藤俊哉/前橋汀子/今井信子/藤川真弓/安永徹/堀米ゆず子/千住真理子/竹澤恭子/川井郁子/五嶋みどり/諏訪内晶子/樫本大進/宮本笑里/木嶋真優/庄司紗矢香/神尾真由子/五嶋龍/佐藤晴真/三浦文彰/廣津留すみれ/周防亮介/上野通明/石上真由子/服部百音/東京クヮルテット/葉加瀬太郎・高嶋ちさ子・古澤巌/川久保賜紀・遠藤真理・三浦友理枝トリオ/サイトウ・キネン・オーケストラ/水戸室内管弦楽団           

著者プロフィール

本間ひろむ(ほんまひろむ)
1962年東京都生まれ。批評家。大阪芸術大学芸術学部文芸学科中退。専門分野はクラシック音楽評論・映画批評。著書に『ユダヤ人とクラシック音楽』『アルゲリッチとポリーニ』『日本のピアニスト』(以上、光文社新書)、『ヴァイオリンとチェロの名盤』『ピアニストの名盤』『指揮者の名盤』(以上、平凡社新書)、『3日でクラシック好きになる本』(KKベストセラーズ)ほか。新聞・雑誌への寄稿のほか、ラジオ番組出演、作詞作曲も手がける。

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