○千万円? ○億円? ヴァイオリンがヴァイオリニストを選ぶ|本間ひろむ
リチャード・ブローティガンの短編集『芝生の復讐』に収録されている『スカルラッティが仇となり』という短編小説(というか掌編ですね)の全文である。
いきなり物騒な話で恐縮だが、彼女が手にした拳銃は空っぽだった。ということは、6発しか装弾できないリボルバーだとしても、ヴァイオリンの稽古をしていた男は6発の弾丸を喰らっていたことになる。彼女の怒りの熱量を考えると、どれだけひどい音だったんだろうと思ってしまう……。
ピアノはその美しいキーを指で叩くだけできれいな音が出る。
しかし、ヴァイオリンはそうはいかない──。
初心者が弾くとギーコギーコと雑音にしか聞こえない。『ドラえもん』に登場するしずかちゃんのヴァイオリンの音も、『サザエさん』のマスオさんのヴァイオリンもそんな感じだ。
しかも、ヴァイオリンはギターのようにフレットがあるわけではないので、音程をキープするためには正確な位置を指で押さえる必要がある。
その草木も生えていない石ころだらけの場所からスタートして、美しい音を出し、音程をキープし、豊かな音楽を創り出すまでどれだけの時間がかかるのだろう──。
そんな手強い楽器だけれど、しずかちゃんのような美少女が弾くとやはり絵になる。
その昔、『中学三年コース』(学習研究社)という学習雑誌があった。その雑誌のモノクロ・グラビアにヴァイオリンを抱えた美少女がいた。
千住真理子。慶應義塾中等部の3年生。凛とした佇まい、知性の光を宿したまなざし──ここで一目惚れをしましたと書けばいいのだけれど、ふうとため息が出たというのが本当のところ。70年代後半のことだ。
同じ中学3年生だというが、私が通っていた東京郊外の公立中学にヴァイオリンを習っている友達はひとりもいなかった。せいぜいピアノのお稽古に通う友達が数人いるくらいだ。あとは、ブラスバンドでトランペットやサックスを演奏しているくらいか。
それにしても、ヴァイオリンの天才少女って何だ⁉ 『N響アワー』かなんかでバッハの《2つのヴァイオリンのための協奏曲》を弾いていた少女を見た気がするが、あれが千住真理子だったのか──。
ただ、天才少女と世間で騒がれたがゆえに彼女は相当苦労したらしい。
そんなプレッシャーに耐えきれず、20歳で彼女はヴァイオリンから遠ざかることになる。
2年後、彼女はホスピスでの演奏をきっかけにヴァイオリンを手にステージに戻り、さらに数十年たってから念願だったン億円はするストラディヴァリウスを手に入れる。すったもんだの挙句である。それから千住真理子の音はがらりと変わった。艶が出たし、音楽そのものが美しくなった。
前著『日本のピアニスト』でも、ショパン・コンクールで角野隼斗はスタインウェイ300を弾いただの、2位になったアレクサンダー・ガジェヴはカワイをチョイスしたみたいなことを書いたのだけれど、ヴァイオリニストにもやはり楽器の話はつきものだ。
宮本笑里に取材した時、彼女のヴァイオリン(1720〜30年製「DOMENICO MONTAGNANA」)について訊ねたら、
と言っていた。
だとしたらン千万円もするストラディヴァリウスやグァルネリ・デル・ジェスなどの名器ならイメージ通りの音を出すまでに相当な時間がかかりそうだし、自分の音楽を表現できるまではさらに時間がかかるはずだ。
そして、彼女もちゃんと草木も生えていない何もない場所からスタートしてあそこまで活躍しているのだ。
ピアニストにはベートーヴェンやモーツァルト、ショパンなど18世紀〜19世紀の大作曲家たちの楽曲があり、それらをいかに弾くかがピアニストに与えられたテーマである。
ヴァイオリニストはどうか──。
『モオツァルト』などの名著で知られる評論家・小林秀雄の言葉を、諏訪内晶子の『ヴァイオリンと翔る』から引いてみよう。
18世紀に製作されたイタリアン・オールド、そうストラディヴァリウスやグァルネリ・デル・ジェスをいかに演奏するかがテーマなのである。
あのニコロ・パガニーニ(1782年、ジェノヴァ生まれ)の愛器はグァルネリ・デル・ジェス1743年製「イル・カノーネ」である。この〝歴史的な名器〟はパガニーニの没後ジェノヴァ市に寄贈され、最近ではフランチェスカ・デゴ(1989年、イタリア生まれ)がレコーディングに使用して話題を呼んだ。だが、長期貸与されたわけではない。
彼女は普段はレオンハルト・フローリアン楽器商会より貸与された1734年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.リッチ」で演奏しているのだ。
こんな〝歴史的な名器〟とまではいわないが、日本にも幸か不幸かこうしたイタリアン・オールドの名器を手にした(または将来手にするであろう)弦楽器奏者が大勢いる。
草木も生えていない石ころだらけの場所からスタートして、誰に撃たれることもなく、大きな音楽家になった(もう少しでなる)人たちだ。
本書はそんなヴァイオリニスト、ヴィオリスト、チェリストの物語だ──。