健康被害、早死、そして…「孤独」がもたらす経済損失は約4・8兆円!?
2018年1月、テリーザ・メイ首相(当時)は、世界で初めて「孤独担当大臣(Minister for Loneliness)」を設けました。孤独という捉え方に個人差が大きい概念に政府が担当大臣を置いたとのニュースは、世界中を駆け巡りました。日本でも、2021年2月、菅政権によって「孤独・孤立担当相」が新設されたことは記憶に新しいところです。孤独・孤立対策に関わる大臣の創設はイギリスに次いで世界で2例目になるといいますが、こうした、孤独担当相創設の背景には何があるのでしょうか。
国内外の子育てや教育事情、女性の生き方などをテーマに取材・執筆をされているジャーナリストの多賀幹子さんは、このたび『孤独は社会問題――孤独対策先進国イギリスの取り組み』を上梓しました。ここでは、孤独担当大臣の設立に大きな影響を及ぼしたイギリスの女性議員の話を中心に、本文の一部を公開いたします。
「孤独とは無縁」の社会で……
そもそも、イギリス人には孤独は無縁のはずと思われていた。街の通りごとに少なくとも一軒のパブが見つかるし、一つの街には決まって一つ以上の教会が存在する。それらが人々を結び付ける役割を少なからず担ってきたからだ。
パブとは、18世紀ごろに「パブリック・ハウス(公共の家)」と呼ばれる店が街に生まれたのが始まりといわれている。人々の集会場であり、社交場であり、時には結婚式場にも使われた。次第に、ビールを飲みながらおしゃべりする気軽な居酒屋として発展、定着していった。
しかし、パブはこのところ減少している。若い層を中心にアルコール離れが進んでいるのだ。コーヒーや紅茶などが飲める気軽な喫茶店が数多く現れて、相対的にパブの存在感は薄れている。ヘルシー志向が急速に浸透するせいか、野菜やフルーツがたっぷり摂れるスムージーなどを飲ませる店も目立ち始めた。
教会については、英国国教会がコミュニティーごとにあり、洗礼式、結婚式、葬式などを取り仕切ってきた。他にも、イースター、クリスマスなどのイベントに深く関わる。日曜日ごとの礼拝も催す。しかし、都市化や家族構成やライフスタイルの変化などの影響もあるのだろうか、これまた若い人の教会離れが進んでいる。
7人に一人が「常に」「しばしば」孤独を感じている
英国赤十字社は約6560万人の人口のうち、「常に」または「しばしば」孤独を感じる人は900万人以上いると報告している。約7人に一人という計算だ。ただ、孤独であるとは認めない「隠れ孤独」も少なくないだろうから、実際はこれ以上の数字が予想される。
孤独は、退職や離婚、配偶者の死亡など大きな転機に意識されやすく、適切なタイミングで支援が受けられない場合は、健康にも悪影響をもたらす。
英国家庭医学会によると、孤独は肥満や一日15本の喫煙以上に体に悪い。孤独な人は、社会的なつながりを持つ人に比べ、天寿を全うせずに亡くなる割合が1・5倍に上がる。若者の場合は、ソーシャルメディアのヘビーユーザーほど孤立度が高い傾向が見られた。65歳以上に限ると、5人に2人がテレビかペットが「一番の友人」と答えている。ロンドンの移民・難民の6割弱は孤独が最大の課題だという。
孤独が原因の体調不良による従業員の欠勤や生産性の低下で、雇用主は年に約3560億円の損失を被っているとの調査もある。75歳以上になると半数以上が一人暮らしだ。障害者は、半数が絶えず孤独を感じている。孤独で生じる経済的損失は、約4・8兆円に達するといわれる。
イギリスで「政界の期待の星」と評された女性議員が……
イギリスの孤独問題には、故ジョー・コックス(Helen Joanne “Jo” Cox)下院議員(1974―2016)が取り組んだ。彼女はグラマー校からケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに進み、社会政治学を専攻した。
イギリス発祥の慈善団体オックスファムで人道支援活動に従事。乳児死亡率の低下や現代の奴隷制度撲滅に献身的に働いた。2015年に下院議員(労働党)に初当選すると、議会での演説で移民の積極的な受け入れや、シリアなどからの難民の保護を訴えて注目された。新人女性議員としての活動が目覚ましく、メディアからは「政界の期待の星」と評された。
しかし彼女は、2016年6月23日のEU離脱の是非を問う国民投票日の1週間前に選挙区のリーズ市近郊で殺害された。享年41。イギリスでの国会議員の暗殺は、1990年に北アイルランドのテロ組織IRA(アイルランド共和軍)が仕掛けた爆弾により、保守党議員が殺害されて以来のことだ。
コックス議員は、EU残留を強く訴えていた。事件前日には、ロンドンを流れるテムズ川で家族とともに乗り込んだボートから、EU残留への支持を呼びかけた。ツイッターでは「移民問題に関する懸念はもっともですが、それがEU離脱の理由にはなりません」と主張した。
6月16日、議員はリーズ市近郊の図書館で行われる集会の準備に追われていた。ふと男性たちの口論に気が付いて仲裁に入ったところ、一人の男に突然拳銃で撃たれた。目撃者によると、男は再び撃ったうえ刃物で繰り返し刺し「ブリテン・ファースト(英国第一)」と何度も叫んだという。議員は病院に急送されたが、約1時間後に死亡が確認された。
「弱者のために生き、憎悪に殺された」
地元警察は52歳(当時)の男を逮捕、拳銃を含む武器を押収した。男の名前はトーマス・メアで、当日持参したカバンから拳銃を取り出し議員を銃撃後に刃物で刺したことが明らかになった。投票直前に起きた残虐な事件の衝撃は大きく、離脱派、残留派ともに同日の活動をすべて中止した。
労働党のジェレミー・コービン党首(当時)は、ツイッターを通して「コックス議員の襲撃に大きな衝撃を受けている」とコメントした。当時のキャメロン首相(保守党)も声明を出し、「偉大なスターを失った」と悼んだ。
議員の夫、ブレンダン・コックス氏は、声明を発表した。「妻は、その死によりイギリスが分断されることを望んでいません。憎しみは害悪しかもたらしません。妻はこれまでの人生に悔いはないはずです。彼女は一日一日を精一杯生きたと確信できますから」と話した。2016年6月17日、ニューズウィークは議員の暗殺を報じ、「弱者のために生き、憎悪に殺されたジョー・コックス」とタイトルを付けて悼んだ。
コックス議員が個別訪問で気づいたこと
コックス議員が「孤独は社会問題である」と捉えたのは、選挙活動での経験からだった。家から家へと一軒ずつ訪問しているうちに(イギリスでは戸別訪問は許されている)、多くの人が一人ぼっちの寂しさと向き合っていることに気が付いた。
高齢者から若者まで男女ともに、それぞれの孤独を抱えている。議員が玄関のチャイムを鳴らしても、ドアが開かないことが少なくなかった。しかし、いったん議員を招き入れると、今度は「我が家を訪ねてくれた人は本当に久しぶり」とあれこれ打ち明けるのだった。堰を切ったように話し出す人もいて、1回の訪問は予定時間を大幅に超えるのが常だった。「ぜひまた来てほしい」と懇願されることもあった。
相談された問題については、担当部署や慈善団体などに連絡して、解決に向けてつなげることもした。選挙活動がきっかけで、議員は、孤独には社会が立ち向かうべき深刻な問題がいくつも含まれていると捉えるようになった。
政府が孤独で苦しむ人を減らすための政策を練る
議員が亡くなった後、彼女に敬意を表して超党派議員らが「ジョー・コックス孤独対策委員会」を創設した。委員会は、age UKや英国赤十字社など13の慈善団体と協力して、高齢者と介護人、無職の青年、育児中の女性など、何らかの支援を必要とする人々との対話の機会を設けた。さらに、活動で報告された情報を各慈善団体が委員会に提供し、2017年末に委員会が声明文にまとめた。そして、孤独の解決に向けての国家戦略や対策を指揮する担当大臣の設置案などを盛り込んだ報告書を提出した。
それを受けて、政府は孤独で苦しむ人を減らすための政策を練った。民間の協力を得ながら超党派で対策を進め、孤独担当大臣はデジタル・文化・メディア・スポーツ省の、国民に人気があるトレイシー・クラウチ政務次官(当時42歳)が兼務するとしたのだった。
「孤独は現代における悲しい現実だ」
トレイシー・エリザベス・アン・クラウチ議員は、1975年7月生まれで、イギリスのケント州出身。国立ハル大学を卒業。2017年の総選挙で三度目の当選を果たした。彼女はサッカー選手を引退後、フットボール・アソシエーション(イングランド・フットボール協会)公認のコーチング・ライセンスを保持するサッカー指導者になった。体育会系の活発で明るい人柄だ。彼女は、「ボランティアや活動家、企業、政治家がともに力を合わせれば、孤独に打ち勝つために前進できる」と力強く話している。
これまで議員として取り組んできたのは、認知症のケアの充実、アルコール依存症の治療、インフラの改善などだ。彼女はコックス議員と年齢が近く、党を超えて議員を敬愛していた。メイ首相(当時)は、「多くの人たちにとって、孤独は現代における悲しい現実だ。お年寄り、介護者、愛する人を失った人など、経験や思いを分かち合う相手がいない人たちが抱える孤独に対処するため行動したい」と抱負を語っていたから、クラウチ議員への期待も大きかった。ただ、クラウチ大臣はデジタル、文化、メディア、スポーツといくつもの分野を担当しており、孤独問題にどれほど時間とエネルギーをさけるのか、疑問視する声も上がった。
「偽善だ」 ── 批判の声も
イギリス発の孤独担当大臣設置のニュースは世界中に瞬く間に伝わり、「そうした大臣が必要なのは、実はうちの国ではないか」との声が先進国を中心に上がった。ただ、孤独であるかどうかは人によって捉え方が異なるうえに、心の中の問題に政府が入っていくのは賛成できないとの声もあった。
イギリス人からは、おおむね好意的に受け止められているものの、2010年の保守党政権誕生以降の緊縮政策などで、地方自治省が大幅な予算削減を強いられていることが背景にあると指摘する声もある。母子家庭の助けになる公的子育て支援施設やDV(ドメスティックバイオレンス)被害者の保護施設、児童や青少年が集まるユースセンター、また公共図書館など、一般の人々が自由に使える公的な場所が次々と閉鎖に追い込まれたことの埋め合わせではないかという。こうした施設の復活こそ、孤独対策に効果的なはずだとの意見だ。孤独担当相の設置は「偽善だ」(ガーディアン紙)とする厳しい見方さえ出た。
「孤独は、我々が直面する最も重要な健康問題です」
孤独担当相の職務内容としては、孤独解消に全省庁で取り組むための戦略を策定し、中央政府やボランティア組織を集約し支援することなどが挙げられている。
2018年6月になって、ようやく動きが見えてきた。クラウチ大臣は各省庁の政務次官らを集めて対策チームを設置した。孤独になるリスクの高い高齢者やニートの若者らを支援するNPOなどに、総額約29億円を補助すると発表した。また、孤独の予防や軽減に有効だった活動と効果がなかった活動のそれぞれの理由を調査して、結果を公表すると決まった。
2018年10月、「孤独についての会議」に出席したクラウチ担当相は、「孤独は、我々が直面する最も重要な健康問題です」と語りかけた。会議には、世界各国から約300人が集まり、活発な議論が交わされた。イギリスが口火を切った孤独問題は反響を呼び、一気に世界に広がったといえるだろう。
しかし、クラウチ大臣は会議のわずか1か月後、11月に辞任してしまった。理由は、ギャンブルの中でも特に依存性が高いといわれるゲーム機「FOBT(固定オッズ発売端末)」の賭け金問題に抗議したからだ。毎日2人ほどもがギャンブルに関連して自死しているのに、政府の対応が遅いと訴えてのことだった。
その後、メイ首相は後任としてミムズ・デイヴィス氏を任命した。2019年7月、ボリス・ジョンソン新首相はダイアナ・バラン氏をDCMS部門のシビルソサイエティ(市民社会)内の「孤独」を担当させることにした。
バラン氏は1959年生まれ。ケンブリッジ大学卒業後、4人の子どもを育てながら、DV被害者支援の慈善団体を創設、その献身的な働きに対して2011年に勲章を授与され、ライフピア(世襲されない一代限りの貴族)となった。
バラン氏はデジタルやスポーツなどに関する責任はないので、もう少し孤独に時間をさけると期待された。「私は、たくさんの人に会い、まず話をよく聞くことから始めました。すると、コミュニティー・カフェ、散歩、読書、音楽、各種スポーツのグループなどを組織して、多くの人を結び付けるリーダーが各地にすでに多くおられる。こうした草の根の活動こそ孤独対策には最も有効と思うので、ぜひ支援していきたい」と話している。
「人の孤独を癒やせるのは人だけか。英の104歳女性が『逮捕してもらって』感謝した理由」はこちら
著者プロフィール
多賀幹子(たがみきこ)
東京都生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒業。企業広報誌の編集長を経てフリーのジャーナリストに。元・お茶の水女子大学講師。1983年よりニューヨークに5年、’95年よりロンドンに6年ほど住む。女性、教育、社会問題、異文化、王室をテーマに取材。執筆活動のほか、テレビ出演・講演活動などを行う。著書に、『ソニーな女たち』(柏書房)、『親たちの暴走』『うまくいく婚活、いかない婚活』(以上、朝日新書)などがある。
『孤独は社会問題』◎目次
はじめに
第一章 孤独担当大臣の創設
1・1 イギリスの「孤独」事情
1・2 世界の孤独対策
1・3 コスタの取り組み
1・4 オープン・マイク
1・5 ウォーキングサッカー
第二章 孤独を救う一歩
2・1 age UKの誕生
2・2 高齢者の夢をかなえる
第三章 英王室の役割
3・1 女王の仕事
3・2 チャールズ皇太子の公務
3・3 ダイアナ妃
3・4 カミラ夫人
3・5 キャサリン妃
3・6 メーガン妃
3・7 王室離脱
第四章 ノブレス・オブリージュ
4・1 世界最低レベル
4・2 オックスフォード大学の精神
4・3 高貴さは義務を強制する
4・4 ギャップイヤー
第五章 ロンドンを歩けば
5・1 人をつなぐ花の力
5・2 心遣いの形
第六章 弱者を切り捨てない社会
6・1 弱者と暮らす日常
6・2 高齢者の味方「フリーダムパス」
6・3 寄付社会の弊害
6・4 マークス&スペンサーの取り組み
6・5 アルツハイマー協会
6・6 マギーズセンター
おわりに