第三章 仰木彬と梨田昌孝――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則
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第三章 仰木彬と梨田昌孝――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則

光文社新書

12月15日刊行の新刊『オリックスはなぜ優勝できたのか』第三章の冒頭を公開します。以下、本書の概要です(光文社三宅)。
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下馬評を大きく覆し、2年連続最下位からのペナント制覇は、いかに成し遂げられたのか? 逆に、なぜかくも長き暗黒時代が続いたのか? 黄金期も低迷期も見てきた元番記者が豊富な取材で綴る。

1994年の仰木彬監督就任まで遡り、イチロー、がんばろうKOBE、96年日本一、契約金0円選手、球界再編騒動、球団合併、仰木監督の死、暗黒期、2014年の2厘差の2位、スカウト革命、キャンプ地移転、育成強化、そして21年の優勝までを圧倒的な筆致で描く。

主な取材対象者は、梨田昌孝、岡田彰布、藤井康雄、森脇浩司、山﨑武司、
北川博敏、後藤光尊、近藤一樹、坂口智隆、伏見寅威、瀬戸山隆三、加藤康幸、牧田勝吾、水谷哲也(横浜隼人高監督)、望月俊治(駿河総合高監督)、根鈴雄次など。

12月15日発売! 現在予約受付中です。

以下、すべての抜粋記事を読めるマガジンです。

「なんじゃ、この練習は?」

第三章 仰木彬と梨田昌孝

〝イチロー・ロス〟ともいえる低迷と混乱が、オリックスには続いていた。
2001年(平成13年)に2年連続Bクラスとなる4位に終わり、仰木彬は8年間の監督生活にピリオドを打った。
イチローとともに「オリックスの顔」としてチームをけん引してきた田口壮も、FA権を行使して、メジャーのセントルイス・カージナルスへ移籍した。
阪神・淡路大震災を乗り越え、リーグ連覇と日本一に輝いた時の主役たちが、一人、また一人と神戸の地を去っていく。
仰木も、イチローも、田口もいなくなった2002年から2004年、オリックスは3年連続最下位という、屈辱の成績が続くことになる。
その低迷の真っ只中に、中日からトレードでやって来たのが山﨑武司だった。

山﨑は、中日の顔、そして名古屋を代表する〝地元の英雄〟だった。
愛知の名門・愛工大名電高から1986年(昭和61年)にドラフト2位指名を受け、中日に入団。オリックスが巨人を下して日本一に輝いた1996年(平成8年)には、39本塁打を放って、セ・リーグの本塁打王にも輝いている。
その豪快なバッティングもさることながら、自らの思いを名古屋弁で臆することなく、堂々とまくしたてる。その一本気な性格で、首脳陣と真っ向から衝突してしまったのが2002年(平成14年)のことだった。
その前年、FA権を取得した山﨑は、他球団への移籍を決意していた。
ところが、2002年(平成14年)から監督に就任する山田久志が「お前は必要な選手」と、わざわざ山﨑のもとを訪ねてきて、説得したのだという。
その男気に打たれて中日に残留した山﨑だったが、山田との蜜月状態は長く続かなかった。
「春先、コケてたのよ。ちょっと調子が上がらなくてね。一応、レギュラーも張ってたわけじゃん。だから、そりゃないだろ、って正直思ったけど、2軍に落とされた。その時は文句を言ってなかったのよ。上がって、代打で使われて、打てんかったのよ」
その試合翌日だった。新聞に山田のコメントが掲載されていた。
「チームを奈落の底に落とす選手がおったら、勝てんわな」
チャンスで凡退した山﨑のことを、暗にほのめかしていた。
「監督、これ、僕のことですよね」
山田と試合前に出くわした山﨑は、直接そう尋ねたという。
「そりゃ、お前のこととは限らんぞ」
はぐらかす山田の軽い口調に、山﨑の心の中で、張りつめていたものが切れた。
「このままドラゴンズに3年契約で6億円もらって、残ってて何もせずにいるのは、もう耐えられんかったよね」
3年契約、総額6億円で残留した自分の立場が、自分で情けなくなったのだ。
山﨑は、球団首脳に「出してくれ」と直訴したという。
その情報に反応したのがオリックスだった。
1995、96年のリーグ連覇の際、若きクローザーとして活躍し、新人王にも輝いた右腕・平井正史を交換要員として、山﨑とのトレードを成立させた。
「自分の生きる場所があるんじゃないかと思ったんです」
低迷するオリックスだからこそ、自分の力を必要としてもらえる。しかも2億円の年俸は、山﨑によると、中日とオリックスの折半だったという。
「ドラゴンズも、最大限やってくれたんでね」
己のプライドをかけて、オリックスに来た。中日の恩義にも応えたい。
しかし、山﨑のその意気込みは、早くもくじかれてしまう。

京セラドーム大阪

2003年(平成15年)2月1日、宮古島キャンプ初日。
「なんじゃ、この練習は? って思った。そりゃ、弱いはずだわ。たるかったんですよ、練習がね。パ・リーグって、こんなにぬるいの? って」
山﨑が中日にいた当時、監督は星野仙一だった。
鉄拳制裁が、厳しさの象徴として〝是〟とされていた時代でもあった。星野の鋭い視線が飛んだ先では空気がピンと張り詰め、怒声でも飛ぶようなことがあれば、そこにいる選手はおろか、近くにいた番記者ですら震え上がった。
名古屋で絶大なる人気を誇り、球場にも、キャンプ地にも、それこそドラゴンズの動くところに、ファンがいた。常に見られていたその緊張感は、半端じゃなかったという。
「星野さんの下で、ピリピリのキャンプをやってたからね。オリックスは、ホントにぬるぬるだった。低迷期に入ったからかな、やっぱり選手個々に負け犬根性がついていたよね。楽天でも経験したけど、負けてたら、また明日、明日、って。ただそれだけ。なぜダメだっていう解決法を考えていないっていうのかな、今思えばね」
全体練習が終わると、選手たちはさっさと宿舎に引き揚げていく。個人練習というのは個々の目的意識があって、初めて取り組めるものでもある。
山﨑には、チーム力が低下していくその〝根本〟の部分が見えてしまった。
「選手の意識も薄かった。あの当時だけど、ドラゴンズとオリックスのレベルは全然違った。技術以外のところでも、ちょっとこれは違うなと。やっぱり弱いチームって、こんなんなんだとすごく思った。とんでもないところに来ちゃったな、って思ったよ、正直」
そんな中で、プロ意識のある山﨑を、監督の石毛宏典は頼りにしていた。
「俺、石毛さん、嫌いじゃなかったんだ。ホントに熱い人だったしね」
その石毛は、2年目の2003年、つまり山﨑がオリックスに来た年に、わずか開幕20試合で解任される。フロント主導での選手補強と石毛の起用法が噛み合わなかったのだ。
札幌ドームでの解任だった。その試合前、山﨑は石毛に監督室へ呼ばれた。
「俺、きょうが最後の試合だから、タケシ、4番打て」「えっ? まだ4月ですよ」
打撃コーチだったレオン・リーが監督を引き継いだが、2年連続の最下位。翌2004年は元西武の監督で優勝経験のある伊原春樹が監督に就任した。

石毛から伊原。オリックスが、強かった西武の「個の力」と「チームの規律」を重んじる厳しいマネジメントの監督のもとで、チームの再建を図ろうとしていたのが分かる人選でもある。伊原も、選手個々の自覚を重んじた。
宮古島キャンプでバント練習が始まろうとした時だった。山﨑と谷佳知、ルーズベルト・ブラウン、ホセ・オーティズの4人を伊原は呼んだ。
「お前らは、バントの練習には入らなくていい。お前らにバントはねえから、この練習はせずに、もう帰っていいぞ」
その信頼ぶりに「この監督、なかなかやな、って思ったんだよ」
ところが、シーズンに入ると、山﨑にバントのサインが出た。
「別にそれだったら、やれと言うならやるんですよ。お前にバントのサイン出さねえって言っといて、4月にやっとるでね。ビックリするわ」
故郷・ナゴヤドームでの西武戦。その試合告知のポスターは、山﨑がメーンだった。
「監督、名古屋ではお願いします」
生まれ故郷であり、かつての本拠地への凱旋。気合も入る。ただ、温情をかけてもらわなくても、山﨑の実力なら、十分に「4番」は張れる。
名古屋では、いいところを見せますから、という山﨑の決意表明でもある。
4月27日からナゴヤドームでの西武3連戦。山﨑は初戦に2安打。ところがその試合で谷が左ひざを強打。翌28日はDHで谷を起用するため、山﨑が割を食うことになった。
話が違う。よりによって名古屋だ。地元の関係者もたくさん招待していた。
「俺のわがままかもしれないけど、いや、おかしいでしょと。キャンプの時から、監督には『名古屋だけはお願いしますよ』って言っとったからね」
山﨑は、監督室へ直談判に乗り込んだ。
「あんたじゃ話にならんから、中村GMのところに行きます」
「お前、こんな状態じゃ、野球やれんな。帰っていいよ」
「ほな、さいなら」
売り言葉に買い言葉で、山﨑は試合前のナゴヤドームから、そのまま愛知県内の自宅へと帰っていった。翌29日には出場選手登録が抹消され、球団から発表された理由は「風邪による発熱」だった。
「もう、今年で辞めようと思った」
気持ちが、ぷっつりと切れてしまった。2003年、山﨑はチーム日本人最高の22本塁打を放っていたが、04年はわずか62試合出場、37安打にとどまっている。

後に楽天に移籍、2007年(平成19年)の39歳になるシーズンで、本塁打と打点の2冠に輝き、中年の星としてその復活が称えられた男は、現役通算1834安打。オリックスでの2年間、わずか120安打に終わったことを、ちょっぴり悔やんでいる。
「あの時、もうちょっとまじめにやっとりゃ、2000安打を打てたのにな」
そう笑って振り返った山﨑にも、球界再編の嵐が襲い掛かった。
「球界再編がどうのこうの、ごちゃごちゃしていた時、いろいろミーティングもあったけど、俺、もう関係ねえから、帰っていいかなと思ったくらいだった。全然、興味がなかったんだ。もう現役は退く、野球から身を引くと決めて、やんちゃ飛ばしてたからね。
今思えば、あのオリックスでの辛い2年間があったからこそ、楽天の7年もあったと思うんだけど、とにかく野球から逃げ出したかったよね。あの2年、修行の身でした」
低迷期の真っ只中、オリックスが球界再編への口火を切った。(続く)




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